111 カフェ
スキャンダル発覚から3日後の物語です。
月初めの日曜日は「フルムーン」の定休日。ユーキは有紗と、新宿に買い物に出かけていた。
「ユーキさん、どこかで休みませんか?」
「そうね。あ、じゃあ近くにカフェがあるから、そこに行く?」
有紗がそれに頷き、2人は南口を出てすぐのカフェに入った。
午後4時を過ぎていた。時間を気にしなくてもいい定休日は、ユーキはよく外へ出かける。日頃のストレスは、ショッピングで解消できるのだ。
「ユーキさん、今日すごく買い物してますね」
「そう?」
こんな風に店の女の子と出かけることもあるが、そういうときユーキは、あまり自分の買い物はしない。服も靴も、バッグも、1人で出かけたときに買うことが多い。女の子と行くと、彼女たちに似合うものを選んでばかりいるせいだ。
「有紗ちゃんは自分に合うものも分かってるし、あたしが口出す必要がないからね」
「そんな、ユーキさんのアドバイスがなきゃ、あたしなんて・・・・・・」
「そんなことないわ」
ユーキは優しく笑って、言った。
「あたしがいなくなったら、有紗ちゃんにナンバーワンになってほしいわ。ううん、有紗ちゃんしかいないのよ」
運ばれてきた2つのアイスティのグラスに水滴がじん、と湧いたのを、ユーキはナプキンで丁寧に包む。
その仕草を見た有紗は、そんな気遣いができるのはユーキくらいだ、と、感嘆の溜め息を吐く。ユーキに敵う人なんていない。改めて、そう感じる。
「いなくなったら、なんて、言わないでください」
有紗も働き始めて1年が経ち、先月、「フルムーン」のナンバー2に選ばれた。それは、1年半かかったユーキよりも早い。だけど、ユーキとは明らかに指名客が違う。数はもちろん、お客の層だって違いすぎる。
「あたしなんか、まだまだユーキさんの傍で学ばなきゃいけないことがたくさんあるんですから」
「う〜ん、自信持っていいのに」
ユーキはアイスティに手を伸ばして、言った。ストローをつまんだその指に、有紗はある違和感を感じる。
「・・・・・・ユーキさん。指輪はどうしたんですか?」
ユーキは「え?」と小さく言うと、自分の指に視線を落とした。
「あぁ、服に合ってなかったから」
それだけ言って、窓のほうに顔を向けてしまった。
――ユーキさん、やっぱり・・・・・・。
有紗は、気づいていた。
ユーキは3日前から、指輪をしなくなった。あの左中指のリボンの指輪。朱葵からの贈り物。
服に合わない、なんてことはない。ユーキはそれまで、毎日その指輪をつけていたのだから。それにあれは、服を選ばないほど素敵なものだった。
「ユーキさん」
有紗は、ある確信を持つ。
「ん?」
外に向けられていたユーキの視線は、不意に、有紗へと注がれた。
「あの・・・・・・」
「どうしたの?」
微笑むユーキの影に、寂しそうな表情がほんの少しだけ見えた。
「・・・・・・いえ。ここ、オシャレなカフェですね。よく来るんですか?」
その笑顔に隠された気持ちに気づいた有紗は、結局、続きを言えなかった。
「あたしもここは、と・・・・・・」
「え?」
「あ、ううん。あたしもここは2回目なの」
そう言って、ユーキはまた、窓に顔を映した。
――そういえばここは、朱葵くんと初めて来たんだ。
朱葵のドラマの役作りのために、樹を紹介することになった夜。待ち合わせたのは、朱葵がよく1人で訪れるという、このカフェだった。
「もう出ようか」
ユーキは席を立った。ここに思い出は多くないけれど、ここから始まった思い出は、あまりに多すぎる。
――もう来ない。きっと。
テーブルに残された飲みかけのアイスティには、まだ水滴がじわりと湧いていた。
「あたしもここは、朱葵くんと初めて来たの」という、言いかけて止めた言葉とともに。
カフェを出ると、風はいつの間にか冷たさを纏っていて、昼の暖かい空気は消えてしまっていた。空は雲を帯び、しだいにひとつの大きな塊を成そうとしている。
「雨が降るかも。そろそろ帰ろうか」
ユーキは荷物が多いのでタクシーで。有紗は「電車で帰る」と言った。
「一緒に乗っていっていいのに」
「いえ、ちょっと寄るところがあるので」
「そう。じゃあまた明日ね」
ユーキを乗せたタクシーが完全に見えなくなるまで遠ざかっていくと、有紗は、歌舞伎町に向かって歩き出した。