名前のない10円
傾きかけた夕陽に染まる静かな公園
「……振られた」
美咲は笑っていた。泣きそうなくせに。
「だな」
美咲は少し笑う。
「でも」
ポケットの中で、俺は静かに震える。
「ちゃんと言えた」
ああ。ちゃんと、言えた。
その瞬間、体の奥が熱くなる。
金属がきしむ感覚。光。
美咲がポケットから俺を取り出す。
「……え?」
そこにあったのは、10円ではなかった。
穴のあいた、50円玉。
「うそ……」
指先が震えている。
理の声が、遠くで響く。
「第一段階、達成」
でもそれよりも、
美咲の体温のほうが、強かった。
「……ほんとに、叶ったんだ」
ぽつりと呟く。
「なあ」
俺は静かに言う。
「お前の願いは叶った。だから――」
わかっている。
使われなければ、戻れない。
「……そうだよね」
美咲は50円玉になった俺を見つめる。
しばらく、握ったまま。
強く。
離したくないみたいに。
「ありがとう」
小さく笑う。
「名前、教えてくれなかったけど」
少しだけ間を置いて、
「……ありがとう、10円」
胸が、ぎゅっとなる。
「もう50円だ」
軽口を叩く。
「…バカ」
「使ってあげないよ」
美咲が笑いながら答える。
名前なんていらないと思った。
でも。
呼ばれるって、悪くない。
美咲は歩き出す。
校門を出て、駅前の自販機の前で立ち止まる。
「……使わなきゃ、戻れないんでしょ?」
「そうだ」
「…戻ったら、会える?」
「…これまでの記憶は消えるはずだ」
隠さずに教える。
少しだけ、沈黙。
「そっか……それでも、いいや」
笑った。強い顔だった。
カタン。
投入口が開く。
「ちゃんと、ありがとう言っとくね」
軽く息を吸う。
「勇気くれて、ありがとう」
俺は言う。
「次は、自分でやれよ」
「うん」
コイン投入口に、指がかかる。
「さよなら、10円」
涙を含んだ声が聞こえる。
カラン。
暗闇。落ちる。金属音。
そして――
白。
目が開く。
「……戻った」
俺は、元の体で、コンビニ前に立っていた。
時間は進んでいる。夜風が吹く。
ポケットを探る。
中には、50円玉。
遠くで、誰かが笑っている。
駅前。自販機の前で、美咲がジュースを手にしている。
すれ違う。
彼女は俺を見ない。
当然だ。覚えていない。
でも、ほんの一瞬。
すれ違いざまに、彼女の視線がふっと止まった。
「……あれ?」
小さな声。
でも、ほんの一瞬、足が止まる。手がわずかに止まる。
気のせい、みたいな顔をして歩いていく。
胸がざわつく。なんだ今の。
そのとき。
「第一段階、終了」
ポケット50円からあの声。
取り出して手に持つ。
「君は戻った。時間は進んでいる。未来は、君が関与した形に少しだけ変化した」
「……モテ効果は?」
理が、わずかに笑う。
「周囲を見てみなよ」
コンビニから出てきた女子高生が、一瞬こちらを見る。
目が合う。すぐ逸らされるが、前より“無”ではない。ゼロじゃない。
「続けるなら50円を使えば、次が始まるから考えて使いなよ」
楽しそうに50円が語りかけるがもうそれ以上喋ることはなかった。
自販機に飲み込まれた瞬間の感覚は、まだ覚えている。
暗転。金属音。
胸の奥に、微妙な余韻が残っていた。
誰かの手の温度。誰かの声。誰かの涙。
――でも名前は、言わなかった。
あれでよかったのかは、まだわからない。
◇
その日の大学。
講義が終わり、席を立とうとしたとき。
「ねえ」
後ろから声。
振り向く。
女子。
同じ講義を受けている子。名前は知らない。
「このプリントさ、次回提出あるんだっけ?」
俺に?聞き間違いじゃなく?
「あ、あると思う。来週」
「だよね。ありがと」
普通の会話。三往復で終了。
それだけ。それだけなのに。胸が、少し熱い。
――ゼロじゃない。
昼休み。
友達といつもの学食。
「なんかさ」
ポテチじゃなく、今日は唐揚げ定食。
「お前さ」
友達が俺を見る。
「雰囲気変わった?」
「は?」
「いや、なんかこう……」
言葉を探すように指をくるくる回す。
「余裕ある感じ?」
余裕?俺が?
「気のせいだろ」
「そうか?」
でも否定しきれなかった。
◇
夜。
ベッドに倒れ込む。
「……また、来るのか?」
理はまだ現れない。
部屋は静かだ。
けれど、心の奥で微かな予感がある。
もし次があるなら、もっとモテるかもしれない。
もっと価値が上がるかもしれない。
そして、手には50円。
50円でこれだ。
100円ならどうなる?
もっと。
もっと俺を見てもらえるかもしれない。
使えば、また次の段階が始まる。
やめる選択肢はない。
天井を見上げる。
部屋は静かだ。
けれど、手のひらには50円。
これで次が始まる。胸の奥が少し高鳴る。
「……よし、いくか」
軽く笑い、50円を握り直す。
静かに立ち上がり、部屋を出る。
夜風が窓から吹き込む廊下を歩き、近所の自販機まで足を運ぶ。
懐かしい光。冷たい金属。少しだけ緊張する。
50円を握り直し、投入口に滑り込ませる。
カタン。金属音が響く。
光が差し込み、体が少し浮くような感覚。
そして――また、50円として、誰かの元に飛んでいく。
ワクワクしている。少しだけ緊張もしている。
でも、それが面白い。
ゼロじゃない。世界は少しずつ変わっていく。
そして俺も、まだ冒険の途中だ。




