第14話:尋問室のオーケストラ、誘導尋問と琥珀の中の共犯者
午前十時。所轄署の四階。
窓枠にこびりついた煤煙と、長年染み付いた安煙草のヤニの匂い、そして古びたスチール机が放つ微かな鉄の臭気。五感を否応なく削り取っていくような、無機質で暴力的な空間。
「それでは、奥様とは別々にお話を伺います。あくまで念のための、個別の確認ですから」
署に到着するなり、佐倉刑事は僕たちを分断した。
僕が通されたのは「第三取調室」。美穂はおそらく、廊下の反対側にある部屋だろう。翔太は別室で、女性警官とカウンセラーの同席のもとで待機させられているはずだ。
典型的な「囚人のジレンマ」の構築。
共犯者を物理的に引き離し、疑心暗鬼の種を植え付け、情報の非対称性を利用して自白を引き出す。警察機構が数百年かけて洗練させてきた、最もアナログで、最も凶悪な心理的ハッキングの手法だ。
パイプ椅子の冷たい感触が、スラックス越しに僕の臀部から脊髄へと這い上がってくる。
目の前に座る佐倉は、ゆっくりとノートを開き、ボールペンのノックをカチ、カチ、と二回鳴らした。その一定のリズムが、室内の重苦しい空気を秒針のように刻んでいく。
「さて。サイバー課の連中が、君嶋邸のルーターのログを復元したよ。君の言う通り、午前二時台に東欧のプロキシサーバーを経由した高度な侵入痕跡があった」
佐倉の落ち窪んだ目が、僕の表情筋の僅かな収縮すら見逃すまいと、ねっとりと絡みついてくる。
「被害者の会社――君嶋化学工業の不正隠蔽問題とも時期が重なる。本庁の連中は、『外部のプロのヒットマンによる暗殺』という線で色めき立っているよ」
「……そうですか。ならば、早く犯人を」
「だがね」
佐倉は僕の言葉を遮り、身を乗り出した。ヤニと缶コーヒーの混ざった口臭が、机を越えて僕の顔を叩く。
「私はどうも、腑に落ちない。凄腕のハッカーにしては、足跡が『美しすぎる』んだ。それに、先ほど奥さんに話を聞いたんだが……彼女の証言と、君の証言に、奇妙な『ズレ』が生じていてね」
来た。誘導尋問だ。
僕の脳内のアルゴリズムが、レッドゾーンに突入し、超高速で回転を始める。
「ズレ……ですか?」
「ああ。君はあの夜、『ずっと二階の奥の部屋で翔太くんとノイズキャンセリングのヘッドホンをして作業をしていた』と言った。だが、奥さんはこう言っている。『夜中の一時頃、君が一階のキッチンへ水を飲みに降りてきたのを見た』とね」
佐倉の目が、蛇のように細められる。
「もし君が一時頃に一階にいたのなら、犯人が侵入するための窓の鍵を開けることもできたはずだ。……奥さんは、なぜそんな嘘をついたんだろうね? それとも、君が嘘をついているのか?」
沈黙が、取調室を満たす。
僕の心拍数が跳ね上がりそうになるのを、極限の理性で押さえ込む。
佐倉は嘘をついている。美穂がそんな無用な証言をするはずがない。これは、僕の動揺を誘うためのブラフだ。しかし、もしここで僕が「妻が嘘をついている」と反論すれば、二人の間に亀裂があることを認め、警察の揺さぶりに乗ることになる。「僕は降りていない」と単に否定するだけでは、防御に回るだけで主導権を握れない。
思考しろ。演算しろ。
分厚いコンクリートの壁の向こうにいる、美穂の思考回路を完全にトレース(追跡)するんだ。
彼女なら、あの佐倉のネチネチとした尋問に対し、どう振る舞う?
喪服に身を包み、ジャスミンの香りを漂わせながら、彼女は絶対に「完璧な悲劇の未亡人」のペルソナを崩さない。怯え、涙を流し、亡き夫への愛と、息子への庇護欲だけを主張するはずだ。そこに、僕という「息子の友人」を陥れるようなノイズを自ら混入させる合理性は、彼女の完璧なエゴイズムの体系には存在しない。
僕と美緒は、言葉を交わさずとも、凶行の夜に交わった体液と、共有した死の匂いによって、分断不可能な「琥珀」の中に閉じ込められた共犯者なのだ。
「……佐倉さん」
僕はゆっくりと顔を上げ、佐倉の蛇のような眼光を真っ直ぐに射返した。
「美穂さんが、そんなことを言うはずがありません」
「ほう? なぜそう言い切れる?」
「美穂さんは、あの夜からずっと……極度の睡眠不足と心労で、幻覚やフラッシュバックに悩まされています。もし彼女がそう言ったのなら、それは事件のショックによる記憶の混濁です。ですが……」
僕はそこで言葉を区切り、声のトーンを意図的に「怒り」の周波数へと調整した。
「あなたは今、美穂さんがそんな証言をしていないのに、僕を試すために嘘をついたんじゃないですか?」
佐倉の眉間が、ピクリと微かに動いた。
「遺族を……夫を惨殺され、心を壊しかけている女性をダシにして、そんな三流の心理テストを仕掛けるのが、警察のやり方ですか」
ロジックに、パッション(義憤)の偽装コーティングを施して反撃を叩き込む。
佐倉は数秒間、僕の顔を睨みつけていたが、やがて「ふん」と鼻を鳴らして背もたれに寄りかかった。
「……食えない学生だ。だが、君たちの証言にはまだ物理的な矛盾がある。翔太くんの存在だ」
佐倉が、最後にして最大のカードを切ってきた。
「翔太くんは、犯人が逃げた後、父親を助けようとして凶器のネクタイピンを抜いたと証言している。……だが、彼が本当にそれを抜いたのなら、指紋がべったりと残っているはずだ。鑑識の報告では、あのプラチナのピンから検出されたのは、被害者の血液と、手袋で擦れたような繊維痕だけだった」
佐倉の言葉が、冷たい刃となって僕の喉元に突きつけられる。
「翔太くんは、嘘をついている。あるいは、君たちが彼に『嘘を信じ込ませている』んじゃないのか?」
その時。
コンクリートの壁の向こう、廊下の方から、鼓膜を劈くような悲鳴が響き渡った。
「嫌だぁっ! 僕じゃない! 僕じゃないんだぁっ!!」
翔太の声だ。
佐倉が舌打ちをし、慌てて取調室のドアを開けて廊下へ飛び出す。僕もその後を追った。
廊下の突き当たりにある待機室の前で、翔太が床に蹲り、頭を抱えて獣のように泣き叫んでいた。女性警官が必死に彼を押さえようとしているが、翔太は狂ったように腕を振り回している。
「父さん……血が、血が止まらないんだ! 僕が、僕が抜いたから! 僕のせいで!」
翔太の目は完全に虚脱し、白目を剥きかけていた。過呼吸で胸が異常な速度で上下し、口の端からは泡立った唾液が垂れている。
「指紋がない……? 違う! 僕の手は血まみれだった! 血が滑って、うまく抜けなくて……ハンカチ……そうだ、僕、ポケットにあったハンカチを被せて、力一杯引き抜いたんだ……!」
僕は、息を呑む演技をしながら、心中で高らかにオーケストラの指揮棒を振り下ろした。
完璧だ。
翔太の狂乱。僕が昨夜、彼の脳髄の最深部に焼き付けた「悲劇のヒーロー」という偽りのプログラムが、警察の尋問という極限のストレス環境下で、自ら矛盾を補完するための「新たな偽の記憶(ハンカチを使った)」を生成したのだ。
人間の脳は、自己崩壊を防ぐために、どこまでも都合よく記憶を捏造(パッチ当て)する。
翔太の、顔面を涙と鼻水と唾液でぐちゃぐちゃにした圧倒的な「狂乱」のエネルギー。それが放つ悲痛なパッションは、どんな精緻なロジックよりも強固な事実として、その場にいるすべての警察官の心を打ち据えていた。
「翔太……!」
別の取調室のドアが開き、美穂が飛び出してきた。
彼女は喪服のスカートを翻し、床で暴れる翔太に覆い被さるように抱きついた。
「ああ、翔太……ごめんなさい、私を守ろうとしたばっかりに……こんな、こんなに心を壊してしまって……!」
美緒のすすり泣きが、廊下に反響する。
僕と美穂の視線が、錯乱する翔太の頭越しに、一瞬だけ交差した。
彼女の泣き崩れる顔の奥で、黒曜石の瞳だけが冷たく澄み切り、僕に向かって「これでチェックメイトね」とでも言うように、残酷な光を放っていた。
僕たちは、琥珀の中で完璧に共鳴していた。言葉など一切必要なかった。
佐倉刑事は、床で泣き崩れる母子の姿を見下ろしたまま、もはや一歩も動くことができなかった。
彼のアナログな猟犬の勘が、どれほど「この二人が怪しい」と警報を鳴らし続けていようとも。
サイバー空間の完璧な侵入ログと、それを補強する企業の闇。そして何より、目の前で精神を崩壊させている被害者の息子の、血を吐くような「真実の告白」。
これらすべての圧倒的な質量の前に、一個人の刑事の直感など、塵芥のように吹き飛ばされるしかないのだ。
「……もう、いい」
佐倉は、疲労困憊した様子で小さく呟き、肩を落とした。
「彼らを……休ませてやれ。これ以上の聴取は、ドクターストップだ。……事件は、二課の特捜本部に全面移管する」
佐倉が踵を返し、廊下の奥へと去っていく。その背中は、ひとまわり小さく、老け込んで見えた。
勝利のファンファーレが、僕の脳内で鳴り響く。
論理の迷宮に警察を誘い込み、最後は狂気の濁流で押し流す。僕と美穂が組み上げた、完璧な殺人の方程式。
しかし、床で狂ったように泣き叫び続ける翔太を見下ろした時、僕の胸の奥に、得体の知れない冷たい泥のようなものが一滴、落ちた気がした。
僕たちは、彼を壊した。いや、美穂という底なしの暗黒に、僕自身もすでに侵食され、後戻りできない狂気の深淵へと引きずり込まれているのではないか。
ジャスミンの甘い香りが、死の匂いを完全に上書きして、署の廊下に満ちていた。




