悪役令嬢に転生したら、チェーホフの法則に支配された世界でした
「リリーナ。お前との婚約を破棄させてもらう」
ついに来てしまったか。
悪役令嬢の定番イベント。婚約破棄。
このイベントが来てしまったが最後、バッドエンドにまっしぐら。
(私の人生、おしまいだわ……)
ああ、早く悪いことは忘れて、家に帰ってお酒を飲んで眠りたい。全てなくなって欲しい。
「リリーナ。お前との婚約を破棄させてもらう」
あの、そのセリフ、さっき聞きましたけど。二度も言われなくも分かりますよ。私そこまで頭は悪くないんで……。
「リリーナ。お前との婚約を破棄させてもらう」
はあ……? この人、どうしちゃったの……?
さすがに私も異様な空気に気づいた。目の前の男だけではない。周囲の人間も、同じ行動を何度も繰り返しているのだ。
パーティー会場に置かれた振り子時計を見てみる。振り子が動いていない。
時間が止まっている。
なるほど、エントロピーの法則に反してますね。エントロピーってなんだっけ?
だいたい、五分ほど悩んでみた。時計は止まっているので、大体の目算だが。
「チェーホフの法則……」
何故こんな言葉が出たかと言えば、私は二次創作に没頭していた時期があって、その時にシナリオの勉強をしていたからだ。
19世紀、劇作家のアントン・チェーホフは我々にこんな言葉を残した。
『第一幕で壁に銃がかかっていたら、第二幕でその銃は使われなければならない』
簡単に言うと、シナリオ上で一度でも登場させたアイテムは、その後にどこかで使用しましょうね。
たった、これだけのことを言っているのだ。
だが、ラノベ作家志望のワナビ達は、みなチェーホフの法則の前に敗れ去り、多くのワナビが引退を余儀なくされたのだ。
ついたあだ名は『筆折りチェーホフ』!!
(チェーホフ……恐ろしい人!)
ワナビはただ皆にちやほやしてもらいたかっただけなのに。
あと、楽してお金を稼げるかも、というほんの出来心で……。
つまり、私が何を言いたいのかというと。
この世界はチェーホフの法則に従っているのではないだろうか。
シナリオが進行しないのは、チェーホフの条件を満たしていないから。条件を満たさない限り、永遠に目の前の男が婚約破棄を連呼し続けることになるのだ。
それはあたかも、壊れたレイディオのように。
(いい気味だわ! ざまぁ!)
いやいや、そうではなく、シナリオはちゃんと進行させないとね。
でも、よく考えて欲しい。
要は、『壁にかかったアイテム』を使用すればいいだけの話だ。
超簡単な話である。この法則さえ知っていれば、お手軽に問題は解決できる。
もう、これだからワナビは。
こんな簡単なこともできないの?
(やれやれ……)
というわけで、壁を見てましょう。
壁にかかったアイテム:
アンパン・車・銃・ゴリラ・エッチな本
(……なん……だと…!)
婚約破棄のイベントで、このアイテム群を使用しないといけないの?
ワナビの人たち。前言撤回します。
あなたたちは、いつもこんな苦労をしてシナリオを考えてたんですね。
(こんなのできるかあ!)
いや、やりますけどね。
そうしないと、この小説が成立しませんからね。
*
(落ち着け、私……これは試練よ。シナリオの神が課した試練……!)
もう一度、壁を確認する。
アンパン。車。銃。ゴリラ。エッチな本。
……どう見ても一つのジャンルに収まっていない。むしろ世界観が五つくらい衝突している。
(でも、使えばいいのよね? “使えば”……)
私は深呼吸した。時間は止まっている。誰も私の奇行を咎める者はいない。
まずは一番安全そうなものからいこう。
「アンパン……」
壁から外してみると、なぜかまだ温かい。出来立てか? この状況で?
(まあいいわ)
私はそれを、婚約破棄を連呼し続ける男――元婚約者(予定)の口に突っ込んだ。
「リリーナ。お前との婚約を――もごっ!?」
よし、一時停止成功。
(ひとつ目、クリアね)
だが、空間はまだ動かない。時計も沈黙したままだ。
(次……車?)
壁に掛かっている車という意味不明な存在に手を伸ばす。すると――
ズズン!!
突然、会場のど真ん中に高級車が出現した。
「ちょっと!? 壁から取り外したら実体化する仕様!?」
とりあえず私はその車に乗り込む。
(使うって、こういうことでしょ!?)
アクセルを踏む。
ブオォォン!!
パーティー会場を爆走する令嬢という前代未聞の光景。しかし時間は止まっているので、誰も驚かない。悲しい。
勢いよく元婚約者に突っ込む――直前でブレーキ。
(さすがに轢いたらバッドエンド直行よね)
代わりにクラクションを鳴らす。
「プァーーーー!!」
……変化なし。
(だめか)
車、微妙に用途を間違えた気がするけど、とりあえず「使用」はしたことにして次へ。
(銃……いく?)
私は恐る恐る銃を手に取る。
ずっしりとした重み。やけにリアルだ。
(これ絶対ラブコメの小道具じゃないわよね)
しかしチェーホフは容赦しない。出したからには使え、と。
私は覚悟を決め、天井に向けて撃った。
パンッ!!
乾いた銃声が響く。
その瞬間――ほんのわずか、空気が揺らいだ。
(今、何か変わった!?)
だが、まだ完全には動かない。
(あと二つ……ゴリラと……その……)
視線を向ける。
ゴリラ。
完全にゴリラ。
なぜか蝶ネクタイをしている。
(……もうやけよ)
私はゴリラを壁から外した。
すると――
「ウホォ!!」
即座に実体化して、めちゃくちゃ元気に動き出した。
「え、動くの!? 時間止まってるのに!?」
ゴリラは胸をドンドン叩きながら、元婚約者の前に立つ。
「ウホ!」
そして――ビンタした。
パァン!!
「リリーナ。お前との婚約を破棄させてもら――あっ」
元婚約者の動きが、一瞬だけ自然になった。
(効いてる! ゴリラ効いてる!)
あと一押し。
残るは、最後のアイテム。
(……これを使うしかないのね)
私は覚悟を決めて、それを手に取った。
エッチな本。
(人生で一番使いどころに困るタイミングなんだけど!?)
しかし、チェーホフは絶対である。
私は本を開き、元婚約者の目の前に突きつけた。
「これを見なさい!!」
「リリーナ。お前との婚約を――えっ」
彼の目が、明らかに“時間停止中の人間の目”ではなくなった。
「な、なんだこれは……!?」
――その瞬間。
カチリ。
振り子時計が動き出した。
時間が、再開する。
ざわ……!
会場の人々が一斉に動き出す。
「な、何が起きたの!?」
「車があるぞ!?」
「ゴリラ!?」
「誰か警備を呼べ!!」
大混乱の中、元婚約者は顔を真っ赤にして叫んだ。
「リリーナ!! こんな破廉恥なものを持ち込むとは何事だ!!」
(そこ!?)
だが私は、ゆっくりと微笑んだ。
「婚約破棄のお言葉、確かに三回承りましたわ」
「なに?」
「ですが――その前に」
私はゴリラを指差す。
「この子にビンタされた理由、説明していただけます?」
「ウホ」
「あと車の弁償と、天井の修理費と」
銃をくるくる回す。
「これ、どう処理しましょうか?」
会場が静まり返る。
完全に主導権はこちらにある。
(チェーホフ……あなた、やっぱり恐ろしい人だわ)
こうして私は、婚約破棄イベントを――
なぜかゴリラとエッチな本で乗り切ったのだった。




