家庭菜園の聖女 ~追放されて新天地でスローライフを満喫しているので、連れ戻そうとしても遅いです~
※このお話はフィクションです
「――アメリア、お前から『聖女』の称号を剥奪する! 理由はわかっているな? 己の役目を果たせぬ聖女に、用などない。当然、第三王子である俺との婚約も破棄だ」
「そして貴方は、セイラー家の養子でもなくなるの。今後、セイラーの家名を名乗ることは許されないわ。肝に銘じておくことね」
尊大にそう言い放ったのは、この国の第三王子であるセドリック・ベルネイアと侯爵令嬢のマルグリット・セイラー。
片方は私の婚約者だった人で、もう片方は義姉だった人。
高貴な存在とやらのこの二人は、蔑みの視線を隠すことなく私を見下ろしている。
平民生まれのくせに聖女を名乗り、王子の婚約者として居座っていた、憎い女なのだ。
これ以上、一秒だって一緒にいたくないのだろう。
――それは、私だって同じこと。
艶々とした黄金色の髪に、宝石のような青い瞳の持ち主たち。
この連中は、褪せた麦わらのような黄色い髪をした私をずっと蔑み続けていた。
貴族や王族がこの特有の金髪碧眼を、それこそ血統書のように大切に自慢し続けていることこそ、私からすれば遠い世界の、どうだっていい話だった。
「ここにお前の居場所はない。どこへなりとも、好きなところへ行くがいい」
そしてさっさと野垂れ死ねばいい――という副音声まで聞こえた気がしたけれど、どうやら幻聴だったみたい。
こんな場所から出ていきたかったのはこっちだと、声を大にして言ってやりたかった。
そんな喉元まで出かけた言葉を、グッと飲み込む。
「孤児だった私をこれまでお引き立てくださり、感謝します。微力ではありましたが、国のために働けて光栄でした。これまで、長い間お世話になりました」
こんなことを言ってやる義理も、本当はもうない。
けれど……思ってもいない言葉が、口からスラスラとこぼれ出た。
もう聖女でないのなら、聖句は不要だろう。
どうやら、私も浮足立っているらしい。
セドリックはこれ以上同じ空間で呼吸をするのも嫌だという態度を隠しもせず、犬でも追い払うようにぞんざいに手を振って私を下がらせた。
最後まで、傲慢を絵に描いたような男だった。
マルグリットから罵り言葉が出てこなかったのは奇跡だろう。
ようやく邪魔者を追い出すことに成功して、清々したという満足げな笑みを浮かべていた。
私だって、もう二度と会いたくない。
あの人たちともう金輪際関わらなくて済むのだと思えば、足取りも軽くなるというものだった。
――聖女じゃない! 私はもう、聖女じゃない!!!
長年の訴えがようやく叶ったのは、実に現金なお国事情というものだろう。
平民上がりの『聖女』は要らなくなった――ただ、それだけのこと。
国の混乱を治め人心を回復し、未来を明るく照らすような存在。
疫病を終わらせ、痩せた大地を蘇らせる救国の象徴であり、人々の心の拠り所。
国王と神殿がそう吹聴しただけで、そんな聖女はいない。
少なくとも、それは私じゃない。
不思議な力が使えるわけでも、奇跡が起こせるわけでもない。
これまで評価されていたのは、この国の人たちより作物を育てるための知識があったからに過ぎない。
私は……ただ、転生者だったというだけ。
ベランダ菜園が趣味の、どこにでもいる会社員だった。
気づけば子供の身体で、疫病に侵され冷たくなった両親に挟まれて目を覚まし――いきなりハードモードな世界に放り出されて、生き残るために村の人たちと協力して畑を耕し続けた。
ようやく落ち着いてきたころに、噂を聞き付けた神殿の人間によって王都へ連れ去られ。
そこで聖女だなんだと担ぎ上げられることになってしまった。
どうせなら『緑の手』とか、そういう園芸関係の肩書きなら素直に喜べたのに。
***
城を出た私の手には、大きめの鞄がひとつだけ。
長期間に渡って方々の農地へ派遣されていたので、元々荷物は少ない。
正直、いつでも逃げ出せるように準備していたところもある。
王都の人たちは『聖女』を見慣れていないので、街を歩いても私が元聖女だと気づく人はいない。
これまでに得た報酬は、全て大陸協会に預けてある。
この国だけじゃなく、大陸のどこでも使える銀行みたいなもの。
お金を少しだけ下ろして、保存食など旅の必需品を買った。
あとは小腹が空いたので露店で串焼きを買って、そのまま馬車乗り場へ向かう。
行き先は、あらかじめ決めてあった。
隣国フロレシア。
旧態依然としたこのベルネイア王国とは違って、もう少し発展しているらしい。
別にこの国でなければ、どこだって良かった。
ただ、一番行きやすくて暮らしやすそうなのがそこだった。
――どこかの田舎で、畑を耕しながらのんびり暮らしたい。
これは前世からの夢でもある。
私の望みはそれだけなんだけど……。
この国の上層部の人たちを見る限り、後で気が変わったからといって呼び戻されかねない。
だから私は、手っ取り早く出国することを選んだのだった。
小さな畑付きの家を買えるくらいには、蓄えもあることだし。
***
長距離移動用の大型馬車に乗り込んで、窓の外を眺める。
空気穴よりはマシといった程度の大きさしかない隙間だけど、それでも景色が流れていくのは見える。
外はあいにくの空模様だった。
街で買い物をしていたときから怪しかったけれど、曇天を通り越して小さな雨粒が馬車の屋根に当たる音がする。
こんな天気の中でも青く伸びる小麦畑を見ていると、ぼんやりとこれまでのことが思い出された。
聖女の肩書きは不満だったけれど、仕事にはやりがいがあった。
特に、最初の数年間は大変だけど楽しかった。
『豊作祈願』なんて称してはじめて派遣されたのは、広大な農地を擁する辺境地域のひとつ。
お祈りで収穫量が増えるなら苦労はない。
実際は技術アドバイザーのようなものだと説明すれば、その地域の人たちも理解してくれた。
そこでは土づくりをしていては間に合わないので、土壌に適した肥料を見つけることからはじめた。
そうして育てやすい作物の選定をしたり、農地管理の仕組みを見直したり……。
責任は重たいけれど、充実してやりがいに満ちた日々。
同じ年ごろの友達もできた。
たまにこっそり抜け出して、一緒に遊んだり。
神殿から来たお付きの人もいたけれど、森を少し駆け回るくらいなら好きにさせてくれた。
あのころの私はただ、みんなが食べるものに困らなければいいと……そればかり考えていた。
かつて飽食の環境に生きていたせいかもしれない。
この国で不作による飢えに苦しんでいた人たちが、食べ物の心配をしなくてもいいようにしたかった。
***
次の街で馬車を乗り換えるころには、雨足が強まっていた。
幸いなことに次に乗る馬車はもう来ていたので、足早に乗り込む。
雨が入り込まないようにか、窓の外が塞がれていて一気に閉塞感が押し寄せてきた。
鬱々とした気持ちでいると、思い出したくもない顔がどうしても頭を過ってしまう。
聖女扱いは嫌だけど、人の役に立てるのは悪くないのかも――なんて考えていた矢先だった。
安定したその辺境地域から王都へ帰還した際に告げられたのは、セイラー侯爵家との養子縁組。
そして……第三王子、セドリック・ベルネイアとの婚約だった。
王侯貴族にとって婚姻は、家門同士の結びつきを強くするための手段。
そうした知識はあったものの、まさか自分の身に降りかかってくるなんて思うはずもない。
本来セドリックの婚約者には、セイラー侯爵家の娘であるマルグリットが選ばれる予定だった。
そんなところに『聖女』だからと無理矢理ねじ込まれたのだから、当事者たちにはたまったものじゃない。
それから王都での滞在中は、神殿ではなくセイラー侯爵家で貴族としての作法を学ばなければならなくなった。
当然、居心地は最悪どころじゃなかった。
養父となったセイラー侯爵ですら内心納得できていないのに、夫人やマルグリットが私を受け入れるわけがない。
血も繋がっていなければ、平民で農民生まれというだけで許し難いのに、あまつさえ婚約者の座を奪い取った相手なのだから、反発するのも仕方ないとは思う。
けれど授業に乱入してきては嫌味を言ったり、夜中にまでヒステリーを起こして罵られたり、行きたくもない社交の場で被害者面をされたら、大嫌いなんて生易しい感情ではいられない。
ドレスを引き裂かれたり宝飾品を壊されたのは、元々私の持ち物ではないしなんとも思わなかった。
けれど、そのせいで神殿のローブを着てどこぞのパーティーに出席しようとした際は、流石にセイラー侯爵も看過できなかったらしい。
マルグリットを叱責して彼女のドレスを私に与えたので、それからは私の持ち物を壊すような真似はしなくなった。
セドリックの拒絶っぷりも顕著だった。
望まぬ婚約者なのは、お互い様だろうに。
特権階級意識があれほど染みついた人間も、そうはいない。
取り立てて能力もないくせに、親の権力を笠に着た振る舞いだけは誰よりも才能があった。
向こうが避けてくれたおかげで、王都滞在中も顔を合わせることは少なかった。
けれど、どうしても会わなければいけない場面もある。
挨拶をすればマルグリットよりもストレートな暴言を吐かれ、おざなりどころか意地の悪いエスコートを受け、お仲間のところへ連れて行っては笑いものにする。
スケジュールの詰まっているときに限って急に呼び出しては、何時間も待たせた挙句に用はないと帰らせられたことも、一度や二度じゃない。
縁が切れたとはいえ、憎々しい気持ちが湧き上がるのも仕方のないことだろう。
セドリックやマルグリットをはじめ、王都の貴族たちの大半は『聖女』の功績を大したものだとは思っていなかった。
私への評価は、どうだっていい。
けれど疫病や不作による深刻な状況の中、自分たちはぬくぬくと栄養のあるものをたらふく腹に収めていたくせに、助けもなく亡くなった大勢の人たちを哀れむこともせず、卑しい平民が数を減らしたせいで税収に問題が起きた程度に考えていた。
そんな中で都合よく現れた聖女のことは、荒れた国を元通りにしてくれる便利な存在くらいにしか思っていなかっただろう。
自分たちの口にしているものが一体どこから来ているのかなんて、考えもしない、気にしたことすらない。
そのくせ手塩にかけて育てた作物を、あれこれ理由をこじつけて徴収しては、自分たちの懐ばかり潤してきた連中。
土臭いと文句を言われたり、笑われるのは耐えられる。
けれど……自分たちを肥えさせてきたものに、感謝も敬意もない姿には嫌悪感を抱いた。
その点、国王や神殿の人間はまだ状況の深刻さを理解していた。
とはいえ、私を都合よく担ぎ上げた人たちに対して好意を抱けるほどでもない。
願った通り、次第に国は豊かになっていった。
同時に、私の役目も薄れていった。
国の各地と王都を行き来するほど、解放されたいという望みが膨らんでいった。
聖女、セイラー侯爵家令嬢、第三王子の婚約者――欲しくもない肩書きばかりが積み上がっていく。
そこに、私の居場所なんてない。
前世のころよりもずっと、私の夢が遠のいていくようだった。
多少、作物を育てるための知識があったとはいえ、かつて本や動画で見知った程度の内容で、実践したのはベランダ菜園レベルの話。
私が伝えられることも、そう多いわけではない。
私より賢い人は、たくさんいる。
私より農業に適した人も、たくさんいる。
国中の農地が豊作となり、支援の仕組みもできた。
だから――自他共に、『聖女』は不要になった。
……きっともう、よっぽどのことがなければ飢えに苦しむ人はいないだろう。
***
気づけば、雨は止んでいた。
窓の外からは、かつてはじめて派遣された辺境地域が見えた。
農作業を終えて家に帰る人たちの満たされたような表情に、私の胸に熱いものが込み上げる。
ここでできた友達のなかで一番仲がよかったといえるのは、意外にも領主の息子だった。
辺境とはいえ、貴族の跡取り。
けれどそんなことは感じさせないほど、自然に根差した土地の人間らしく、森での遊び方もよく知っていた。
まだ都会暮らしの記憶が染みついていたあのころの私には、それがすごく新鮮だった。
彼は同じ年ごろの子供ながらに、私のしていることがどれほど領地にとって大切なことなのかを理解していた。
時折招かれた領主の館では率先して案内してくれたし、農地にも顔を出すこともあった。
下の子たちとは年が離れていたので、外で一緒に遊ぶことはなかった。
だけど前世では定番のおとぎ話を聞かせてあげると、すごく喜んでくれたのを覚えている。
恐らく、私が転生してから一番長く過ごしたのがこの土地だろう。
告げられた婚約者が王子なんかじゃなく、あの子だったなら……と思ったこともある。
もしそうだったなら――私は今も、この国に残れていたんだろうか?
***
道中は何事もなく、馬車は国境を越えて鬱蒼とした森の端を走っている。
――そろそろだ。
心の中で気合を入れて、馬車が開けた一角にゆっくりと停まるのを待つ。
乗客たちが思い思いに休憩するのを横目に、私は無言のまま荷物を渡してくれた御者に頭を下げた。
ここで降りることは、御者にあらかじめ伝えてあった。
森のど真ん中に置いていってほしいなんていう乗客は、私以外にいないだろう。
はじめは怪訝そうにしていたけれど、「元雇い主に引っ越し先を知られたくない」と説明すれば、なにか得心がいったようだった。
無事、私もワケアリ女として認定されたらしい。
彼らの口の堅さに、どこまで信用が置けるかはわからないけれど……森歩きは得意だし、追っ手を撒くにはちょうどいい。
私が気にしているのは、国王や神殿の人間たちだ。
流石に、命を狙われる心配まではしていない。
もし私を消したければ、とっくにそうしていただろう。
けれどこれまで、自分たちの都合ばかりを押し付けてきた連中だ。
もしまた何か……困ったことが起こったとき。
それが『聖女』にどうにかできることだったなら――再び連れ戻そうとしても、おかしくはない。
そのくらいには、私はあの人たちを信用していない。
きっとこの森は、いい目隠しになってくれるはず。
どうにも王都の人は、こうした場所が苦手らしい。
だからどんなお目付け役も、森の中までちゃんと追いかけてきたためしはなかった。
◇◇◇
――ベルネイア王国、王城の一室にて。
「ハハハハッ! ようやく、あの平民のインチキ女を追い出してやったぞ!!」
「これでもう、あの女の存在に煩わされることもなくなったわ!」
豪奢な部屋の中で、第三王子セドリックとセイラー侯爵令嬢マルグリットは高笑いしていた。
『聖女』を追放する――その念願が、ようやく叶った。
それどころか……その役目を、自分たちの手で果たせたのだ。
これでようやく、長年の留飲を下げることができた。
肩を寄せ合いながら、セドリックはマルグリットの頬を撫でる。
「邪魔者はもういない。これで俺たちの未来も安泰だ」
「嬉しい……! わたくしたち、いよいよ正当な婚約者になれるのですね」
「あぁ、長く待たせてしまった分、輿入れを急がせねばな」
二人は上機嫌で、手に持ったグラスを傾ける。
彼らの目の前には、薔薇色の未来が広がっていた。
セドリックは念のため、控えていた従者へ伝令を出す。
「門番に伝えろ。――もしあの平民女が戻ってきて縋り付いても、絶対に門を開けるな!! ……とな」
「うふふ……惨めなあの女の姿が浮かぶようですわ」
彼らは、既にアメリアが国外へ出発していたなどとは知る由もなかった。
◇◇◇
「わぁ……!」
森が一気に開けたと思ったら、泉のほとりで素敵な場所を見つけた。
パセリ、セージ、ローズマリーにタイム。
民謡の一節に出てくるようなハーブたちが伸び伸びと育っている、小さくも美しい前庭。
綺麗な花も咲いていて、妖精が棲んでいるといわれても信じてしまいそうなほど。
はじめは、森番の小屋かと思った。
けれど近くで見れば、そこには比較的大きめの一軒家が建っていた。
近くには野菜畑もある。
やや手入れを怠っているように見えるけれど、それでも丁寧に世話していたのがわかる。
一晩泊めてもらえないだろうか――そんな下心と共に扉をノックしてみたけれど、反応はない。
留守かな? と思ったけれど、なんとなく気になってノブを捻ってみた。
何の抵抗もなく開いた扉に、思わず身構える。
中はキッチン併設のダイニングルームのようだった。
四人掛けのテーブルの上には、一人分のスープとパンが残されていた。
恐ろしくカビが生えたりはしていないものの、状態から一週間からひと月程度は放置されているように見える。
床には、数人分の土汚れ。
扉付近の棚がやや乱雑に荒れていて、最低限必要なものを掴んでいったのだろう様子が浮かんだ。
物が壊されたりといった、暴力的な痕跡は見当たらない。
なにか、急いでこの家を飛び出さなければいけない事情があったに違いない。
けれど……家主もそれほど長期間、家を空けるつもりはなかったのだろう。
雰囲気から、若い女性の一人暮らしのようだ。
「うーん……とりあえず、片付けちゃおう」
野宿を検討していたところに、家主不在の一軒家。
しかも、手入れしがいのありそうな畑まである。
――家主が帰ってくるまで、この家に住まわせてもらおう。
家の掃除と畑の世話はしっかりさせてもらうので、許してはもらえないだろうか。
身勝手なのは承知の上だ。
それでも私は、すっかりこの土地を気に入ってしまっていた。
***
若干気が引けつつも、家の中や周囲を拝見させてもらった。
結果、わかったことがいくつかある。
ここはかつて何世帯かで暮らしていた家に、今の家主さんが一人で住んでいたらしい。
買い物は行商に頼んでいたみたいで、生活用品や保存の効く食料などが保管庫に積まれていた。
服のかけられたクローゼットは手つかずで、やっぱり長期間家を空けるつもりはなかったらしい。
そしてこの建物は『魔女の庵』――この世界でいう、家族や個人経営の薬局と住居の合わさったものだった。
つまり若い女性と思われる家主は、どうやら魔女らしい。
この世界の『魔女』は、ファンタジーな魔法使いとは違う。
代々まじないや薬作りを生業としてきた一族の人で、私は占星術の得意な薬剤師のようなものだと思っている。
数少ないこの国の前提知識によれば、たしか最近は魔女も免許制になったとか。
世知辛さを感じつつ、そういうところまで現実的なのがこの国らしいなと思った記憶がある。
『聖女』からの解放を望んでいた私がこの国を移住先に選んだのも、その辺りが理由の一つだったりする。
保管室や調合スペースには乾燥させた薬草や調薬済みの薬が丁寧に仕舞われていて、つい最近まで調薬していた痕跡が残っていた。
野菜畑とは別のスペースに、薬草園もあった。
植えられている薬草は、幸いにも管理方法を知っているものばかり。
手はかかるけれど、このままにして枯らしてしまう心配はないだろう。
家の裏側には鶏小屋があった。
囲いは開け放たれたままになっていたけれど、鶏は暗くなったら戻っているようで、小屋には未回収の卵が残っていた。
今も数羽の鶏が地面をつつきながら、近くをぽてぽてと歩いているのが見える。
住居兼薬局の建物の他に、狩猟道具を保管したり獲物を解体するための小屋もあった。
定期的に手入れしたり使ったりしていたようで、埃が積もったりはしていなかった。
この住居は二階建てで、家主の魔女さんは一階の寝室を使っていたようだった。
流石にそこを使わせてもらうほど、厚かましい気持ちはない。
私は長い間使われていなかったであろう、埃避けのシーツがかけられた寝室のひとつを使わせてもらうことにした。
この国のすごいところは、冷蔵庫や洗濯機のような機械が普及していることだと思う。
土地特有の磁場みたいなものを使っているらしいので、これまでいた国にはなかったものだ。
結構高価らしいけれど、それでも一般人にも手が届くというのはすごい。
代々受け継がれてきた古い調薬器具や家具と、生活に役立つ比較的新しい技術品が共存する空間は、とても興味深くて心が躍った。
ここには素晴らしいハーブや薬草が育っているというのに、魔女さんはどうやらコーヒー愛好家らしい。
定期的に発行されている女性向け冊子も購読していたようで、そこからはなんとなく都会への憧れが透けて見えた。
◇◇◇
――ベルネイア王国、王城の一室にて。
「馬鹿なッ……! 何故あの女一人いなくなったくらいで、騒ぐ連中がこんなにも多い!?」
アメリアを追い出してから、王都は不穏な空気に包まれていた。
『聖女』の称号を剥奪したという知らせは、瞬く間に広がった。
この決定に異を唱える者たちが、列をなして神殿へ詰め寄せているという。
一部の過激派に至っては、城の外でまで騒ぎ立てる始末。
辺境では領主たちまでもが『聖女』追放は許し難いと、異議を申し立ててきた。
苛立つセドリックに、マルグリットはおもねるように口を開いた。
「騒ぐ者たちも、しばらくすれば気づくでしょう。……あの女がいなくとも、何も変わりはしないと」
「連中が落ち着くまで、ただ黙って耐えろと?」
「とんでもない。しかし、今が好機でもあるのでは?」
怪訝な表情を浮かべる愛しい婚約者に、マルグリットは仕方のない人、と言いたげな表情を浮かべた。
「それだけあの女に誑かされた者が多かったということ。こんなときこそ、決して惑わされることのなかったセドリック様が、哀れな者たちへ道を示すのです」
雨粒が窓を叩く。
王都の空は、今日も重たい雲に覆われていた。
◇◇◇
私が勝手に家主不在の家に住まわせてもらってから、一週間ほど過ぎたころ。
ようやく家主の魔女さんが戻ってきた。
当然、私は勝手に住み着いていたことを怒られるものと思っていたのだけど……。
事情を説明する前から、魔女さんは家や畑の手入れをしていたことを感謝してくれていた。
ひと月ほど前、魔女さんは『無免許で作った薬を渡した』ということで、連行されていたのだという。
たしかに保管室の鍵が開いていて、変だなと思ったけれど……。
人里離れたところに住む魔女さんは、なんと免許制度のことを知らされていなかったらしい。
その辺りは込み入った事情があるみたいなので、あまり触れないでおいた。
魔女さんは免許を取得せず、魔女業を辞める選択をしたという。
薬草の販売だけなら問題ないそうだけど、それもしないらしい。
これまでは生業だからやっていただけで、そこまで魔女業への未練はないという、衝撃の告白だった。
会話の節々から、魔女さんがこの森の中での閉鎖的な暮らしに、ややうんざりしていたであろうことが伝わってくる。
なので街に引っ越してお店をはじめたいという話も、よく理解できるものだった。
――多分、私と真逆なのだ。
魔女さんの話を聞きながら、世の中というのはままならないものなんだなと心底思った。
魔女さんは私の不法滞在を責めることなく、むしろ「住んでくれるならずっとお願いしたい」とまで言ってくれた。
免許を取ってまで魔女業を続けたい気持ちはないけれど、代々続く薬草園などを放置するのは忍びなかったという。
なので、私が受け継いでくれるならこれほどありがたいことはないそうだ。
私としても願ってもない話なので、こちらこそよろしくお願いします! と二つ返事で引き受けた。
むしろ家賃を払ったり、買い取るにしてもお金を支払うべきはこちらなのに、魔女さんは随分と気前がよかった。
もしよければたまに薬草を少し卸してほしいという、要求とも呼べないようなお願いをされたくらいだ。
本当に申し訳ない気持ちになった私に、魔女さんは「自分がこのまま住み続けるよりよっぽどいい」と笑った。
魔女さんにまで、隠し事をする必要はないだろう。
私はこの家を見つけるまでのいきさつを、簡潔に話した。
思っていた通り、この国の人にとって隣国の『聖女』は大層な存在ではなかった。
反応としては、『聞いたことのある有名人』という感じ。
既に、聖女が解任されたという噂も伝わってきているらしい。
私が追っ手を気にしていることも理解してもらえた。
「森を出なければ大丈夫」という魔女さんの言葉には、説得力があった。
魔女さんは数日滞在して、ここで暮らしていく上での注意点を細かなところまで説明してくれた。
荷造りを終えるころには、随分と肩の荷が下りたようだった。
次は一緒に買い物に行こうと約束して、魔女さんは街へ戻っていった。
◇◇◇
――ベルネイア王国、王城の一室にて。
「流された橋など、さっさと直せばいいだろうがッ! それをウダウダと言い訳ばかり……!」
「それよりも、王都の浸水ですわ。早くどうにかしなければ、臭いがそれはそれは酷くて」
憤懣やるかたなしといった様子のセドリックだが、マルグリットはマルグリットで不愉快そうに眉を寄せている。
雨が続き、王都とその周辺地域は酷い有様となっていた。
今も雨足は強まったり弱まったりしながら、被害を拡大し続けている。
「無能な連中め! 何が技術者だ、少し雨が続いた程度でこんな状況を招くとは」
吐き捨てるセドリックに、マルグリットも大きく頷く。
目先の被害にばかり注目する彼らだったが――流された橋や土砂によって最も致命的な被害を受けたのが、王都の食料を支える大農地であることに、まだ気づいていなかった。
◇◇◇
正式な住人になったことで、ようやく私は腰を落ち着けて生活が送れるようになった。
ここは、本当に素敵な場所だと思う。
泉にはきれいな水が湛えられ、優雅に水鳥が泳いでいる。
魚の影もあるので、小屋から道具を持ってきて釣りに興じてみるのもいいだろう。
土の状態も良いようで、薬草や野菜たちも葉を大きく広げている。
ここでは収穫量よりも、味や品質を良くするための育て方をしてみるのもいいかもしれない。
森には野花が咲いていて、近くには蜜蜂の巣箱も置かれている。
まだ少し怖いけれど、魔女さんに管理の仕方を教わったので大丈夫……なはず。
季節が来れば、樹液からも蜜を採集できるらしい。
木の上には野鳥の巣、土が盛り上がっているところは野兎の巣。
遠くに、泉の水を飲みに来た鹿の姿も見えたことがある。
猪や熊のような危険な動物は、魔女さんも遭遇したことがないらしい。
けれど念のためにと、魔女さんの家に伝わるおまじないを教えてくれた。
たわわにベリーの実った群生地がいくつもあるので、収穫して加工するのが間に合わないくらい。
この地での穏やかな暮らしは、驚くほど私の理想にピッタリだった。
ようやく、念願が叶ったといってもいい。
夢のような日々は、穏やかに過ぎていった。
あれから、魔女さんの案内で街にも連れて行ってもらった。
街並みが想像以上に近代的だったのは衝撃だった。
魔女さんが森での生活にうんざりしてしまうのも、無理はない。
街では買い物だけでなく、魔女さんのお店も見せてもらったり、思っていたよりもたくさん収穫できた薬草の納品先まで紹介してもらうことができた。
はじめは、生活に必要なものを買い出して。
その次は、いろんな種を買い込んだ。
またその次は、羊を数頭連れて帰った。
家と街を行き来して、私は理想の暮らしをどんどん整えていった。
薬草だけでなく、野菜も売ってほしいと言われたときはものすごく嬉しかった。
街に行って顔を出す度、魔女さんの周囲で起こる、ちょっとした事件の話を聞くのも楽しかった。
◇◇◇
――ベルネイア王国、王城の一室にて。
「辺境の田舎貴族どもめ! こちらの要請を拒むどころか、徒党を組んで反抗してくるなどとッ……!」
セドリックは、握った拳を怒り任せに机へ叩きつけた。
城の一室に鈍い音が響き、マルグリットはビクリと肩を竦める。
王都の食糧庫と呼ばれる農業地帯が、水害によって被害を受けた。
それどころか、蓄えていた作物まで保管庫ごと台無しになるという非常事態。
「こんなときこそ、安定した辺境が収穫物を差し出すべきなのに――クソっ、不作続きの頃に税を減らしてやった恩を忘れた不忠者どもがッ!!!」
吠えるセドリックに、マルグリットがおずおずと口を開く。
「値を吊り上げたり、税を免除させるための方便ではありませんの?」
「使者の言い分では、とうに対話など不可能な状態ということだ。……そんな馬鹿なことが許されていいはずがない!!」
しかも彼を苛立たせるのは、これだけが理由ではない。
「まだあの女を放り出したのをとやかく言う連中が減るどころか……大司祭が死んだせいで、声は強まる一方だ」
「まさか! そんな、ありえませんわ……!」
セドリックの言葉に、マルグリットは大きくかぶりを振った。
信じられないし、信じたくなかった。
あの、もう何者でもなくなった女を、未だに崇拝する連中。
神殿の頂点に立っていた男の死――そんなものまで、影響していると?
「今さら『聖女』を……アメリアを、連れ戻そうとしている派閥も出てきているという」
「う、嘘ですわ……ねぇ、そうですわよね!?」
驚愕に目を見開くマルグリットに、セドリックは冷徹に告げた。
「いや、欲しがる奴がいるということは、まだあの女には価値があるということだ。――誰よりも先に、あの女をここへ連れてこいッ!」
第三王子セドリックの号令が、雨音を裂いた。
◇◇◇
木々が一斉に色づき、泉の水面が美しい色彩に染まったころ。
早朝に微かな馬の嘶きが聞こえた気がして外へ出ると、水辺に馬と黒い大きな塊が落ちているのを発見した。
水を飲む馬の背には、鞍が付けられている。
ということは……あの黒い塊は、人間!?
あの状態は、明らかに行き倒れだ。
水場を探してようやく見つけたところで、意識を失ってしまったのだろう。
「えっ……!? どどどどっ、どうしよう!?」
とりあえず駆け寄って、息があるのかを確かめる。
静かな呼吸を確認して、ひとまず安心した。
目立った外傷も見当たらない。
横向きに倒れているけれど、たしかこれで回復体位だったはず。
なので、いったんこのままにしておくことにする。
謎の人物は、若い男性だった。
黒い髪に黒いフード付きの外套、その下の衣服も黒……という、中二病みたいな格好をしている。
もしこんな人が夜の森の中にいたら、見つけられないだろう。
腰には長剣を佩いていた。
この国の憲兵の格好ではない。
どちらかといえば、騎士っぽい感じ。
閉じた目の下には隈ができていて、頬も少し痩せている。
顔色は病的とまではいかないまでも、まともに食事も睡眠もとれていないのは明白だった。
「うーん、どうしよう?」
細身っぽいけれど、よく見れば身長がけっこうある。
私の力では、とても家まで運べそうもない。
横では恐らくこの人が乗ってきたであろう馬が、もしゃもしゃと草を食んでいる。
くたびれた感じで倒れている飼い主と相まって、すっごくシュール。
「すみませーん! 聞こえますかーーー!!!」
私にできることといえば、声をかけるくらいのもの。
これで起きないようなら、しばらくこのまま寝かせておくしかないだろう。
温かいスープを持ってくるのもいいかもしれない。
「う……うぅん……?」
「あっ! 目が覚めました? 起きられます?」
「ん……俺は、一体……? っ!!!」
反応があったのでよかったよかったと思っていたら、クワっと目を開けた男性が突然起き上がった。
あまりの素早さにびっくりして固まっていると、男性は一瞬私の顔をジッと見て、泣きそうな表情を浮かべた。
かと思えば、そのままガバッと抱きしめられる。
「アメリア!! よかった、ようやく見つけた……!」
「えっ、ええっ!?」
一気にいろんなことが起きて、頭がパンクしそう。
私の名前を知っているということは、この人は私を探していたわけで。
ここでようやく、この謎の人物が追っ手である可能性が頭に浮かんだ。
――嫌な感じがしなかったから、つい普通に対応しちゃった……!
けれどこの喜びようは、あの連中が差し向けた人間らしくない。
「あ、あのー……」
「すまない! 喜びのあまり、つい……」
体は離れたけれど、なんだか距離が近い。
歓喜の表情を浮かべてはいるものの、男性の顔は目を閉じていたときよりもやつれて見えた。
こんな姿になるほど、必死で私を探していたらしい。
上ずった声や嬉しそうな表情の中に、何か懐かしいものを感じて、目を瞬く。
この人、どこかで……?
「俺だよ、ナイルだ! 覚えてないか?」
「あっ!? えっ、ナイル? 貴方なの!?」
「そうだよ! ナイル・カーヴェル。よかった、覚えていてくれたんだな……!」
そう言って、ナイルは再び私をかき抱いた。
彼が誰だかわかった途端、脳裏にたくさんの思い出がよみがえってきて、胸が熱くなる。
ナイルははじめて派遣されたあの辺境地域で、一番親しかった相手だった。
ひとしきり再会を喜んだあと、私は彼を朝食に招待した。
彼の体調が気になったし、どうして私を探していたのか、理由を知りたかった。
***
「はっ、反乱!?」
ナイルの告げたあの国の近況は、とんでもないことになっているらしかった。
王都とその近郊では続く長雨のせいで水害が発生。
都市機能が一時失われただけでなく、あの不作の時代を支えた肥沃な地域での収穫も絶望的だという。
そこで被害のなかった辺境地域へ、作物を多く提供するように要請があり――これまでの鬱憤が爆発した辺境側が反発。
王都側とは全面的に対立してしまったそうだ。
「治水工事は、順番に各地域で行われたはずでしょう!?」
「死活問題だった地域はもちろん真面目にやったさ。だが王都の役人の息がかかった業者が、中抜きをして杜撰な工事をした場所もあったそうだ。今回問題が起こったのはそこだな」
「えぇぇ……。それじゃあ、新しく建て直した作物保管用の倉庫は……?」
「どっぷりと水に浸かったそうだ」
「あっ……ちゃぁ」
あまりのことに、思わずスプーンを置いた。
勿体なさ過ぎるし、無念でもある。
でも、王都の人たちのやったことだと思えば……不思議と納得できてしまったのが悲しい。
自然災害は仕方ないとしても、事前準備を怠った挙句に無事だった地域にたかったというのが、また……。
一緒に泥だらけになって、必死で農業に打ち込んだ人々の顔が脳裏に浮かんだ。
作物を育てる人だけじゃない。
計画をしたり、研究をしたり、荷物を運んだり……それを管理する人もいて、ようやく安定したところだったのに。
最初から恵まれた場所に住んでいる王都の王族や貴族の人たちには、結局理解できなかったのだろう。
「だが……再び『聖女』を据えれば、この不毛な争いも収まると考えている間抜けな連中もいる」
「やっぱり……」
案の定、というやつだ。
すぐに国を出て正解だった。
「今起きていることは、もちろん君がいなくなったせいじゃない。……けれど、あれほど国に尽くしてくれた『聖女』へ、ろくな褒章も感謝もなく追放したという事実を、許せない人間は多い」
「だから、もう一度私を連れて来れば黙るだろう――って?」
私としては軽い調子で言ったつもりだったのだけど、ナイルはギリギリと憤怒の表情を浮かべた。
「許し難いことだ。王子の婚約者に据えて、正当に扱うのかと思えばっ……! まさか恩人を用が済んだと放り出し、あまつさえ自分たちが危険になったら矢面に立てようなどとッ!!」
テーブルの上に置かれた彼の拳に、グッと力が入る。
……なるほど。
人によっては、私の立場はそういう風に見えるらしい。
「だから俺は……そんな連中から、君を守りたい。そのために君を探して、ここまで来た」
彼の瞳には、強い決意が滲んでいた。
同時に、ようやく見つけた私の家の前で倒れてしまったことを恥じてもいるらしい。
「こんなザマじゃ頼りなく見えるかもしれないが、これでも腕は立つ。――頼む、アメリア。どうか俺を、君の傍に置いてほしい」
ナイルの真っ直ぐな視線に射貫かれて、私はハッと息を呑む。
懇願するような響きに、彼の覚悟が透けた気がしたのだ。
「あ、あの……それって、ナイルもここで暮らすってこと?」
おずおずと切り出すと、ナイルは困ったように笑った。
微かに残る面影に、懐かしい表情が浮かぶ。
雰囲気が、一気にあのころに戻ったようだった。
「もし、アメリアが嫌でなければ。許してくれるなら……物置小屋でも、どこだっていい」
「いやいや、空いてる部屋はあるから……!」
慌てる私にナイルは一瞬目を丸くすると、今度こそ少年のように笑い出した。
こうしてこの家に、新しい住人が増えた。
ナイルは、一階の空き部屋を使うことになった。
魔女さんの部屋も好きにしていいと言われているけれど、まだ一応残してある。
いつでも帰れる実家って大事だと思うので。
魔女さんには、もう少し落ち着いたら報告に行こうと思う。
最近は冷えるようになってきていたけれど、先に起きたナイルが薪をくべておいてくれるので、とてもありがたい。
彼が来てくれたことで、男手があるとどれほど生活が楽になるのかを痛感した。
重たいものなんかはひょいっと持ち上げてしまうし、鍬さばきも素晴らしい。
壊れたものの修理から家の補強までなんでもサッとこなしてくれて、冬支度もあっという間に終わってしまった。
本当に、彼には感謝しかない。
私にはとても素晴らしい土地だけど、彼も気に入ってくれたようで嬉しかった。
◇◇◇
――ベルネイア王国、王城の一室にて。
「クソっ、どいつもこいつも聖女聖女と……! アメリアはまだ見つからんのかッ!? さっさと探し出して、ここへ連れてこいッ!!」
第三王子セドリックの怒号が、部屋中に響いた。
苛立たしげに手近な調度品を掴んでは、力いっぱい叩きつける。
高価な陶器やガラスが手当たり次第に割られていく光景は、彼がどれほど追い詰められているのかを如実に示していた。
セドリックの激高する姿に、マルグリットは顔を引きつらせた。
ようやく得た彼の婚約者の座は、今や危うい場所と化していた。
辺境地域を中心に反抗の意志を示した人々は、王族や王都に住む貴族たちへ強い怒りを向けていた。
今こそ団結すべきなのは明白だったが、国王が体調不良を理由に姿を現さなくなってしばらく経つ。
そのせいで指揮系統は乱れ、権力争いは激化。
次期王位をめぐり、王子たちをはじめ、それを支持する貴族たちの間で足の引っ張り合いや裏切りが横行。
内部崩壊目前の、泥沼の様相を呈していた。
それなのに――誰もかれもが、今も『聖女』さえいれば、問題が解決すると信じ切っている。
マルグリットにはそのことがまるで理解できず、何よりも許し難かった。
「で……ですがアメリアは、なんの力も持たない平民の女です! 今さら連れ戻したところで、到底役に立つはずもありません!!」
「うるさいッ! そんなことは、俺だってわかっているに決まっているだろうが!!」
「きゃあっ!」
セドリックに頬を張られ、マルグリットは床に倒れ込んだ。
痛みと屈辱に涙を流す婚約者を気にも留めず、セドリックは頭をかきむしる。
「馬鹿な連中が、『聖女の呪い』だのと騒いでいるせいだ! クソッ、そんなものあるはずもないというのに……!」
ぶつぶつと呟きながら、セドリックは部屋を往復しては壁を殴り、椅子を蹴飛ばして鬱憤を晴らす。
ただでさえ、『聖女』の称号剥奪は想定以上に反発が大きかった。
水害に続き、大司祭の死、そして国王の体調不良。
全ては、神に選ばれた『聖女』を偽物扱いして追放した罰が下ったのだ――というのが、『聖女』支持者たちの言い分だった。
部屋にはセドリックとマルグリットの他に、顔を覆面で隠した人間が数人伏していた。
彼らはセドリックの雇い入れた暗部の者たちで、『聖女』を見つけて城へ連れてくるよう命令されていた。
だが国中を探し回っても、『聖女』を見つけることは叶わなかった。
「なんとしてでも、兄たちよりも先に見つけ出せ! あの女を衆目に晒せば、愚かなことを言っている連中も黙る。――そうすれば、反乱を治めた俺が次期国王だ!!」
覆面のうち一人が、ぼそぼそと口を開く。
激高したセドリックに中断された、報告の続きだった。
「何……!? フロレシアへ向かった者が行方不明? ならばそこを重点的に探せッ! 隣国だろうと知ったことか!!」
雇い主の号令に、覆面たちは一斉に姿を消した。
セドリックはそれに満足げに鼻を鳴らすと、今も床の上でさめざめとすすり泣くマルグリットの顔を掴み上げる。
「理解したか? あの女に特別な力がなかろうと、そんなことはもうどうだっていいんだよ。わかったならさっさと、侯爵に今の話を伝えろッ!!」
言うなり、セドリックはマルグリットを扉の方へ押しやった。
転がるように退室していく婚約者のことなど見向きもせず、彼は窓の外を憎々しげに睨みつける。
濃灰色の暗雲が、今も王都を覆っていた。
◇◇◇
音を立てないように、ナイルは慎重に獲物の痕跡を追う。
この森に慣れてきたせいか、来たばかりのころよりは随分容易にあたりを付けられるようになってきた。
地面に残されたごくわずかな足跡を見逃さないように、周囲にも神経を張り巡らせながら、距離を縮めていく。
ようやく目視できた獲物は、蔦か何かに絡まれ、身動きが取れずにいたらしい。
土と草に塗れ、荒く浅い呼吸を繰り返しながら、ぎょろぎょろと目玉だけを動かして、絡みつく植物から必死に逃れる術を探している。
長時間このままだったのだろう、唸り声一つ上げる体力も残っていないようだ。
獲物の哀れな様を確認すると、ナイルはするりとその身を晒した。
突然現れた彼の姿に、獲物は動きを止める。
助けを求める懇願の視線は、しかし凶悪な笑みを浮かべる狩人の姿を認めた途端、絶望に変わった。
最後の力を振り絞って暴れる獲物の元へ、ナイルはゆっくりと歩を進める。
獲物はただ、ひたひたと死が這い寄ってくる恐怖に侵されることしかできない。
「カワイソウに、足が折れてる。痛みで眠ることもできず……はは、拘束を噛み千切る力も残っていないのか。この様子じゃ、随分この森を彷徨ってたみたいだな」
ナイルは腰の剣を引き抜いた。
そしてその切っ先で、獲物を固く拘束していた蔦の一部を切り裂く。
自由にするためではない。
獲物の様子を、もっとよく見るためだった。
「間抜けな主に仕えてるんじゃ、アンタも大変だな。彼女がその気になれば、見つけることなんてできっこないのに」
アメリアは彼女自身の言うとおり、『聖女』ではないのかもしれないが――自然に愛された、特別な存在だ。
本人は気づいていないらしいが、傍で見ていれば誰にでもわかることだった。
そんな彼女が身を隠すために、森――それも『魔女』の棲んでいた特異な土地に足を踏み入れたのなら、つまりそれは、見つけ出すのは不可能ということだ。
ナイルは幸運なことに、彼女の守り人として、森に許されたに過ぎない。
願わくば――アメリアを愛する男としても、受け入れられていればいいと思う。
故郷を救ってもらった恩義だけではない。
純粋な彼女を守りたかった。
王子と結婚するのなら、騎士となってその身を捧げよう。
そのために、故郷を継ぐ役目は弟へ託した。
それほどまでに、彼は彼女を想っていた。
身勝手に放り出した挙句、ようやく彼女が得た安息まで奪おうとするのは許せなかった。
――ましてや、同じ屋根の下に暮らすという夢のような生活を脅かそうなどと。
ナイルは口元を歪ませ、残忍な笑みを浮かべると……見慣れた覆面の下、その首元に、刃を滑らせる。
「心配するな、すぐ楽にはしないさ。アンタじゃ大した養分にもならんだろうが――じっくりと、その血を、命を、この森に捧げてくれ」
微かな悲鳴は、木々に飲み込まれた。
冷えた空気に、血潮の熱が吐息のように広がった。
***
人参を引き抜いた土の香りと一緒に、ふわりと血臭が漂った気がした。
振り返れば、ナイルが手土産片手に帰ってきたところだった。
どうやら今日は、山鳥を仕留めたらしい。
ナイルは狩りや罠猟も得意なようで、彼が来てくれてから食卓にお肉が上がることが増えた。
「おかえりなさい。今日も絶好調だね!」
「ただいま、アメリア。あぁ、鹿も狩れたんだが……持ちきれないから川に沈めてきた。明日回収してくるよ」
「えっ、すごい! この調子だと、冬の間もずっと御馳走が食べられそう!!」
「はは、そうなるといいな。この鳥もすぐ捌いてくるから、待っててくれ」
お礼を伝えるとナイルは嬉しそうにはにかんで、小屋へ向かった。
お肉の解体はナイルにお任せしっぱなしだ。
工程が複雑なので、手慣れている人にやってもらうのが圧倒的に無駄がなくて速い。
その分私は美味しい料理や保存食作りを研究して、お返しできればと思っている。
とりあえず、今日は焼き鳥だ。
私はうきうきと農機具を片付けて、キッチンに向かったのだった。
◇◇◇
――ベルネイア王国、王城の一室にて。
城の片隅で、セドリックは怒りに打ち震えていた。
王都は包囲され、敵が王城にまで攻め入ってきたのだ。
隠し通路は塞がれ、今や城を抜け出すこともできなくなった。
残された護衛は少ない。
美しく装飾の施された長剣で彼らと共に抗ったところで、多勢に無勢だろう。
「クソっ、あのセイラーの裏切り者どもめッ……!」
乱れた黄金色の髪をかきむしりながら、セドリックは呪詛を吐く。
婚約者のマルグリットを含め、セイラー侯爵家は全く役に立たなかった。
セドリックの言うことに渋々と従ってはいたが、保身ばかり考えていた連中は『聖女』探しにも消極的だった。
それどころか――この危機に対し、自分たちだけさっさと逃げ出す始末。
「どいつもこいつも、役立たず共めッ」
『聖女』を取り戻すための放った追っ手も、誰一人戻ってこない。
だがセドリックは、どうして自分がこのような状況に陥ったのか、未だに理解できてはいなかった。
全ては愚か者たちが騒いで暴れているのだと、自分たちには過失など何もないと、信じていた。
アメリアさえ、戻ってきたのなら。
それこそ彼自身が否定していた奇跡のごとく、何もかもが解決するのだと……。
足音が近づいていた。
セドリックは苛々とした表情を強張らせ、身を固くする。
彼の緊迫が最高潮に達したとき、扉が叩かれた。
そして――彼と侵入者を隔てていた扉は、内側から呆気なく開かれる。
護衛にまで裏切られていたと理解した途端、セドリックは膝から崩れ落ちた。
――第三王子セドリック。
隣で支えるべき婚約者は、後ろ盾となるはずだったセイラー侯爵家共々、彼を置いて逃亡。
切り札となる『聖女』を見つけてくるはずの者たちは行方知れず。
命に代えても護るべき護衛たちは、いつの間にか敵と通じ、彼を差し出した。
血を分けた親兄弟とは王位を巡り争い合い、現状どうなっているのかもわからない。
味方は誰一人、残っていなかった。
◇◇◇
暖かくなってくると、私は忙しなく畑を駆け回るようになった。
春は、やることが山のようにある。
ナイルと一緒に土起こしをしておいた畑は、ふかふかで植え付けもしやすい。
きっと栄養たっぷりなので、よく育ってくれるだろう。
私が種を蒔いたり苗を植えたりしている傍ら、ナイルは冬囲いの覆いを剥いで回っている。
どの植物も、無事に冬を超えられたようだった。
土や木々から覗く新芽を見ていると、胸が温かく踊るような心地がする。
かつて派遣されていた農地でも、もう同じように植え付けが始まっているだろうか。
先日様子を見に来てくれた魔女さんから、あの国の近況を教えてもらった。
王都を包囲した辺境側の勢力は、王城を制圧したらしい。
これまであの国で権力を振りかざしていた連中は、その行いのせいで反旗を翻され――そして敗れたのだ。
城にいた王族をはじめ、身の危険を感じ家財を持って逃げようとした貴族たちも、ほとんどは捕縛されたという。
乱れた王都の状況が落ち着き次第、裁判が開かれるのではないかということだった。
既に処刑を求める声も大きいそうだけど――自業自得だという感想しか浮かんでこない。
争いの結末を聞いても、さして胸は痛まなかった。
やっぱり私は、『聖女』なんかじゃなかったということなんだろう。
私は私なりに、あの国の人たちのためにできることはやってきたつもりだ。
これ以上は、何を求められても差し出せるものはない。
ただ……争いを乗り越えた先には、人々が明るく手を取り合うような国になればいいと願っている。
結局、追っ手は現れなかった。
思っていた通り、この森はいい目隠しになってくれたのだろう。
ナイルくらい森歩きに長けた人でなければ、こういう場所までしらみつぶしに探そうとも思わなかったはず。
これでもう、私を連れ戻そうとする人もいないだろう。
「――アメリア、そろそろ休憩にしよう」
「そうね、ナイル。ありがとう」
彼との生活にも、すっかり慣れた。
一緒に冬を越したことで、距離が縮まったのか……それとも私の心境に、変化が訪れたのか。
もう追っ手の心配がなくなったにもかかわらず、ナイルがここを離れる気がないと知ったとき。
私の心に、たとえようのないほどの安堵が広がった。
気づけば、彼が傍にいてくれることが当たり前になっていた。
ナイルの用意してくれたお茶セットを見て、昨日パウンドケーキを焼いておいたのを思い出す。
森で取れた果物を干して、魔女さんの残していった蜂蜜酒に漬けたものを混ぜ込んだ、間違いのない品だ。
私はここで、かけがえのない生活を手に入れた。
素敵な土地に、手入れのし甲斐のある畑や薬草園。
今年は牛を飼ってみようかなんて、ナイルと計画しているところだ。
自然に囲まれた中での、のんびりと満ち足りた日々。
穏やかな夢のような暮らしが、これからもずっと続けばいい。
土と草の香りを存分に吸い込んで、私は手を洗うために腰を上げた。
家庭菜園の知識で聖女になった転生者が、最後は自分の家庭菜園を持って幸せに暮らすお話でした!
かなり長くなってしまいましたが、ここまでお付き合いいただきありがとうございます!
もう少し後書きっぽいことを活動報告に書いています。
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ここまでお読みいただきありがとうございました!




