105 順調、だけど悩む
撮影初日。
「もう1回」
最初のワンシーン、いきなりの監督のダメ出し。どこが悪いのか分からないのに、監督はそれ以上言わない。その日、朱葵は、結局一度もOKを貰えなかった。
夜、朱葵は監督に呼び出された。
「君のイメージする主人公はどんな人間だ?」
「君はこのとき、どんな気持ちで演じている?」
と、監督からいくつか質問され、朱葵は自分の思った通りに答えた。すると監督は最後に朱葵の肩をポン、と叩き、こう言った。
「君の演技は今まで見てきた。とてもいい。だけど今回に限っては、君はこの役に気負い過ぎてる。もっと力を抜いて演じてほしいんだ。君らしさを主人公の青年に生かしてやってくれないか」
その瞬間、肩はスルリと軽くなり、頭の中で唱えていた「頑張らなければいけない」という重圧が、消えていった。
初出演にして初主演の映画、大物監督からのオファー、京都までやってくる取材陣。
周囲から注がれる期待感を、朱葵は、知らずのうちにプレッシャーとして抱え込んでいたのだった。
それから朱葵は少しずつ、今まで決め付けていた主人公のイメージを、壊し始めた。
「よしOK!!」
これまで「もう1回」を続けていた監督が始めてこの言葉を口にしたのは、撮影3日目の、朝だった。
* * *
1か月が過ぎて、朱葵は、順調に撮影をこなしていた。最初のころは「違う」と言われていた演技も、最近では「そうだ」と、言われるようになった。
「だいぶ安定してきたじゃないか」
ある日の撮影終わり、東堂は朱葵に声を掛けた。
「そうかな。そうだったらいいけど」
「この調子でいくと3か月で終わるかもしれないな」
朱葵はそう聞いて、嬉しそうに顔を綻ばせる。
――頑張るだけ、ユーキさんに早く会えるんだ。
この1か月は時間にも気持ちにも余裕がなくて、メールも簡単なものになっていた。電話なんて京都入り初日以来、一度もかけていない。
「ユーキさん、怒ってるかな」
「え?」
「全然連絡してないでさ、仕事ばっかりだったから」
ホテルの廊下、ラウンジに向かう短い道を、朱葵は不安そうに歩く。
「それは向こうも同じだろ。彼女からメールとか電話は来るのか?」
「苦手なんだって」
東堂は意外そうに「へぇ」と言うと、「キャバクラ嬢なのに」と、鼻を鳴らして笑った。
「でもその前に、あの子、何とかしろよ」
ラウンジの前まで来ると、東堂はフイッと顔を振った。
「う〜ん・・・・・・」
朱葵は気まずそうに髪を掻く。と、その姿をラウンジの中から見つけた噂の相手が、こちらに向かって手をぶんぶんと揺らした。
「あっ朱葵さ〜ん!!」
朱葵と東堂は顔を見合わせると、向こうに気づかれないように小さく息を漏らした。
「行くか」
東堂が朱葵の背中を押して、2人はラウンジに入る。
ラウンジには撮影終わりの役者たちが揃っていて、ほとんどが食事を終えて、部屋に戻っていくところだった。朱葵は挨拶をしながら、入れ替わりにラウンジを進む。
朱葵と東堂を悩ませる女、もとい、真咲ユリも、食事を終えて部屋に戻っていく――と、思っていた。
「朱葵さん、これからなんですか? ユリももうちょっと食べよっかなぁ」
バイキング形式なので、何度でも食事を取りにいける。朱葵が皿に料理を載せていた横に、ユリも皿を持って、やって来た。
「そんなに食べるんですかぁ。すご〜い」
些細なことで話しかけられては、なるべく表情を顔にださないように努めて、言葉少なめに返す。それがもう1か月も続いていて、朱葵は、ユリにうんざりとしていた。
「ごめん。まだ打ち合わせがあるから」
と言って、東堂と、離れた席に座る。だが、いい加減その言い訳も使い飽きてしまった。
スキャンダルには気をつけろ、と言われても、彼女のほうから来るのを避けてはいられない。3か月間、共演しなければならないのだ。その場の雰囲気を悪くしたくない。
――どうするかな。
1週間後には、朱葵の密着取材が行われる。それは映画の様子だけではなくて、合間や食事の様子も撮るというものだ。映画の宣伝にもなるからとプロデューサーに言われて断りきれなかった、と、一昨日、東堂が言った。
「いつものようにあの子を馴れ馴れしくさせるなよ。テレビは勘違いする」
「俺は何もしてないよ。それに、大丈夫でしょ」
いくらなんでも取材中にまで寄っては来ないだろう。
だが、その甘えが、1週間後、朱葵に痛手を負わせることになるのだった。