赤い月は花の匂い
――。
たなびくのは白い雲。
天に昇る道。
どこか、甘い香り、薫香。
林檎の木の爆ぜる匂い。
それは幸福を思わせる漂う香り。
いつもの縁側の香り。
・
――数十年前。
この村で一番美味しい林檎を作る農家はどこか。
問いをその村のみならず、周辺のどの村で聞いたとしても口を揃えて挙げる名前があった。実際にその家に行ってみるとその理由も分かるような気がする。
別に農業の専門家でなくても分かる。
それは、愛情を沢山注がれた女の子が綺麗である、というのと同じように。自然からの愛として素晴らしい環境が存在していた。
品種改良と飼料配合、温度管理等々、とはまた違う。それらで生まれる美味しさを整形外科の技術や服装を着飾る事で生まれる美しさと対応させるなら、美しい立ち居振る舞いや、相手を思いやる心、美しい物を美しいと思える感性のように外見を着飾るわけでも、すぐさま体に染みつかせる事が出来るわけでもないものの様な。
人を表す時に『生まれと育ち』のような言葉で表される物が、そこには最上の物として充溢していた。
その自然の賜物というべき農家には夫婦がいた。周囲の村で一番だと評判が立ち始めた頃、二人は三十代の後半であり、子供が二人いた。
農地を渡る風は秋になれば甘い花の香りが家中を満たす。押しつけがましくなく秋の風に浚われる香りは慎み深いとすら思える。
・
――現在。
えっと、はい、録音してるんですか?
ちょ、ちょっと恥ずかしいですね、文化祭で劇をやっても前の方に出る役じゃなかったですから。ま、待ってください。
――すぅ、はぁ……はい、どうぞ。
えと、はい、私は実際にはお婆ちゃんを知りません。私が生まれたときにはもう居なかったからです。
病気だったと聞いています。それも、当時の医学ではどうしようもない病気。お父さんが子供の頃の話だそうです。――お父さんが子供の頃なんて、想像できません。私が生まれた時から『お父さん』は『お父さん』で大人だったから。
お爺ちゃんを見たときに、お父さんもあんな風に年をとるのかな、とは思いますが。だからといって、若い頃が想像できる訳でもないし、お父さんの幼いときの写真も殆ど残ってないです。
――お父さんの話じゃないですね。お婆ちゃんの話でしたね。
お婆ちゃんは――えっと、知ってる事はお爺ちゃんに聞いた事だけです。
とっても綺麗な人だったと聞いてます。そして、とっても強い人。
お爺ちゃんが戦争に行っている間も林檎の木を守っていたのだと、言っていました。種と苗木と土地を。
戦争がどれくらいの物だったのか、それこそ、写真や数字や、人の話でしか聞いた事は無いですけれどお爺ちゃんの言葉で良く覚えている物があります。『この林檎の沢山の樹を見て秋の風が運ぶ匂いを受けて、自分の体に染みついた血と火薬の匂いが少しずつ体から剥がれていくのを感じたとき、戦争が自分の中で終わった』と、そういっていました。
そして、その林檎達を守っていたのがお婆ちゃんです。――こういう事を口に出すのは少し恥ずかしいのですが――あ、あ、あいしていたりまもろうとしたり、そういう気持ちがお爺ちゃんの中の戦争を終わらせてくれたんだと思います……え、えっと。
こ、こんな話で良かったんですか?
――他に?
あ、そういえばお守りの中に林檎の種を入れて持っていったらしいです。離れていても繋がっているし、林檎も故郷に帰ろうとするからじゃないかな、と思いますけど。
お爺ちゃんは戦争の時にもお守りの袋の中から林檎の香りがしたといっていました。
――え、はい。多分、家のどこかにはあると思うんですけど、大事にしまってたみたいで何処にあるのかまでは。
・
――現在。
あら、お義父さんとお義母さんのお話が聞きたいんですか?
うちの人の方が知っていると思いますが、少し今は忙しいですからね。
私ですか? 義妹が手伝いをしてくれるとの事で少し休憩をいただきました……、あ、いえいえ、別にようやく取れた休憩だからといって遠慮なさらなくても大丈夫ですよ。
お若いお嬢さんには、お仕事頑張っていただきたいですから。
あら、やだ、こういう言い方をすると年寄り臭いですね。
――それで? 先ほどは娘にも何か聞いておられたみたいですが、何をお聞きになりたいのですか?
……。なるほど。その質問は少し回りくどいですね、取材の手法の一つですか?
いえ、別に気を悪くしたとかそういう事じゃないんですけど。
――で、結局のところ、それらの問いをまとめると、『お義父さんがお義母さんを愛していたのか』という話ですね?
そのためにはまず、貴方と私の間で『愛』とは何かについての定義をするところから始めないと行けませんよね……。ふふ、冗談ですよ、回りくどい言い方をされたので、同じように返しただけです。
ですが、端的に答えるのも難しいですね、愛ってやっぱり、個人的な物だと思いますから。少なくとも大事には思っておられたと思いますし、ある種神格化されておられたかも知れません。実際に見たわけではないのですが、お義母さんがお亡くなりになられたときに遺灰を林檎の木の根本に撒いたらしいです、えぇ、全部ではなく一部ですが。
――いえ、聞いた話だと『泣きながら』ではなく、まるで『当然そうすべき事をする』というような態度だったそうです。はい、だから、神格化しているのではないか、と思っているんです。お義母さんが『林檎の精』の様な物だと思っていたんじゃないかと。
そうなら、林檎の根本に遺灰を撒くのも解るでしょう? お義母さんは林檎であり、林檎を育てる物で有り続けて欲しいという思いですから。
他に、ですか?
あぁ、実の成りが良かったりとか、甘みが強いとか、病気に強いとかそういう品種改良された林檎の受け入れについて、お義父さんは嫌だとは言わない人でしたけど……やっぱりお義母さんの遺灰を撒いた辺りの林檎の木には触れさせて貰えませんでしたね。
一番、二人でいられる場所、だったんでしょうね。
――あら、ほっぺたを赤くしてどうしました? お茶が熱かったですか? お義父さんが最後に作った林檎のジュース、飲んでみます?
・
――現代。
あー、あんたか。そういう、こと、なんだな。
あぁ、そうだよ、どうしてだか皆、全会一致で決まったさ。オヤジが大事にしてた、あの区画の林檎の木で柩を作ろうってな。
――いや、邪魔だったなんて思ってないさ。誰もだ。
こういう言い方は卑怯な気もするけど、オヤジがあの世に何を持っていきたいのか、と考えたんだよ。……ま、何も要らないって言うだろうけど、問い詰めれば最終的にはあの畑って言うと思ってな。
形は不揃いな事が多かったし、数が取れる訳でもなかった、甘さだって最近の品種とは違う……だが、オヤジの林檎は美味しかった。酸味と……やっぱり香りなのかな?
うん、この家にも満ちている香りだ。生まれた時から、産着よりも早く身に纏った香りだ。この家で生まれたうちの直系は、俺や妻の代で外から持ってきたような品種よりもオヤジの林檎が好きだった。
だが、……なんだろうな。やっぱり、あれは、オヤジの林檎でしかないんだよ。俺や妻が同じ種や接ぎ木、どれだけ方法を試してもオヤジの林檎の味にはならない。
オヤジとお袋の林檎だ。――はは、足りないんだよやっぱり、時間かな? 愛が負けてるとは思いたくないが。……そんで強かったしな、オヤジもお袋も。
――そうかな? あぁ、そうか、それはあんたの言うとおりだ、俺だって娘の前では格好を付けたいし、そうして格好を付けている俺が娘の目には強い父親に映ってるのかもしれん。
いつか、いつか、か。あぁ、俺と妻もきっといつかオヤジとお袋の林檎に追いつくさ。
娘にあれよりも美味しいと言わせるためにな。
――見えるのか? そっか、見えるなら見てろよ、越える瞬間を、そして、いつかそっちにいって自慢してやるから楽しみにしてろ、お袋。
オヤジを宜しくな。
・
――。
火葬場から煙は上る。
それは空にかけた階段にも見える。
林檎の香りのする階段を、誰かが迎えに下りてきて、誰かが引かれ昇っていく。
迎えに下りた者は、いつかの姿で、送る者達と言葉を交わした。
送られた者は、自分の園で育った木々に包まれて火と共に天へと昇る。
火葬場にはどこか甘い香り。
送る者達の目に染みて、涙に混じる。
お題をいただきまして作りました。ありがとうございます。
思った様な物でなかったなら、申し訳ありません。
お題は『果樹園』でした。
次のお題も楽しみにお待ちしています。ございました、どうぞ、お願いします。




