3-2
黒蛇が教会を出て二十日ほど経った頃のことだった。
スミレはいつものようにレーヴェンの鍛錬の声で起きて、もぞもぞとベッドを出た。今日の朝ごはんのことを考える。
レーヴェンは丁寧な料理が好きだ。女子大生みたいな、サラダとパンとササミで出来たようなもの。けれど黒蛇がいない間は食料の供給が途絶えてしまい、生の食材が貴重になる。今余っているのは前に作ったピクルスと、塩漬け肉。これが無くなるとレーヴェンが買い出しに行く必要が出て来る。その前に黒蛇が帰ってくればいいと思う。
ぼんやりと考えながら、寝間着代わりのワンピースを脱いでシスターの服を手に取り――
「ね、その男は殺しちゃ駄目なもの?」
突然の声に、びくりと肩を揺らした。そろそろと振り向くと真後ろに黒蛇が立っている。彼女は目を丸くして着ている途中のワンピースを押さえながら
「おかえりなさい、黒蛇さん!」
と無邪気に笑った。にこにことして、黒蛇の周りをくるくる回る。
「私、ちゃんと何事もなく過ごせましたよ!」
「他人を入れといて?」
自慢げな顔をしている彼女へ感情の無い瞳が数度瞬いて疑問を示す。スミレも不思議そうに首を傾げた。
「どうして私がルチをいれたことを知ってるんですか?」
「聖騎士に聞いた。ひとでなしの商人の来訪。あれは闇と闇を繋いで売買して死肉を漁る人間以下のカラス。それが懺悔なんてつまらない冗談だ。商人ってのは利益しか考えられない生き物だよ。悪いことをしたなんて意識、欠片だって無い……それなのにおまえは良い人と言う?」
深い色をしたまなざしで、彼は理解できないと首を振る。けれどスミレの答えは決まっていた。
「だって、黒蛇さんと同じ黒いローブで、暗い髪で、おいしそうにごはんを食べてくれました。だからです」
ルチが教会に来た時のことをよく覚えている。光が射したような感覚があった。孤独というのは寒くて凍えるようで、小さな光一つがあたたかくてすがりたくなる。その光が黒蛇と同じような色をして、そして自分と同じような境遇で、作った食事をおいしそうに食べてくれたのだから、それはもう、いい人というに足る理由になる。
「……ふうん」
黒蛇はそう言いながらスミレの肩を掴んで回転させる。そして背中のボタンを留めてやりながら
「お前、一人にしちゃダメだね。仕事減らすか聖騎士が不在にならないように司教に頼むかするよ」
と淡々と言った。それに彼女は頬を膨らませて反論する。
「ちゃんと留守番出来ましたから! ルチは告解室に来たかった人で、ちゃんと罪を告白して反省している人だったんですよ!」
「おのれ以外を信じる方が愚かだ。でも失いたくはない。欠ける前に阻止しなければならない。どれほどの馬鹿で身の程知らずだろうと、俺はおまえを守るよ。だから、商人のことは忘れな」
「でも、でも」
「力が無いものに権利は無い、けど。そこまで言うのならこの教会に入らない限り不問にしよう。おまえには弱いんだ」
「すみません、ありがとうございます……本当にいいひとだったので……」
「そう。なら、まだ殺さないでおくね」
淡々とした声に、スミレは小さくありがとうございますと返した。
「うん、完成!」
黒蛇とレーヴェンはまた不在だ。今度は武器の手入れと食材の買い出しをしに街に行くと言っていた。帰って来たと思ったらすぐにまた出ていくらしい。夜には帰ると言って出たから、誰も教会にいない夕方を過ごしている。一人にしないと言ったばかりなのにと拗ねたけれど、黒蛇は『そうしなければいけないから』とだけ言って、レーヴェンはやや気まずそうに黙っていた。
……黒蛇が言うのなら、それは絶対だった。だからお守り代わりで唯一の武器でもあるナイフを黒蛇が持って行くことにも抵抗しなかった。出ていくついでに研ぐのを頼むらしい。代わりに持っておけと言われたのは最初に渡された男になる魔法薬で、不思議に思いながらもポケットに仕舞っている。
スミレはそうしていつもより軽くなったワンピースをひるがえし、今作り終わったものを冷蔵庫に仕舞ってキッチンを出た。
「ミルクプリンが固まるまで、お祈りして、本読んで……お昼寝しようかな……」
誰もいない聖堂は薄暗く、やけに足音が響く。電気をつけるか悩んで自分ひとりのためだけにつけるのはもったいない気がして、やめる。適当な長椅子に座って手を組む。
「……こんにちは、神さま」
スミレの祈りは挨拶から入る。なんとなくご先祖様へのお参りなんかと混同しているふしがあるから、挨拶と近況をまず伝えて、その次にこうだったら嬉しいなあみたいなお願いごとを考える。黒蛇とレーヴェンがプリンを喜んでくれたらいいなあとか、明日は晴れだといいなあとか、餃子が食べたいなあとか、帰れないのかなあとか。
そういうとりとめのないことを考えるのをスミレは祈りと思っている。日常が少しだけ良くなればいいと思うのを、祈りだと呼んでいる。
だから、深く集中していたから――
「シスターぁ」
声とともに隣に人が座ってきたのに、声も出せずに固まった。
「元気でしたか、シスター? オレあんたに会いたくて来たんです。喜んでくれますよね?」
組んでいた手がするりと掴まれる。心臓がどくどくと激しく脈打って息が早くなる。
「る、ルチ? な、なんで、なにも鳴ってない……」
「あは、シスター、驚きました? あんた、あいつらに見捨てられたんだ、カワイソウに」
楽しそうに笑う声がする。スミレは怖くて驚いて、顔も上げられない。だから彼がどれだけとろけた顔をしているかを知らない。
「会いたかったぁ。なあ、手、冷たい。寒い? あっためてあげましょうか? それともオレが怖い? 緊張してますか?」
固く組んでいた手がむりやりほどかれる。爪を撫でるようにルチのかさついた指が動く。握手のように握って、恋人のように組む。
「祈ってるシスター、めちゃくちゃ可愛かったです。無防備で、守りたくなるし壊したくなる。ねえ、今、祈ってますか? 祈ってるって言って。当ててあげるから」
「は、あの、ルチ……?」
「何をって聞けよ」
「……なに、を?」
「祈りの内容」
「……」
「シスター、こう思ってる――オレから逃げられますようにって!」
覗き込むように傾いた顔が嗜虐心に満ちているのをようやく見て、スミレははじかれたように身体を引いた。
「ひっ」
掴まれている手を振りほどこうと必死に足掻く。指が食い込んでいる。痛くて、怖い。
「はな、はなして!」
「煽ってるとしか思えねえよ」
――殺される! だめ、だめかも。食べられるかも。女の人は肉が柔らかいって黒蛇さんが言ってた。このへんはお肉が少ないから人間も食べられることがあるって。
「やだ、たべないで、おいしくないから」
ルチの身体を押してもびくともしないし、自分の腕を引っ張っても痛いだけだった。空いた片腕で叩いてもにやにや笑われる。スミレは混乱して、恐怖して、半分泣きながら暴れる。その全力の抵抗も、軽く抑え込まれてしまったけれど。
長椅子の上でのしかかられて、身動きすら満足にできなくなる。
「ちっさ、やわ、よわ……あ゛ー……うまそー」
じっとりした視線がうなじをなぞった。彼女はその言葉に完全パニックになって、ぐちゃぐちゃになった思考を必死に掻き回して、そうして。
――噛まれちゃう、お、女の肉だから、女だから――あっ!
一つだけ、この状況をどうにか出来るものを思い出した。
「お?」
唯一自由だった片手をポケットに突っ込んで、黒蛇に渡された錠剤を取り出す。ルチは彼女のするささやかな抵抗をたのしんでいるから眺めているだけで強く止めようとはしない。だからスミレはルチの手が掴んでくる前に、油紙に包まれた小さな粒をぱくりと口の中に放り込んだ――男体化の薬を。
「っ、ひぐ」
ぎしぎしと全身が痛む。身体が作り変わっていく感覚。骨が伸びて、筋肉が束ねられていく。ぐらぐらと世界が揺れる。
「おい、何を飲んだ?! 毒か、クソ、吐かせるか――あん?」
動物みたいに荒い息がスミレの口からもれる。身体じゅうが痛くてとうとうこぼれた涙を拭うことも出来ないまま、彼女は――〝彼〟は、自分に乗りあげているルチを睨んだ。
「……は、お、おとこになったから、やめてください」
喉の違和感に首すじを押さえる。出てきたのは低くて掠れた声だった。ため息みたいな拒絶に、ルチは真顔になって喉をごくりと鳴らした。
「それが、あんたの奥の手? 最大の抵抗?」
それは、奇妙に上擦った声だった。
「あははあ、バカだなあ、本気かよ」
ルチがぐしゃりと表情を崩した。奥歯をかみしめて、頬がじわじわと赤くなる。長い前髪で目が隠れて、スミレは訳が分からなくなる。
顔が近寄ってきて、首筋を嗅ぐ。解放されると思い込んでいたスミレはびくりと身体を揺らして逃げようともがいた。
「はー……甘い……いーにおい……ミルクの匂いする……かわい……」
「る、ルチ、やだ、離してください、こわい……」
「だぁめ。逃がさねえよ。なあ、あんたみてぇなきれいなのの子供って、どんなのですかね。オレとは違う色の血が流れてるんでしょうね」
「わかんない、わかんないです、ルチ、ルチ」
「――ははっ、早くこうすれば良かった。あんたのなかに、オレのきたねぇの全部ぶちまけて――」
「はい、そこまで」
突然落ちて来た声に、スミレは泣きそうな声をして、ルチは舌打ちをした。
「黒蛇さん!」
「――クソが!」
すとん、と天井の闇から黒蛇が落ちる。暗い中を散歩でもするかのように進んで、ついでのようにルチにナイフを投げて牽制し、長椅子の上で息も絶え絶えに転がっているスミレの頭をつついた。ルチは飛んできたナイフをよけて長椅子からどく。
「おまえ、男になっても弱いねえ」
「くろへびさん、わたし、わたしぃ……」
「ウン。ごめん。後でちゃんと言うから泣いていいよぉ」
「うううう」
「邪魔すんな、消えろよ。どうせテメェはどうでもいいんだろうがよ」
ルチは懐から小刀と小瓶を取り出して威嚇するように唸った。黒蛇はそれを聞こえていないみたいに無視をして、スミレを抱き上げる。彼女は黒蛇の首にかじりついて腕を回し、ぎゅうぎゅうと抱きしめる。文句も出てこないままほろほろと静かに泣く。
「はは、理解してないのぉ? どうでもよくなんかないよお。これは、この人間は、俺のだって、手を出すなって――説明されたでしょ、商人」
「は」
「おい、黒蛇! 私を置いて行くならそうと言え! 勝手に消えるな!」
どかんと教会の扉が開く。真っ白なレーヴェンが入って来て、状況を見て眉をしかめた。かつかつと歩みを進めて黒蛇が抱えているスミレを奪う。
「ン?」
「小娘を泣かせるな」
「俺を見て安心する方がおかしい」
「だとしても、だ……それは貴様が片付けるのだろう? 小娘は私が預かっておく」
「お願いねえ」
「おい、テメエら、勝手に――」
「さあ、部屋に戻ろう。特別に私が紅茶を淹れてやる。泣くな、私は子供の慰め方なんぞ知らん」
白い手袋をはめた手がスミレの目尻を撫でる。涙を吸って色が濃くなるのをスミレはぼんやりと眺めて、はっと口を開く。
「れ、レーヴェンさんっ? あの、ルチと黒蛇さんは」
「貴様が気にすることではない。ああそうだ、街で菓子を買ってきた。私ですら滅多に食べれない高級店のものだぞ。喜べ」
「え、そ、それは嬉しいですけど、あの」
わたわたと慌てつつ涙をぬぐうスミレの意思なんか気にせずにレーヴェンは客室へ進む。後ろからルチの怒鳴り声がして身をすくませた。
「邪魔すんじゃねえよクソ蛇!」
怯えるスミレの様子を見たレーヴェンが進みを早めていく。だんだんと声が遠ざかって、やがて聞こえなくなった。
レーヴェンがスミレをちゃんと連れ去ったことを横目で確認して、黒蛇はへらへらと笑う。ルチは苛立たしげに手持ちの小瓶をてのひらの中でぶつけている。
「邪魔? してないよお。俺のものに手を出した奴の処分をするだけ」
「夜にここを離れるくらいどうでもいいんだろうが! ご丁寧に街で目立って不在を晒して、教会の保護まで切って! あれをオレに壊させろ!」
「ああもう、叫ぶなよ……あれに聞こえるだろ……おまえが俺より弱いから悪い」
「あ?」
「簡単に殺せるからさ、商人。首から上が惜しいのなら、これから離れてくれる? あれがおまえを気に入ってるんだ、愚かにも」
黒蛇がルチを片付けて客間に向かっているとレーヴェンの怒鳴り声が聞こえてきた。
「はあ? 魔法薬を飲んだのかっ?」
「え、はい、男になる薬……黒蛇さんがくれたので」
「どうりで抱き心地が悪かったわけだ……待て、黒蛇が用意しただと?」
「はい」
「馬鹿者、他人から渡された物なぞ簡単に飲むな! 魔法薬だぞ!」
「ひえ、なにかダメなんですか……?」
「その薬はどこの店のものだ?」
「へ?」
「効果は? 異性化するのなら、身体だけなのか、それとも精神まで影響するのか? 肉体ごとの変化なのか、幻のように見え方だけ変わるのか。副作用は理解しているか――ああ何もわかっていないのだろうな! その間抜け面を見るに!」
「ご、ごめんなさいぃ」
「貴様に怒っているのではない! 私は――」
「それに漬け込んで丸め込んだ俺に言ってるんだよねえ」
ばあ、とキッチンで見つけたスコーンをかじりながら現れると、スミレはぶわりと涙をあふれさせ、レーヴェンは反射のように構えをとった。
「ごめんねえ。おまえを囮にした。ここを知る者を、おまえを望む者を片付けるのに。傷つけたい訳じゃなかった。でも、他人を信じるべきでないと反省もして欲しかった」
「……え」
「おまえは優しい。涙は落ちるばかりだ。それは誰も救わないのに。祈りはおまえを助けてはくれない。男になろうが泣くしかないおまえは、けれどここを離れられない」
「おい、黒蛇」
「拭ってあげるのは、俺では足りない?」
きらきらと緑まじりの茶の瞳が光る。殺気とはまた違う、けれど似た空気に満ちる。レーヴェンは顰め面で黙り込んで、ちらとスミレを見た。彼女は困った顔で泣いている。
「くろへび、さ」
「偶に、おまえが憎らしく思う。俺にうまい飯を作れるのはおまえだけなのに、おまえには他がある。聖騎士にも、商人にすら食事を作る。俺が長く不在にしようとおまえは変わらず笑って日々を送る――首を、絞めたくなる」
冷えてかさついた指がスミレの首に回り、親指で喉仏を撫でた。
「壊したくない。殺したくない。泣かせたくない……でも、夜、おまえが寝ているのを見ていると、心臓にナイフを突き立てたいと思う。ああ、怖がらないで。俺から逃げられると思わないで。黒蛇の胃の中から」
スミレは見つめてくる瞳を見ている。この森の木々の隙間のような。暗く光がなくじっとりしていて、けれどどこか優しい色をしている、とスミレは思っている。そう信じている。祈っている。
帰りたいとは思っている。けれど悲観したことはなかった。恵まれていることを知っているから。黒蛇の胃が温かいことを知っている。狭くて不自由だけれど。世界を知らなくていいかなと思う程度には。
「逃げないです……」
ほろ、と最後の涙が一つ落ちた。
「私、行く当ても、行く方法もわからない。別に、知らなくていい。逃げません。あなたのために教会で祈って、ごはんを作る生活を……私は、楽しいって、幸せだなって、思うから……」
「……」
黒蛇は黙ったまま目をぱちぱちとさせて、やがて手を離した。
「そお」
「はい」
「ふーん、そう、そっか、へえ」
無表情ながらやたら上機嫌に揺れている。それを不気味そうに眺めて、レーヴェンは頭を下げた。
「私も黒蛇と同じ意見だ」
「えっ殺したいって思うんですかっ?」
「違うわ! ……人を容易く信じるべきではないという部分だ。貴様に痛い目にあって欲しかった訳では無いが、不在にしたのはわざとだった……すまない」
「……私、怖い目にあいました」
「荒療治のようなもので……いや、悪かった。二度と試すような真似はしないと誓う」
深く下がった頭を据わった目で見て、スミレは楽しそうに身体を揺らしている彼を見た。
「黒蛇さんも?」
「俺もぉ。おまえを……おまえの涙が落ちないようにするって、誓う」
「誓うよ、無垢なお嬢様。柔らかな料理人……俺の大事な落とし子」
「そういえば、抵抗してなかったのに泣くほど怖かったの?」
「してました! 薬飲んでるでしょう?! それしか出来なかったんです!」
「は? でもあの商人、どこも欠けてないよねえ? ……まさか喧嘩すらしたことない?」
「え、あ、喧嘩って、殴り合いの喧嘩、ですか? したこと、ないです。殴るなんてそんな、怖いことできません」
「うーん、じゃあ、殺せば良かった」
「えっ」
「殺してないのかっ?」
「ウン。だって、おまえ、嫌でしょ? 殺すの」
スミレは黙り込んだ。確かに殺人は怖い。黒蛇の仕事とはいえ、自分もそのお金で生活しているとはいえ、人死には嫌だと思う。知らないところですらあって欲しくない。でも。こちらを食べようとするような相手がストーカーしてくる状況とどちらがマシかと言われると、悩む。悩む、が。黒蛇がこちらを思ってくれたことも、それが本来彼のこれまでの人生に反することも分かってしまうほど、それなりの付き合いになってしまったから。
「はい、黒蛇さん。ありがとうございます」
と、笑った。
終
次の幕間は長めになる予定です。