第8話:親友の亀裂、疑念のベクトルと綻びゆく日常
君嶋邸の書斎で監視システムのコードを書き換えたあの日から、世界を認識するための解像度が決定的に狂ってしまった。
大学のキャンパスに降り注ぐ初秋の陽光は、やけに白茶けて人工的な光に見えるし、行き交う学生たちの笑い声は、処理落ちした音声ファイルのように耳障りなノイズとして鼓膜を叩く。
僕の脳内は常に、あの日、エグゼクティブ・チェアの上で僕の膝に跨った美穂の重みと、ベルベットのガウンの奥から放たれた熱量のリフレインに支配されていた。
視床下部に焼き付いた、ジャスミンとアルデヒドの香り。彼女の口から零れた微かな喘ぎ声。あの凄惨な痣を持つ白い肌に唇を這わせた時の、滑らかさと微かな塩味。
その記憶がフラッシュバックするたびに、僕は自室のベッドの上だろうと、大学の講義室だろうと、息苦しさに胸をかきむしりたくなる衝動に駆られた。
僕は完全に、VEC-359の致死の暗号よりも恐ろしい「美穂」という劇薬の禁断症状に陥っていた。
午後一時過ぎ。
情報工学棟の裏手にある、普段は閑散としているカフェテリア。
僕は硬いプラスチック製の椅子に座り、味のしないアイスコーヒーのストローを無意味に噛み潰していた。向かいの席には、翔太が座っている。
翔太は、テーブルの上に広げたノートPCの画面を神経質にスクロールさせながら、右手で執拗に自分の前髪をいじっていた。彼の目の下には濃い隈が落ち、顔色はひどく土気色をしていた。
あの「沈黙のディナーテーブル」での父親の圧力、あるいは最近の君嶋邸内の異様な空気が、彼の脆弱な精神をゴリゴリと削り取っているのは明らかだった。
「……なぁ。この暗号化のアルゴリズム、やっぱりどこかおかしいと思わないか?」
翔太が、PCの画面をこちらへ向けながら言った。
彼の声は、微かに裏返っている。
画面に表示されているのは、僕たちが共同で取り組んでいるハッカソン用のコードだ。しかし、僕の視線はコードの文字列を滑り落ち、彼の背後にあるカフェテリアの窓ガラスに映る自分自身の顔に焦点が合ってしまっていた。
酷い顔だ。僕もまた、彼とは違う理由で精神の均衡を失いかけている。
「……おかしくないよ」
僕は乾いた声で答えた。
「鍵生成のプロセスで、素数の乱数シードが弱体化してるように見えるけど、それはコンパイラの最適化のせいだ。実行時には問題ない」
「本当に? だって、昨日の夜、僕がテストを回した時は……」
「問題ないって言ってるだろ」
僕の言葉尻が、自分でも驚くほど冷たく、鋭くなった。
翔太はビクッと肩を震わせ、PCの画面を自分の方へ引き戻した。
「……ごめん」
彼が消え入りそうな声で謝るのを聞いた瞬間、僕の胃の腑に、鉛のような罪悪感と、それと全く同質でありながら真逆のベクトルを持つ「昏い優越感」が同時に沈み込んだ。
僕は、この男を裏切っている。
彼の知らない暗闇の領域で、彼の母親と肌を重ね、殺人のための技術的インフラを構築している。
翔太が神経質にコードのバグを気にしている間、僕は彼らの家の監視カメラのバグを作り出し、彼の父親を合法的に殺すためのカウントダウンを進めているのだ。
その絶対的な情報の非対称性が、僕に異常な全能感を与えていた。
僕は、彼の世界のすべてをコントロールできる位置にいる。彼が怯える父親の命も、彼が敬愛する母親の肉体も、すべては僕の指先ひとつでどうにでもなるのだ。
「……最近、お前、変だよ」
不意に、翔太が顔を上げ、僕を真っ直ぐに見据えた。
彼の落ち窪んだ瞳の奥に、怯えとは違う、鋭く尖った疑念の光が宿っていた。
「変って……何がだ?」
僕は動揺を悟られないよう、ゆっくりとアイスコーヒーを一口飲んだ。氷が溶けて薄まった泥水のような味がした。
「なんていうか……遠くにいるみたいだ。それに、最近、うちの母さんと何か……」
翔太の言葉が途切れる。
僕の心臓が、肋骨の裏側で冷たい警鐘を打ち鳴らした。
気づかれた?
いや、そんなはずはない。僕たちは翔太の前では完璧に「息子の友人」と「友人の母」を演じ切っている。連絡も、彼に絶対に見られない暗号化アプリしか使っていない。
「母さんと、なんだよ」
僕はテーブルの下で拳を握りしめながら、わざと不機嫌そうな声を作った。
「……いや。この間、夜中にトイレに起きた時さ。母さんが、リビングの暗がりで誰かと電話してたんだ。ひどく、甘えたような……僕が聞いたことのないような声で」
翔太の言葉に、僕の呼吸が数秒間、完全に停止した。
――『あなたが、傍にいてくれるだけで、私は息ができるの』
脳裏に、数日前の夜中、美穂から送られてきたあの音声メッセージと、彼女の吐息がフラッシュバックする。
翔太が聞いたのは、僕への通信だったのか。
それとも。
「……父さんは出張中だった。母さんには、親しい友人なんてほとんどいない。誰と、あんな声で話してたんだろ……」
翔太は爪を噛みながら、ブツブツと独り言のようにつぶやいている。
「お前の、思い過ごしじゃないか? もしかしたら、何かテレビの音でも……」
「違う!」
翔太が突然、テーブルを強く叩いた。
周囲の学生たちが、驚いてこちらに視線を向ける。
「僕は聞いたんだ! あの匂いも……」
「匂い?」
「最近、母さんから、変な匂いがするんだよ。いつもの香水の匂いに混じって……なんだか、男のコロンみたいな……それから、アルコールと、微かな薬品の匂いが」
僕の全身の血液が、一瞬にして凍りついた。
薬品の匂い。
それはおそらく、彼女が密かに抽出し始めている『VEC-359』の匂いだ。
しかし、男のコロン?
僕は香水やコロンなどつけていない。ならば、あの夜、彼女の身体に染み付いていたのは……。
僕の脳内の論理回路が、不快なノイズを立てて軋み始めた。
美穂は、僕以外の「誰か」とも接触しているのか?
夫を殺すための共犯者は、僕だけではないのか?
その瞬間、スマートフォンのバイブレーションが僕の太ももを震わせた。
画面を見るまでもなく、誰からのメッセージか分かっていた。
僕は翔太から顔を背けるようにして、テーブルの下で画面を開いた。
暗号化アプリのウィンドウに、美穂からの短い文章が浮かび上がる。
『明日の夜、準備が整うわ。最後のテストをしたいの。――私の部屋で』
僕の喉が、カラカラに乾いた。
彼女の部屋。君嶋邸の二階、夫のテリトリーである書斎とは対極に位置する、彼女だけの絶対的なサンクチュアリ。
明日の夜は、金曜日。
僕が監視カメラのループ設定を仕掛けた「ブラインド・スポット」の実行時間だ。
翔太の疑念が臨界点に達しようとしているこのタイミングで、彼女は最も危険な領域へと僕を招き入れようとしている。
「おい、聞いてるのか?」
翔太の声が、僕の意識を現実のカフェテリアへと引き戻した。
「あ、ああ。聞いてるよ」
「お前……まさか、何か知ってるんじゃないだろうな」
翔太の目が、細く見開かれている。その視線は、まるで僕の皮膚の下に流れる血の温度まで測ろうとしているかのように鋭かった。
僕はゆっくりと立ち上がり、PCをバッグに詰め込んだ。
「……疲れてるんだよ、お前。少し休め。コードのバグチェックは僕がやっておくから」
僕はそれだけ言い残し、翔太の視線から逃げるようにカフェテリアを後にした。
背中を突き刺すような翔太の視線を感じながら、僕は自分の内に渦巻く感情の正体を持て余していた。
翔太への罪悪感。
美穂への狂おしいほどの渇望。
そして、彼女の周囲に蠢く「見えない誰か」の影に対する、激しい嫉妬と疑心暗鬼。
日常という名の薄っぺらな皮膜は、もはや完全に破れかけていた。
その裂け目から覗く深淵の奥で、美穂が僕を呼んでいる。彼女の体温、彼女の匂い、彼女の抱える絶対的な闇。
僕はもう、その引力から逃れることはできない。明日の夜、彼女の部屋で何が起ころうとも、僕は自らその毒を飲み干す覚悟を完了しつつあった。
青空の下、キャンパスの木々が風に揺れる音が、僕にはシステム崩壊を告げるエラー音のようにしか聞こえなかった。




