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幕間

聖女になくて彼女だけが持ち得るもの


 穏やかな昼下がり。レーヴェンによる授業が一段落して、スミレは聖女と聖騎士の俗っぽい恋愛小説とにらめっこをして、主題の役職を持つ彼は優雅に紅茶のカップを傾けている。レーヴェンは彼女がどこぞの棚の奥から発掘したそれに顔を顰めたけれど、文化の参考にはなるかと、結局は彼女を甘やかした。

「うーん、ええと、月が神さまの分身みたいなもので、聖女がその言葉を聞くことが出来るひとで、聖騎士は聖女や信者のうちの偉いひとを守るひとで、護衛騎士は……」

「ところで」

 ぱ、と彼女は顔を上げた。黒いくせに暗くなく、むしろ希望を抱いているように明るい瞳。【飽きた夜の森】なんかでシスターの真似事をやってみせ、黒蛇が首に巻き付いても笑って許す。

「――聖女に興味は無いのか?」

 そもそも。レーヴェンは代々ルーナに誓いを立てる一族だ。【月の慈雨】が正しく信仰され続けるために生きている。

「聖女に?」

 この子供はまさしく聖女のうつわだった。孤独でいるのに愛を知り、他人に優しくすることを知っている。やや自己犠牲のきらいがあるくらいがちょうどよくて、更に賢いが天然であれば尚よし。万人に愛され望まれ、神の声を聞いたと言っても頭を疑われないほどの純粋無垢な穢れのない――何ももたない女。

 聖女のうつわを引っ提げて帰れば、土産どころか昇進ものだ。

 そういうレーヴェンの内心を知らず、スミレは不思議そうに首をかしげている。

「特には……聖女って幸せなんですか? 本は『めでたしめでたし』でしか終わってないんですけど」

「この世の贅沢を味わえる。顔の良い者が貴様に跪き、愛する。ある程度の我儘なら許されるな。ああ、ある程度と言っても貴様が今持たないものの全てが手に入ると思っていい」

「……はあ。なら、大変なことは?」

「神前で行う祈祷はどの聖女も苦労していたように見えたな。大概の聖女が貴族から成るために身体を動かすこと自体に抵抗を示した場合が多かったらしい。あとは侍女がつかないからな。身の回りの世話を自分でしなければいけない……私が知るのはそれくらいか?」

「へえ。なんか、この本の見る目が変わりますね」

 まじまじと金の箔押しがされた皮表紙を見ているスミレに眉を上げる。

「どう変わる?」

「あんまり苦労してないなあって……この物語の聖騎士さんと素敵に出会って苦難を乗り越えて結ばれたのかと思っていましたが、最初からいた男の人だったんですね……」

「……普通の子女であればかなりの苦労だと思うぞ」

「そうなんでしょうけれど」

 軽い音を立てて本が閉じられる。

「なんか、人間みたい。私、贅沢もいらないですし、そこには黒い蛇はいないんでしょう? なら、聖女さまに興味はないですね」

 ……なるほど、この娘は確かに何ももたない不自由者だが、代わりに忠誠を誓ってくれる蛇ならいたなと、レーヴェンは深いため息をついた。








内心

ルチのいざこざ後の一幕


「れ、レーヴェンさん……怒って、ますか?」

 そろそろと窺うように見上げてくる視線に、レーヴェンは眉間のシワを深くした。

「怒ってはいない。呆れているだけだ。何度も言ったがな、身を守る力も無い癖に他人を助けようとするな。貴様がどのような場所で生きてきたのか知らないが、この街ではその優しさは身を滅ぼすだけだ」

「……」

「返事」

「う、はい」

「黒蛇から改めて貴様のことを頼まれた。授業に護身術を追加だ」

 淡々と聞こえるように言葉を吐く。この小娘は素直のようにみえて時折ひどく頑固だ。今も不満ですと顔に書いてあるようで、だから偶に……閉じ込めてやろうかという気になる。もしくは攫って聖女にしてやろうかという。

「……優しいのは、黒蛇さんとレーヴェンさんの方じゃないんですか」

 黒メノウの瞳が真っ直ぐにこちらを見ている。疑うことを知らない、敵意の欠片も無いそれに、レーヴェンはぎくりと身体を強張らせた。そんな純な視線を向けられるほど綺麗なものじゃない。

 もしレーヴェンの態度が心配しているように見えているのなら、それはルーナの命令によるものだし、黒蛇の契約であることで、そしてあわよくば聖女の器を持ち帰ってやろうという野心からくるものだ。

「……絶対に違う」

 あえぐように返す。口の中が酷く乾くような感覚があった。嘘をついている気になる。

「でも、でも私、あなたがいてくれて嬉しい。優しいひとたちで嬉しいです。本当に。守ってくれてありがとうございます」

 それなのに、罪悪感に溺れそうになっているレーヴェンへ彼女はまだ言い足した。心底そう思っているように。

「……そもそも黒蛇と出会わなければこのようなことになっていないし、貴様が傷付くようなことも無いと、以前も言っただろう――それでも優しいと?」

 否定して欲しかった。不満をぶつけられたかった。試すような真似をして、その柔らかい心根を傷付けた、だから。焼きごてを当てるように、熱を孕んだ拒絶で跡を残して欲しい。

 けれど、同時に。赦して欲しいと思う。この聖女のように優しい女に、あなたのことをゆるしますと言って欲しい。

「はい。それでも」

 ゾッとする。歓喜した自分に。浅ましくまだ側に居ていいのかと思ったおのれに。

「それでも、私、レーヴェンさんがいて嬉しいです」

 ――これまでの生を全てくつがえした黒蛇のように。たった一つの肯定で崩れた商人のように。

 レーヴェンもまた、やわらかなゆるしを施す彼女に確かな執着を宿した。







あれそれの顛末


 ぼんやりと、黒蛇はその光景を眺めていた。

「こう? ……違う気がする?」

 スミレが、弱っちくて柔らかくてどこかのお嬢様みたいに綺麗な人間が、一生懸命拳を突き出していた。

「ねえ、黒蛇さん、これってあってますか?」

 たぶん、殴り方を教わったのだと思う。殴るまでの威力がなくても、目の付近に手が当たれば怯ませることが出来るから。

「脇」

「へ」

 ただ、まるで形になっていなかった。スミレは本当に握った拳を前に出しているだけで、なんの意味も為していない。だから気まぐれに指示してやる。

「脇、開き過ぎてる。そんなんじゃ力が入らないでしょ。脇閉めて、相手真っ直ぐ見て、殴る」

「こうですか」

 ふにゃりとした動きだった。回転がない。体幹がない。踏み込みがない。猫の方が鋭い攻撃をするだろう。もしや、と黒蛇は思った。誰かに攻撃をしたこともなければ、しようと思ったことすら無いのでは、と。

「……体力作りからさせてって、聖騎士に言っておく」

 護身術が身につくことはないだろうなあと思いながら、黒蛇は取り敢えず努力は買うことにした。




「うぐ……」

 レーヴェンに組み敷かれて、スミレは潰れたまま呻いていた。

 次同じようなことがあっても抜け出せるようにという練習だった。ルチにされたように長椅子の上で押し倒されて、そこから抜け出す練習。

 ルチよりは体重があるからと緩く拘束してみたのにこれだった。弱い抵抗を続けるスミレを見下ろして舌打ちを噛み殺す。

「……これまでどうやって生きてきたんだ」

 いびつな女だった。あの黒蛇を料理で誑し、司教に気に入られ、商人を手懐ける。女嫌いの自分に練習の手伝いをさせもする。そのくせ普通に暮らしていれば必ずどこかで学ぶはずの常識が欠けていて、危機感も酷く薄い。どう育てれば、どう生きていけばこんな不思議なものになるのだろうか。

「ふ、普通にです……」

「警戒心の薄い生き物は容易く狩られ、淘汰される。お前はもっと気をつけるべきだ……それも無理そうだがな、聖女になればそんな危機感も不必要な生活を――」

「いいえ、ここだけが私の生きる場所ですから」

「……そう、か」




「シスター♡」

 甘ったるい声がスミレの耳に届いて、ぎょっとして身体を揺らした。もう聞くことのないと思っていた声。

 振り返ると予想通り、紺の髪と真っ黒なローブの男が立っている。にこにこと幸せそうに口元を緩めながら。

「る、ルチ?! 黒蛇さんがあなたはもう二度と来ないって」

 慌てて駆け寄って、ふと気付く。前髪の奥の片方が黒い眼帯で覆われていることと、シルエットがいびつなこと。

「ルチ、あなた、目と腕は……」

「〝落として〟きちまいました!」

 あっけらかんとした調子にゾッとした。このひとは、腕と目をなくしたことをそんな簡単に言えてしまうのかと。

 だから、怯えて固まってしまったから、するりと近付いたルチに反応しそこねた。すん、とスミレの耳のあたりで鼻をならして、彼は熱っぽい声を出す。

「でも、あは……あんたの匂いがする……かたっぽでもあんたのことが分かりゃいいすから、それだけで、それだけで十分なんです。あんただけが分かりゃあ……」

 ルチは長い前髪の奥でうっとりと目を細めている。スミレは湿度の高い視線を受けて、居心地悪く身じろぎをした。はっきりとした執着に溺れそうになる。息がしづらい。

「お、落としてきたって……生活に困るでしょう?」

「はい。だから優しいシスターが俺の面倒みてくれますよね? 飼ってくれますよね? いい子って撫でて、あたたかいごはんをくれて、大丈夫って笑ってくれますよね? なんでもしますよ、あんたのためならなんでも、ね?」

 キラキラと輝く、瞳孔の開いた笑顔だった。いつの間にやら掴まれた手首から火傷しそうなほどの熱が伝わる。身を引こうとして、罪悪感のようにもう片方にも指が絡んで、逃げられないと思った。

 ごく、と息をのんだ、その瞬間。

「それを黒蛇が許すと思ってる?」

「レーヴェンの名が許すとでも?」

 息の揃った声にルチは嫌そうに顔をしかめた。ぱ、とスミレの両手が解放される。彼女は慌てて黒蛇へ駆けて、その背後へ隠れた。

「オレはシスターに聞いてんだよ邪魔すんな」

 心底鬱陶しそうにルチが言う。黒蛇はへらへらと笑って肩を竦めた。

「そのシスターが家に入れちゃいけない人間一人決めることすら出来ないから、言ってる」

「ならテメェを納得させりゃあいいってことだな?」

「俺と聖騎士を、ね」

 それを聞いて彼は待ってましたと腕を広げて演者のように大げさに胸を張った。

「ここに誰も入らないように出来る。噂ってのは侮れねぇもんさ。オマエらには出来ねぇ芸当だろ? オレに任せりゃ……そうだな」

 ルチの唇が皮肉っぽくつり上がった。雰囲気が胡散臭さと紙一重の親しげなものになる。芝居じみた口調で彼はとうとうと言葉を紡ぐ。

「――ん? 面白え話? やあ、特に聞かねぇが……ああそうだ、やっぱり黒蛇は任務で他国に行ってるし、落としモノの女なんていやしねぇらしい。なんだ、両方御伽噺の存在だぜ? どこから聞いた話だか知らねえが、信じる方がマヌケだったって訳だわな」

 鼻で笑ったのが様になっていて、スミレはなんとなく拍手した。話の流れは読めてないから、黒い瞳は挙動不審にうろうろしている。

「成る程――森から司教が出てくるのを見たことがあるけど。なんかあるんじゃない?」

「ああ、あの森にゃあ教会があるんだと。例の見回りだよ。だからそれ以降行ってねぇだろ」

「――黒いローブを見たが、それは?」

「黒いローブ? その界隈の奴がそもそも森に居るかね? 紺か深緑とでも見間違ったんじゃねぇのか? それにさっきから森、森と……あそこは人の生きてられねぇ【飽きた夜の森】だぜ? 忘れて寝るといいさ」

 しばしの沈黙。やがて黒蛇は、一つこくりと首を前に倒した。

「ウン。利点はある。次この女を傷付けようとしたら殺す。それでいい?」

「……私は構わない」

 淡々とどこからか取り出したナイフをちらつかせる黒蛇と、拒否の顔付きで許可を出したレーヴェンを無視して、ルチはにこにことスミレに近付いた。

「えへ。シスターのために美味いもんいっぱい仕入れてきますね! 宝石もドレスもあんたの欲しいだけ!」

 見つめられた彼女はおろおろとしている。決断が下されたらしいとそれだけを察して、この場で誰よりも優先されている代わりにこういう状況では誰よりも意見を許されていない女は

「え、ええと、別に何もいらないですけど、その、ルチもこの教会で暮らすってこと、ですか? ……すみません、今のやりとりがよく分かってなくて」

 と小さく言った。

「そう。何も気にしなくていい、黒蛇のシスター、俺のコック。生活は変わらない。俺の為におまえは生きるだけ。理解は出来た?」

 黒蛇の茶が混じった緑の瞳がスミレを射抜いた。不要なことは考えるなということらしい。何が不要なのか、彼女には一切断りの無いまま決められていく。けれどやはりか弱く平和な少女は自分のことと、この世界のことと、黒蛇と呼ばれる男の優しさを知っていたので。

「……はい。はい、黒蛇さん」

 困った顔で、そう頷いた。







困りごと


「ルチ、困っていることはありますか?」

「困っていること?」

「はい。腕が、なくなってしまったんでしょう? だから何か私に手伝えることはないかと思ったんです」

「……そんな」

 ルチは本気で悩んだ。表向きは「シスターの手を煩わせるなんて」とか言ってみせているが、本気で悩んでいた。

 ――シスターに、して欲しいこと。

 ……勿論彼は、手伝えることはないかという内容を勝手に改変して、して欲しいことはないかという言葉にしていることに気付かない。

 ルチはスミレのことを微塵も諦めていないので、身体を繋げて一つになって綺麗で無垢な神様のような女の子を、自分と同じところまで堕としたいと今でも考えている。けれどあのクソ蛇が許さないことを身を以って知ったから、時機でないことも分かっていた。

 殺してもらうのも考えたがそれよりシスターにいい子いい子大丈夫ですよと言われる方がきっと気持ちいい。脳が溶けるくらいの快感なのだから。

 だから彼は悩んで悩んで

「ぎゅっ、って、してください……」

 という母親にすら言ったことのない発言をした。

 シスターは戸惑ったように黒くて丸い目を瞬かせる。うっとりと、星のような輝きに見入っていると

「ふふ」

 と彼女は柔らかに笑った。そして細い腕をルチの背中にまわして、ぎゅっと抱きしめる。

「ルチったら、甘えたい時はそう言っていいんですよ。手伝えることはって聞いたのに、抱きしめて欲しいなんて。言いにくかったんですか?」

 甘い匂いがした。お菓子の匂い。シスターの匂い。シスターは、当たり前のように優しさを、とろかすような笑顔を向けてくれる。世界が違うんだと、そう思う。だからこそルチは彼女を引き摺り落としたかった。ぐちゃぐちゃに汚して壊してしまいたかった。だって――困る。神様じゃ遠すぎる。慈悲深いところを望んだけれど、ルチは隣に立って欲しい。だから堕としてしまいたい。神様みたいな天使みたいなひとじゃなくて、ルチの、ルチだけの優しいシスターが欲しいのだ。

 ぐずぐずになっていく脳で

「シスター、だいすき♡」

 と囁いた。彼女は年端もいかない子どもに言われたことみたいに楽しそうに身体を揺らして

「ありがとう、ルチ」

 とだけ言った。


書いているうちに楽しくなって増え続けてしまうので、書き終わったぶんだけ。まだしばらく幕間が続きます。そのあとの一章で完結予定です

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