112 有紗の願い
「あれ、どうしたの。有紗ちゃん」
午後7時を過ぎて、出勤したばかりの樹が有紗を見つけてやって来た。
「樹さん、遅いですよ」
ユーキと別れてすぐ「トワイライト」に向かった有紗は、開店した6時を少し過ぎたころから、樹が来るのを待っていた。
「俺にしては早いんだけどなぁ」
樹はトサッとソファに腰を下ろし、タバコを取り出す。すると、有紗が咄嗟にライターの火を差し出した。
「有紗ちゃん、ちょっと見ないうちにいい女になったね」
「え?」
「気遣いが行き届いてる。さすがユーキが目をかけた子」
下唇を突き出して、樹は煙をフゥ〜と吐き出した。
「ユーキさんを見てるからです。ユーキさんは、どんなときでも気遣いのできる人じゃないですか。あたしは一緒にいて、自然とそれを真似するようになってるんですよ」
そう。買い物にしても、ユーキはお客の立場なのに、店員への気遣いができていた。ユーキほど「ありがとう」の言葉を絶妙に使い分けられる人間なんていないのではないか、とさえ思えるくらいに。
「一生かかっても、ユーキさんには感謝し足りない。そんな人だから、幸せになってほしいって、願ってます」
樹は組んでいた足を下ろすと、前に屈んで、有紗のほうを見た。
「うん。俺も、ユーキには幸せになってほしい」
ユーキはもともと、この世界には望んで入ったわけじゃない。ユーキにはもっと、違う運命が用意されているはずだった。それが、他人によって、狂わされたのだ。
もちろん樹も、その中に入っている。キャバクラで働くことを提案したのは、樹だったのだから。たとえそれを、ユーキがすんなりと受け入れたとしても。
「ユーキさんは樹さんと幸せになるんだと思ってました。でも、ユーキさんは、青山朱葵と出会ったんですね」
「それが運命ってやつなのかもな」
有紗から顔を背けて、樹は煙を吐いた。
そう。運命は狂ってしまったけれど、そこからだって、幸せになることはできる。ユーキは新たな運命を生きて、新たな幸せを見つけたのだ。
「ユーキさんの運命の相手が青山朱葵なら、あたしは2人の幸せを願います。そのためなら、何だってできる。樹さん、あたしには今、何ができますか?」
「今?」
樹は不思議そうに、顔をしかめる。
「樹さん、知らないんですか? 3日前のニュース」
「3日前? さぁ、テレビはあんまり見ないから」
樹にとって、知識を得るための情報源は新聞と雑誌で十分だ。樹は芸能界に疎く、お客でマスコミ関係者がいても、ヘルプにフォローを任せる。ユーキと同じく、ホスト仲間から信頼されているのだ。
有紗は、3日前に朝からニュースで報道されていた朱葵のスキャンダルのことを、樹に話した。そして、ユーキがそれ以来、指輪をしなくなった、ということも。
「ふ〜ん。スキャンダルね」
樹は頬杖をついて、ふっと笑みを見せる。
「あたし、2人が離れてるって知りませんでした。でも、ユーキさん、ずっと笑ってました。本当に幸せそうだったんです。スキャンダルが発覚した今だって仕事は完璧ですけど、笑った顔に気持ちがこもってないっていうか・・・・・・。青山朱葵だって最低でもあと1か月は京都にいるらしいし、今のままじゃ、ユーキさんが可哀相です」
とっくに揉み消したタバコのフィルターが、鼻に苦い刺激を与える。焦げた匂いが妙に鼻先に染み付いて、消えない。
樹はフン、と鼻を鳴らすと、言った。
「あの2人はそんなんばっかりだな」
「え?」
「有紗ちゃんが心配することじゃない。このパターンだと、多分・・・・・・」
樹は頬杖をついた手を離すと、にやっと口元を緩ませる。
「何ですか?」
「いや? まぁ有紗ちゃんは今のままでいいんだよ。ユーキを超えるつもりで頑張って」
樹はくっ、と笑いを噛みしめながら、有紗の肩をポンと叩いた。