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お義母様、息子さんは置いていきましょう  作者: 九葉(くずは)


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第1話 使わなかった切符

「イーネなら母さんと仲良くやっている。俺がいなくても寂しくないさ」


 夫の声に、廊下で足が止まった。

 書斎の扉が少し開いている。隙間から見えたのは、夫の膝に置かれた女の手と、その指先に口づける夫の横顔だった。

 隣にいたお義母様が、私の腕を掴んだ。


 今日は劇場へ出かけるところだった。夫も来る約束で、玄関には三人分の馬車用の毛布が積んである。昨夜、芝居の話をしたら、忙しいと言って食堂を出てしまった。今朝も姿を見せないので、私たちが迎えに来たのだ。


「奥様がかわいそう」

 女は笑いながら言った。

「気にするな。母さんの相手をするのが好きなんだ」


 扉を閉めようと手を伸ばした。閉めてどうするのか、自分でもわからない。ただ、お義母様にこれ以上聞かせたくなかった。

 その手を止められた。


「あなた、こういうことがあるたびに、私と出かけていたの」


 私は答えられなかった。

 四年の間に、一緒に観た芝居はいくつあっただろう。夫に断られても、お義母様を誘えば切符は無駄にならなかった。


「私、あなたが楽しんでいるとばかり」

「楽しかったです」

 それは本当だった。

「でも、今日は、あの人と行きたかったんです」


 言ってから涙が出た。浮気より先に芝居の話をして泣く自分が、情けなくて腹立たしい。

 お義母様は書斎の扉を睨んだ。何か言おうとして唇を動かし、結局、私の手から使わない切符を一枚抜き取った。


「私が、我慢していればいいと言ったのよね」


 いつものように頷こうとして、やめた。

 お義母様の手の中で切符が折れた。書斎からはまだ笑い声がしていた。


 女の顔には見覚えがある。ベルタ様。春の園遊会で、私の帽子を褒めた方だ。

 その時、夫の腕に触れていたのも覚えている。帰りの馬車で気になったと話したら、夫は笑い、お義母様も悪気はないのよと言った。

 私は失礼なことを考えたのだと思って、次の集まりでは自分からベルタ様に挨拶した。


 お義母様が扉を押した。


「ロジェ」


 夫は、叱られた子どものような顔をした。驚いて立ち上がった拍子に、膝に載っていた手を払い落とした。

 ベルタ様が短く声を上げる。


「母さん。どうして戻ってきたんだ」

「まだ出かけていません」

「御者には、僕は行かないと伝えたよ」


 夫の目が私に移った。


「聞いていなかったのか?」


 御者には言った。

 私には言わなかった。

 今朝、三人で出かけるつもりで髪を結い直した。夫に綺麗だと言われたことのある、青いリボンを探した。見つからなくて侍女の手まで借りた。

 馬鹿みたいだった。頭の後ろに結んだものを、今すぐ引き抜きたかった。


「ベルタ、すまない。客間で待っていてくれ」


 夫が彼女の肩へ手を添えた。

 さっきまで口づけていた指を見ないようにしていたのに、今度はその手が目に入る。


「母さんとは、僕から話すから」

「私も、いた方がよろしいのでは?」

 ベルタ様は小さく首を傾げた。

「奥様に誤解をされたままでは、私も困ります」


 誤解。

 何をどう見れば、誤解になるのだろう。


「では、今のは何だったのですか」


 思ったことが口から出た。ベルタ様の顔から笑みが消える。

 声が変に上ずって、言い終えた後に息が切れた。ベルタ様は私ではなく、夫に答えを求めるように顔を向けた。


「イーネ。そういう言い方はやめなさい」

 夫の声が硬くなった。

「客人に対して失礼だろう」


 お義母様が夫の前に立った。


「その人を連れ込んだのは誰です」

「家の中で騒がせたことは謝る。だが、ここで言い争っても仕方がない」

「騒がせたこと?」

「母さん、落ち着いてくれ」


 私は二人の横に立っていた。

 夫はお義母様の肩を抱こうとして、避けられた。ベルタ様は手袋を片方ずつはめている。誰も、私が何を言うかは待っていなかった。


 帰ったら夫と話そうと思ったことが、何度もある。

 お義母様が眠ってから。夫の仕事が片づいてから。疲れていない日に。腹を立てていない時に。

 そうして選んだ日にも、夫はたいてい外にいた。


「イーネは部屋へ戻っていなさい」


 ようやく夫が私に言った。


「話は後で聞く。今日は二人とも興奮している」


 頷きかけた。

 廊下へ出て、顔を洗って、侍女にお茶を頼めばよかった。結婚してから何度もそうしたのだから、難しくはない。

 そうしているうちに、お義母様が夫を叱ってくださる。

 夫は面倒になって謝る。

 私は、よかったわねと言われる。


「いつですか」

「何が」

「後というのは、いつですか」


 夫は眉を寄せた。


「だから、今これを片づけてからだと言っている」


 私は扉の取っ手から手を離した。出ていく方へ向けていた体を、夫の方へ戻す。

 胸元を押さえて息を吸った。夫の顔が涙でぼやけて、見たくない部分まで見えなくなってくれたのは助かった。


「離縁してください」


 お義母様の手が止まった。

 夫は一瞬だけ黙り、それから、私の聞き間違いのように笑った。


「何を馬鹿なことを言っているんだ」


 私はもう一度、同じことを言わなければならなかった。

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