3日目(後編) 私は神を信じない
後編です!
「私は神を信じていません」そう言われて私は唖然とした。教会の管理を任されるような人が神を信じない?!そんな矛盾が具現化したようなことが罷り通って良いものか!
しかし私はまるでその答えを待っていましたといわんばかりに高揚していた。「なぜですか?」私は彼に聞く。
彼はゆっくりと口を開いて「もう20年前の話です」と話し始めた。「私は3人家族の大黒柱でした。どこにでもいる普通のね。強いていうなら、私が宗教2世なのでその大黒柱が宗教信者だったことです。当時の私は神を信じてやまなかった。この今ある幸せは神の授けものである。そう思っていました。しかしその幸せは唐突に終わりを告げたのです」それを尻目に彼の声が少し震え出す。「今から22年前、娘が突然心臓発作で亡くなりました。AEDなどできることは全て処置した上で。当時まだ彼女は20歳でした。そしてその1年後に妻の癌が見つかりました。発見した時にはもう遅く、体の至るところに転移しており、回復は見込めない状態でした。そしてその1年後、延命治療もむなしく妻が亡くなりました」彼の声の震えは止まっている。「だから神を信じないと。」私はそう彼に言った。
しかし彼は「いいえ。もちろん、当時は神のを否定しました。なぜ信心深い私がこのように苦しむのか。なぜ妻は死んでしまったのか。そう嘆いていました。しかし妻が亡くなってから5年後、私は気づいたのです」「何をですか?」私は高揚したまま前のめりに彼に聞いた。
「神とは、とどのつまり孤独に耐えきれなくなった人間が生み出した一種の妄想だったのだと。少し話を逸らしても良いでしょうか。」私は深く頷き、彼の話を聞くことにした。「人という字は人と人が支え合ってできている。つまり人は人と支え合うことによって生きているということ。この有名な言葉はあなたも知っていると思います。それと同時に私はこの言葉は物事の真理をついた言葉だとも思っています。例えば私が仮に今ここで胸の前で十字架を切り、神に祈る。しかしそうしたことによって救われる訳でもなければ、あなたに幸せが訪れる訳でもありません。しかし、顔も知らない人の作った椅子に座る。これだけで体を休ませることができます。そして椅子に座って体を休めているその時、私はその顔も知らない人に支えられている状態だと言えます」私はその話にひどく納得した。家を出された当日、小石の上で寝たが目を覚ましても疲れはあまり取れていなかった。しかし1日目で泊めてもらった小五郎さんの家にて、顔も知らない人が作った床で眠った時は目覚めがとてもすっきりとしていた。確かに今言われてみればあれは人に支えられているような状態だ。
私の納得したような表情を見て彼は話を続ける。「今では、インターネットなどで人との繋がりはたくさん作れると思います。しかし神を生み出した人たちが生きていた時代には人との繋がりも何もない真に孤独な状態の人が沢山いたと思うのです。先ほど話したように人は1人では生きていけません。そこで彼らが生み出したのが神なのではないかと私は考えています。誰も支えてくれなかった心を神という存在で補うことにより支えられたのです。そして同じような状態の人たちが集まり大きくなったものが宗教である。そう私は考えています。」私はなるほどと首を縦に振った。しかしなぜ彼は神を信じていないのに修道院をしているのだろうか。私はたまらずに彼に聞いた。すると彼は「私もまた、家族を失い孤独でした。そのとき支えてくれたのがここの信者さんたちだったのです。辛い状態から救い出してくれた彼らに少しでも恩が返せるよう私はここを管理しているのです」彼はそういうとふっと笑い、どこか心残りが抜けたように続けた。「私の話を聞いてくださりありがとうございます。この話はおそらく死ぬまで心の中にしまうものだろうと思っていたのですが今日あなたに話したお陰で心がすごく晴れやかになりました。あなたはいい人ですね」そう言われて私は嬉しくなったがそれと同時にまた心がモヤっとした。
その日は教会の奥の仮眠室で寝かせてもらうことになった。久しぶりのベットに心と体を弾ませながら私は深い眠りについた。いつかこの心のモヤモヤが晴れることを願いながら。
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