第10話:血塗られたネクタイピン、凶器の質量と引き返せない夜
雨の匂いが、まだ指先にへばりついていた。
正確には、雨の匂いに擬態した彼女の体液の記憶だ。
自室のベッドで目を覚ました時、窓の外はすでに白み始めていた。昨夜の暴力的なまでの豪雨は嘘のように上がり、雲の切れ間から白茶けた朝の光が差し込んでいる。しかし、僕の視床下部は依然として、あの深夜のシェアカーの密室――結露で真っ白に曇った窓ガラスと、むせ返るような熱気と甘美の助手席に囚われたままだった。
美穂の濡れた髪の感触。舌の裏側に残る微かな塩味と、人工的なアルデヒドの甘さ。
彼女の青緑色に変色した痣に唇を這わせた時の、滑らかで、それでいて異常な熱を帯びた皮膚の感触。彼女が僕を受け入れ、狂おしいほどの快楽の中で僕の背中に爪を立てたあの瞬間。
すべてが、現実と幻覚の境界線を溶かすような極彩色のノイズとなって、僕の脳髄を犯し続けていた。
僕は完全に「越線」した。
友人の母親を抱き、彼女を虐げる夫を殺すという絶対的な殺意を共有した。VEC-359という暗号を用いた合法的暗殺計画は、もはや後戻りのできない実行フェーズへと移行しつつある。僕はその事実を前に、恐ろしいほどの万能感と、胃の腑が溶け落ちるような破滅への渇望を同時に感じていた。
その時、デスクの上に放り出していたスマートフォンがけたたましく震え始めた。
着信画面には『翔太』の文字。
時刻は午前七時十五分。翔太がこんな早朝に電話をかけてくることなど、過去に一度もなかった。
心臓が、肋骨の裏側で冷たく跳ねる。
通話ボタンをスワイプして耳に当てた瞬間、スピーカーから飛び出してきたのは、言葉の形を成していない、動物のような喘鳴だった。
『……ひゅっ、あ、ああ……』
「翔太? どうした。翔太!」
『……血が。血が、止まらないんだ。僕、僕は……ちがう、でも、僕が……』
過呼吸に陥った翔太の声は、恐怖で完全に裏返っていた。
『助けて……助けてくれ……父さんが、父さんが……!』
通話が切れるよりも早く、僕はベッドから跳ね起きていた。
昨夜脱ぎ捨てたままの服をひっかき集めて袖を通し、部屋を飛び出す。
脳内のアルゴリズムが、猛烈な勢いで状況の解析を始める。
夫は今日の夜まで関西のプラント視察で不在のはずだった。美穂もそう言っていた。だからこそ、今夜、美穂の部屋で最後のテスト(VEC-359の精製に関する何か)を行う予定だったのだ。
だが、夫は帰ってきた。予定を早めて。
そして、君嶋邸で何かが起きた。翔太がパニックに陥り、血を流している夫の前にいる。
美穂は? 彼女は無事なのか?
昨夜、僕の腕の中で泣き崩れ、夫の暴力を訴えた彼女の脆い肩の感触が蘇る。もしあの男が、さらに美穂に暴力を振るっていたとしたら。
僕はタクシーを拾い、君嶋邸へと向かった。窓の外を流れる朝の街並みが、ひどく非現実的なスライドショーのように見えた。
君嶋邸の前に到着すると、僕はタクシーに紙幣を投げつけ、重厚なウォールナットの門扉へと走った。
門には鍵がかかっていなかった。
玄関の扉も、ほんのわずかに隙間を開けて半開きになっている。
あの、セキュリティに対してパラノイア的なまでの執着を持っていた男の要塞が、物理的に破綻している。その異常性が、僕の背筋に冷たい粟立ちを呼んだ。
靴を脱ぐのももどかしく、大理石の玄関ホールへと踏み込む。
家の中は、不気味なほどの静寂に包まれていた。空調の微かな稼働音だけが、無機質に響いている。
だが、僕の嗅覚は、この完璧に設計された空間に混入した「異物」の存在を瞬時に検知していた。
鉄の匂いだ。
古びた十円玉を手のひらで強く握りしめた時のような、あの酸化した金属の臭気。それが、高級なルームフレグランスの香りを凌駕し、廊下の奥から濃厚に漂ってきている。
匂いの震源地は、リビングではなかった。
その手前、左手にある重厚なオーク材の扉。夫のテリトリーである「書斎」だ。
扉は全開になっていた。
僕は息を殺し、書斎の入り口に立った。
そして、網膜に飛び込んできた光景に、全身の血液が急速に温度を失っていくのを感じた。
部屋の中央、マホガニーのエグゼクティブ・デスクの手前に敷かれたペルシャ絨毯の上。
翔太の父親――美穂の夫が、仰向けに倒れていた。
完璧に仕立てられたゼニアのスーツは、胸元から腹部にかけて、赤黒い液体で無惨に汚損されている。男の目は見開かれたまま空を見つめ、口からは一筋の血が流れ落ちて床の水溜まりと繋がっていた。
微かな胸の上下動。まだ、生きている。しかし、その呼吸は不規則で、空気が血の泡をすり抜けるような「ヒューッ、ゴボッ」という凄惨な音を立てていた。
そして、男の足元から数メートル離れた書斎の隅。
膝を抱えるようにして床にうずくまり、ガタガタと全身を痙攣させている影があった。
翔太だ。
彼は焦点の合わない目で宙を見つめ、自分の右手――赤黒く染まった右手――に握られた「何か」を、まるで理解できないエイリアンの臓器でも見るかのように見つめていた。
「翔太……!」
僕が声をかけると、翔太はビクッと肩を震わせ、ゆっくりとこちらに顔を向けた。
「あ、ああ……来て、くれたんだ……」
その声は、完全に現実感を喪失していた。
「僕、わからないんだ。……父さんが、帰ってきた……母さんに、手を上げて……止めたくて……僕、止めたくて……」
翔太の右手から、ポタ、ポタと血の滴が床に落ちる。
彼が握りしめていた凶器の輪郭を、僕の目が捉えた。
それは、刃物ではなかった。
プラチナ製の、異様に分厚く鋭利な、特注のネクタイピン。
夫が常日頃から、自らの権力を誇示するように分厚いシルクのネクタイに突き刺していた、工業用ドリルを思わせる無骨なデザインの装身具だ。
長さは十センチ近くあり、先端は布地を貫通するために錐のように尖っている。プラチナという極めて比重の重い金属で作られたその質量は、人間の脆弱な皮膚や筋肉を容易く貫通し、頸動脈や心臓に致命的なダメージを与えるには十分すぎる物理的特性を備えていた。
その凶器が、今は夫の血液でベットリと濡れ、翔太の手の中で鈍い光を放っている。
僕の脳内の論理回路が、感情を強制的にシャットダウンし、眼前の光景を冷徹なデータとして解析し始めた。
まず、絨毯に広がる血溜まりだ。
僕は無意識のうちに一歩前に出て、足元の血痕を観察した。
血は、中心部こそまだ粘性を持った液体だが、辺縁部――絨毯の繊維に染み込んでいる境界線――はすでに乾燥し始め、黒みを帯びた暗褐色へと変色しつつあった。
室温は空調で摂氏二十二度に保たれている。湿度は五十パーセント前後。
この環境下で、これほどの質量の血液が辺縁部から凝固・乾燥を始めるには、流出から最低でも『三十分から四十分』の時間が経過していなければならない。
しかし、翔太が僕に電話をかけてきたのは、わずか二十分前だ。
その時の彼のパニック状態は、間違いなく「たった今、惨劇を目の当たりにした」直後の人間の反応だった。
時間のズレ(タイムラグ)。
致命的な矛盾。
翔太が刺したのではない。彼が現場に駆けつけ、この凶器を拾い上げるよりも数十分前に、すでに夫は何者かによって刺されていたのだ。
「……気づいたかしら」
背後から、声が降ってきた。
心臓が凍りつくような、それでいて下腹部の奥底から狂おしいほどの熱がこみ上げてくるような、アルトの囁き。
振り返る。
書斎の入り口の暗がりに、美穂が立っていた。
彼女は、昨夜の雨で濡れたシルクのナイトガウンではなく、純白の肌触りの良さそうなカシミヤのガウンをふわりと羽織っていた。
その立ち姿には、夫が血の海に沈んでいる惨劇の場に似つかわしくない、完璧なまでの静謐さが漂っていた。彼女の顔に、恐怖や焦燥の色は一切ない。
ただ、彼女の首筋から胸元にかけて漂う、あのジャスミンとアルデヒドの暴力的なまでの甘い香りが、血の錆びた匂いを圧倒して僕の鼻腔を侵略してくる。
「美穂さん……これは、一体」
僕が絞り出すように言うと、美緒は音もなく絨毯の上を歩み寄り、僕のすぐ傍に立った。
距離にして、わずか数センチ。
彼女の体温が、カシミヤのガウン越しに僕の右半身に伝わってくる。昨夜、僕の肌を焼き尽くしたあの異常な熱。
美穂は、床で痙攣している夫にも、虚脱状態の翔太にも一瞥もくれず、ただ僕の瞳だけを真っ直ぐに見つめ上げた。
「この人が……」
美穂の唇が、僕の耳元に近づく。
「私が……VEC-359の精製を始めていることに、気づいたのかもしれない。この人、書斎で私を問い詰めて、殴りかかってきたわ」
彼女はそう言いながら、自らのガウンの襟元をわずかに引き下げた。
そこには、昨夜僕が唇を這わせた青緑色の痣に重なるように、新しくつけられた赤い打撲痕がくっきりと浮かび上がっていた。
それを見た瞬間、僕の内部で、論理の矛盾を指摘しようとする冷静な理性が、彼女への猛烈な庇護欲と、夫への純粋な殺意によってドロドロに溶かされていくのを感じた。
「でも……時間が、合わない」
僕は震える声で、必死に論理の糸にすがりつこうとした。
「血の乾き具合から見て、彼が刺されたのは三十分以上前だ。翔太が電話をしてきた時間とズレている。……まさか、あなたが」
「ええ、私が刺したわ」
美緒は、まるで「今日の夕食はフレンチよ」とでも言うような、極めて自然なトーンで肯定した。
脳髄をハンマーで殴られたような衝撃。
「もみ合いになって……彼がネクタイを外した時にテーブルに置いた、あのピンを握りしめて、思い切り。首の付け根に」
美穂の細く白い指先が、僕の胸元にそっと触れた。
「でも、致命傷にはならなかった。彼は倒れて、血を流しながら、私を呪うように睨みつけていたわ。……私は、怖くなって、部屋の隅で震えていた。そこへ、騒ぎに気づいた翔太が起きてきたの」
彼女の指が、僕のシャツのボタンを撫でるように滑る。
「翔太は、血まみれの父親を見てパニックになった。そして、床に落ちていた凶器を拾い上げて……自分がやったんだと、錯乱し始めたのよ。あの子、元々精神が不安定だったから」
嘘だ。
僕のアルゴリズムが、即座にエラーを吐き出す。
本当に翔太が錯乱して凶器を拾ったのか?
違う。この女が、パニックに陥った息子の手に、自らが夫を刺した凶器を『握らせた』のだ。そして、息子が完全に状況を誤認し、絶望のどん底で親友である僕に助けを求めるまで、冷徹に時間を計って待っていた。
血痕の乾燥時間を計算できる人間など、警察の鑑識か法医学者くらいだ。彼女は、翔太を身代わりに仕立て上げ、さらに僕という人間をこの現場に引きずり込むために、完璧な舞台装置を構築したのだ。
「……悪魔だ」
僕の口から、無意識にそんな言葉が漏れていた。
美穂はそれを聞いても怒るどころか、蠱惑的な笑みをさらに深くし、僕の胸にすり寄ってきた。
「そうよ。私は悪魔。……でも、昨日の夜、あなたはその悪魔の毒を、一番深いところまで飲み干してくれたじゃない?」
彼女の囁きが、僕の理性の最後の一線を無惨に断ち切る。
脳裏に、激しい雨音と、彼女の狂乱するような喘ぎ声がフラッシュバックする。彼女の粘膜の熱、僕の背中に食い込んだ爪の痛み。
彼女の指先が、僕の胸から首筋へと這い上がり、そっと顎を撫でた。
カシミヤのガウンの間から、あの美しい胸の谷間と痛ましい痣が覗いている。ジャスミンの香りが、鉄の匂いを完全に駆逐し、僕の肺を甘く満たしていく。
「ねえ……」
美穂の唇が、僕の唇に触れるか触れないかの距離で止まった。
彼女の黒曜石のような瞳が、僕の魂の底の底まで見透かしている。
「翔太が警察に捕まれば、あの子は耐えられずに精神病院行きよ。そうなれば、私はまた一人ぼっちになってしまう。……あの男の呪縛から逃れても、地獄は続くの」
彼女の吐息が、僕の唇を撫でる。
「あなた、昨日の夜、言ってくれたわよね。『僕が、終わらせる』って。……私を、守ってくれるって」
「それは……VEC-359を使って、誰にも気づかれずに……」
「今、ここで。もう一度、私に誓って」
美穂は僕の唇に、ほんの数秒だけ、深く、濡れたキスを落とした。
血の匂いのする密室での、狂おしいほど甘い口づけ。
僕の脳内のドーパミン受容体が爆発し、すべての論理的思考が完全にホワイトアウトした。彼女が仕組んだ罠であることも、彼女の残酷な計算も、もはやどうでもよかった。
この女の引力圏から、僕はもう二度と逃れられない。逃れたくもない。
彼女の身体の奥深くに己の熱を注ぎ込んだ昨夜、僕はすでに自らの魂を売り渡す契約書にサインしていたのだ。
美穂はゆっくりと唇を離すと、僕の目をじっと見つめて、甘く、恐ろしい言葉を囁いた。
「この事件……『あなたがやったこと』に、できないかしら?」
時間が、完全に停止した。
身代わり。
彼女は、僕に殺人の罪を被れと言っているのだ。
いや、ただ被るのではない。僕の知識と技術を使って、物理的証拠を隠滅、あるいは改ざんし、警察の捜査網を欺く「完璧な偽装工作」を行えと命じているのだ。
「翔太から凶器を取り上げて。彼を部屋から出して」
美穂の指先が、僕の首筋を優しく撫でる。
「あなたが、この凶器を持って……あなたが、あの男にトドメを刺して。そして、あなたのその完璧な頭脳で、私たちを守るためのシナリオを書き直してちょうだい。……そうすれば、私は永遠に、あなたのものよ」
永遠に、あなたのもの。
その言葉の圧倒的な質量が、血塗られたプラチナのネクタイピンよりも重く、僕の精神を圧殺した。
僕は、彼女の瞳から目を逸らすことができなかった。
そこにあるのは、底なしの虚無と、僕という人間を完全に食い尽くそうとする捕食者の狂愛。
足元では、まだ夫がヒューッという不気味な音を立てて血の泡を吹いている。このまま放置すれば、あと数分で彼は失血と窒息で完全に死に至るだろう。
しかし、美穂は「トドメを刺して」と言った。
僕のこの手で、物理的に、完全に、あの男の命を絶つことを要求している。そうすることで、僕はただの技術的共犯者から、本物の殺人鬼――彼女と同質の「バグ」へと昇華させられるのだ。
僕は無言のまま、美緒の肩から手を離した。
そして、まるでプログラミングされた自動人形のように、絨毯の上を歩き、翔太の前にしゃがみ込んだ。
「……翔太」
僕が声をかけると、翔太はビクビクと震えながら僕を見上げた。
「僕が、やったんだ……僕が、父さんを……」
「違う」
僕は、極めて冷静な、自分でも驚くほど平坦な声で言った。
「お前は何もやっていない。いいか、何も見ていないし、何もやっていないんだ」
僕は翔太の震える右手から、血まみれのプラチナのネクタイピンを奪い取った。
ズシリとした、想像以上の質量。
凶器の冷たさと、そこに付着した血の生温かさが、手のひらの皮膚を通して直接脳髄に伝わってくる。
「僕が、やったんだ」
僕は翔太の目を見据えて、はっきりとそう告げた。
「僕がお前の親父を刺した。お前は今、部屋に入ってきて、それを見ただけだ。分かったな」
翔太の目が限界まで見開かれ、そして、耐えきれなくなったように白目を剥いて、その場に崩れ落ちて気絶した。
静寂が戻った書斎。
残されたのは、血の泡を吹く瀕死の男と、凶器を握りしめた僕、そして背後で微笑む美緒の三人だけとなった。
僕は、血塗られたネクタイピンを右手に強く握りしめたまま、ゆっくりと立ち上がった。
そして、床で痙攣する夫の顔を見下ろした。
この男は、美緒の肌にあの惨い痕を刻み込んだ。僕の女を、傷つけた。
論理的思考回路が、完全に別のベクトルの殺意へと書き換えられていく。
振り返ると、美緒がカシミヤのガウンの胸元を僅かに開き、あの青緑色の痣を誇示するようにして僕を見つめていた。彼女の唇が、「愛してる」と声に出さずに動いたのが分かった。
後戻りできない物理的証拠。
僕はそれを自らの手で握りしめ、インダストリアルな狂気と、逃げ場のない官能の海へと、最後の一歩を踏み出した。
凶器の切っ先を、男の頸動脈のさらに深い場所へと向ける。
窓の外では、朝の光が無機質に君嶋邸を照らし出していた。しかし、僕と美緒が立っているこの琥珀の檻の中だけは、二度と明けることのない、永遠の夜の始まりを告げていた。




