2-1
そうして、スミレが教会で暮らすことになってからしばらく。いくつかのことが分かって来た。
まず、この教会には以前人が住んでいたことと、それはたぶんえらい人だったんだろうということ。スミレが自室とした部屋はこの教会の中で一番狭いものだったけれど、よく見ると家具は丈夫で質が良く、ほこりを吸っていたけどベッドはふかふかで、なにより本がたくさん置かれていた。
そして黒蛇は忙しいということ。また来る、と彼は言っていたが、七日に一度会えば多いほうだ。体感十二日に一度くらい。でも食料は三日程度で補給される。だから飢えることはないし、黒蛇に食事を作る機会はそこまでなかった。のんびりと掃除と料理を繰り返して暮らしている。
最後に、やっぱりこの世界には魔法というものが当然に存在すること。黒蛇と契約を交わしてすぐ、彼はスミレに生活の仕方を教えた。明かりのつけ方や調理器具の使い方、洗濯の仕方など、たくさん。ずっとは居られないからと言って丁寧に教えてくれた。そこでほぼ全ての物に魔力が必要で、スミレはひどく困惑することになった。魔力ってなに? どうやって感じるの? というところから始まって、黒蛇から絵本をもらって練習して、お嬢サマだとからかわれながら、ようやく明かりをともせたときは飛び跳ねて喜んだ。魔法というファンタジーなものが使えるようになったからというより、生活に必須な技能が身についたという安堵からくる喜びだった。
そんな感じで二人で送っていた日々は唐突に終わって、スミレがある朝目覚めたら黒蛇はもういなかった。さんざん探し回ったあとにキッチンに置かれた置手紙と小さくて細いナイフを見つけて、これまた黒蛇に習ったこの世界の文字を解読すると《また来る》《ナイフはおまえの身を守る道具》とだけ書かれていた。なるほど、こういう人かあと改めて理解して、スミレは一人で教会に住んでいる。
そういう、こなれてきたある日のことだった。
リリリン! とベルが鳴る。スミレは完成したタルトタタンを皿へ盛りながら顔を真っ青にした。
「し、侵入者だ……」
黒蛇が言っていた。自分が来る時は鳴らさないから、これが鳴った時は確実に自分じゃない誰かだと。
『おまえは外に出たら死ぬよ』『これは警戒するための音だから』『鳴ったらすぐ逃げろ』。黒蛇の言葉がぐるぐると頭を巡る。
――逃げなくちゃ!
「え、えと、持ってくもの……な、ナイフ? でも上手く使えるか分かんないし……あ、黒蛇さんのタルトタタン、置いてっていいのかな」
上手く頭が回らない。何をすれば正解で、何をすれば失敗なのか。侵入者が来た時の対処法、習っておけばよかった……!
彼女が慌てているうちに声と、ガチャガチャと金属の擦れる音が聞こえだす。
「探せ! 必ずいるはずだ!」
「こちらにはいませんでした!」
「レーヴェン殿! あちらにも部屋があるようです!」
スミレは顔を真っ白にした。もうすぐそこまで迫っている。殺されるかも。殺されるだけで済まないかも。どうしようどうしようどうしよう!
彼女は足をもつれさせながら調理場の隅に移動した。そして蹲ってナイフを縋るように握り、ガタガタと震える。
――誰も来ませんように助かりますように神様お願いします助けてくださいお願いします!
……彼女は人生でも無いくらい真剣に神に祈ったが、その願いは聞き受けられなかった。
「おいお前、ここが聖地だと理解しての狼藉か!」
低い怒鳴り声とともにスミレの腕が強く掴まれる。指が食い込んで、降ってくる声がびりびりと揺れる。
「それにシスターを騙るなど言語道断! その罪……あ?」
「ご、ごめんなさいぃ」
彼女はほろほろと泣き出した。腕が痛い。怒鳴り声が怖い。ぐすぐすと鼻をならして涙を落としながら頭を低く下げようとする。黒蛇は強く触れてくることも、大きな声を出すこともなかった。力が怖い。男の人がこわい。
――ひとりきりの生活は人間への、自分以外への抵抗心を植え付けた。同時に誰でも必ず持っている心の防御壁を薄くした。無垢で純粋でお嬢様のように弱いと言われ続けたスミレは、本当にそうなってしまった。
だから未だに離されない腕が痛くて、責める声が怖くて、心臓が凍えるように震えて、ただ泣く。ろくな抗いすら見せず、ただただ謝り続ける。
「ごめんなさい、勝手に入ってすみません、勝手に使ってすみません、だから、ごめんなさい、殺さないでくださいお願いします、ううぅ」
「こ、殺しはしない! ああもう誰か! この子供を泣き止ませろ!」
その大きな声に彼女はびくりと身体を揺らした。そしてより一層静かに泣く。
「ああもう!」
これで困惑したのは捕らえた男の方だった。聖地に勝手に住み着きあまつさえシスターの格好をしているなどなんという狼藉か、とんだ無神経な愚か者かと考えていたものだから、その犯人が女で、更に子供だとは思ってもみなかった。おまけにこの子供は見るからに脆い存在で何か事情がありそうで、つまりどう扱っていいかさっぱり分からなかった。
「泣き止め、子供! 殺さないから!」
「う、うぅ、ごめんなさい……」
それでも泣き止まない彼女に男が困り果てた頃。
「レーヴェン、虐めちゃダメでしょう」
「司教様!」
鎧の人間たちに守られるように囲まれているのは彼女と似たような服装の、背の高い男性だった。柔らかそうな金髪は緩く三つ編みにされていて、空色の瞳はゆったりと細められている。
「まず腕を離してあげなさい。痛そうでしょう?」
「しかし逃げられては……」
渋るレーヴェンに司教は
「ここまで怯えて逃げはしないでしょうし、その様子ならまたすぐ捕らえられるでしょう。離してあげてください」
と笑いかけた。
「御意」
レーヴェンが手を離すと彼女はずるずると床に座り込んだ。そして顔を手で覆ってすすり泣く。
「ご、ごめんなさいぃ」
泣きながら謝り続けるスミレに近付き、司教はしゃがみこんで目線を合わせようとする。
「泣かないでください、お嬢さん。私は司教のルーナと言います……貴女はどうしてここに? 報告はありませんでしたが」
彼女はようやく顔を上げて、彼を見た。真っ白な服装の、優しそうな人。
――白い服ってことは、教会関係の人だ。私、やっぱりもうダメなんだ……
「ごめんなさ――」
「謝るだけでは分かりませんよ。そんなに怖がらないで。質問しているだけです。事情があるのなら今すぐ退去しなさいとは言いません……ね? 話してみませんか?」
可哀想なほど挙動不審なスミレに向けて、ルーナは穏やかに笑った。
***
「なるほど、記憶がないと」
「は、はい。自分がどうしてここにいるのか、ここがどこかも分からなくて」
「……それは大変でしたね」
嘘と本当を混ぜた話をした後、ゆったりしたルーナの肯定に彼女は泣きそうになった。衣食住を黒蛇に揃えてもらってかなり楽に生活できていることはよく分かっていた。けれど黒蛇はスミレを慰めるといったことはしない。慣れたように生活してみせているのはひとりだからで、怖くないのは暴れても泣いても喚いてもきっと帰れないとわかっているからだ。知らない世界。知らない文化。知らない食べもの。優しくしてくれるひとなんていなくて、教会にある異物はスミレだけだった。ひとりでつぎはぎにつくろった心は当然のように癒えてなくて、だからそんなヒビの入った部分に、ルーナの優しい言葉がゆっくりと沁みる。
彼女は気が付かないままナイフを回収されて、気が付かないままルーナの隣に座っていた。
涙を滲ませるスミレを見つめて彼は柔らかく笑う。
「それに、その保護してくれたという方も酷いものですね。貴女を放置しているなんて……私たちなら貴女が不安にならないようにしてあげられます」
「ありがとうございます……でも、大丈夫です」
痛々しく腫れた瞼をルーナの指先がなぞる。黒蛇と比べると随分滑らかで温かいそれを受け入れるようにスミレは目を閉じた。彼は優しい言葉を耳に吹き込む。
「ね、名前を教えてくれませんか? 行方不明者に貴女の名前があるかも知れません。そうしたら少しは手掛かりが掴めるでしょう?」
「……なまえ……」
『本名を聞きたがる奴は敵だ』『特にローブを着ている奴と偉そうな奴』と黒蛇が言っていたことを思い出す。
――でもこの人は聖職者だし、こんなに親身になって話を聞いてくれる優しい人だ。敵だなんて、そんなことない。
そう考えたスミレが無防備に口を開く。
「私の、なまえは――痛いっ?!」
言いかけた拍子に、スコン、と頭に何かが落ちた。床に転がったのは殻に入ったクルミ。全員がそちらに視線を向けて、落ちてきたであろう天井の方を向いて、そしてスミレの方を見て――ぎょっとして腰の剣に手をかけた。
「その女虐めないでくれる? 弱いんだからさぁ」
「おや」
知らぬ間に、十人以上居るにも関わらずその気配すら悟られず、スミレの後ろに黒いローブの男が立っている。
目を見開く司教、突然の侵入者に警戒する鎧たち。いっとう大きな反応を示したのはスミレだった。ぱぁっと顔を明るくし、思いっきり安心した顔で叫ぶ。
「黒蛇さぁん! 助けて!」
そしてそのまま落ち着いていた涙を再び落としながら立ち上がり、黒蛇に走り寄った。
「止まってぇ」
「え」
ピタリ、と彼女は抱きつこうとする体勢で停止した。
「一回転」
意図の分からない黒蛇の命令に不思議そうな顔をしながら回る。
「跳んで……ン、何もされてない?」
「はい!」
「そっかぁ。あと助けを求める先間違ってるよ。司教はあっち」
「……?」
そんな二人の掛け合いを呆然と見ていた鎧たちがようやく声を上げた。
「き、貴様! どこから侵入してきた!」
「外から」
「何者だ!」
「黒蛇」
淡々とした回答に一瞬の静寂が訪れる。そしてすぐにざわめきがかき消した。動揺する鎧たちがひそめた声で言う。
「黒蛇?」「〝あの〟黒蛇か?」「黒いローブに赤い首輪……本物?」「初めて見た」
その隙をついて黒蛇の背後に隠れたスミレを見てルーナは思わずといった風に笑った。今までの優しいだけの顔ではなく、愉快だという感情が込められたもの。
「こんにちは、黒蛇どの。もしかして彼女を拾った人というのは貴方ですか?」
「やぁ司教サマ。ウン、そうだよぉ。ここに住まわせたのも俺。そいつは本気で何も知らないし分かんないから洗脳しても無駄だよ」
黒蛇はなんでもないことのように応えた。司教に対して敬語を使わないというとんだ不敬に、しかし誰も何も言わない。スミレだけが不安そうに黒蛇を見つめている。
「おやおや、洗脳なんて人聞きの悪い……お話を聞いていただけですよ」
「相変わらず胡散臭いねぇ」
「褒め言葉として受け取っておきます」
「く、黒蛇さん……知り合いですか?」
スミレが黒蛇の裾を引っ張って尋ねた。親しげとは言えないものの相手がどんな人間か把握しているような会話だったからだ。
「今日の飯は?」
「へ」
「今日の飯はぁ?」
「た、タルトタタンです」
「どんなの?」
「リンゴと小麦粉の焼いたお菓子です。足りなければ昨日の残りものも持ってきます」
「ウン、全部取ってきて」
「え、あ、はい!」
スミレは一瞬ルーナに視線をやったものの、一直線にキッチンへ走った。黒蛇の言う事は彼女にとっては絶対だからだ。
スミレの軽い足音が完全に消えてから、黒蛇は肩を竦めた。
「……これで邪魔者はいなくなったねぇ。何の用かな、司教サマ?」
「貴方に対して隠し事をしても仕方ないので全て率直に言ってしまいますが……まず、彼女を害すつもりはありません。むしろ信者なら保護すべきですしね。これは神に誓って約束します。ここへ来た理由は単純に見回りです。数年に一度、聖地へ行うものですね」
「見回りぃ? 俺、一度も会ったことないけど」
「記録を見る限り、代替わりなどがあったおかげでここへ来るのは十年程空いていたようですね」
「ふぅん」
「では、私は回答しましたので黒蛇どのにも答えて欲しいのですけれど、彼女はどうして貴方に懐いているのです? 正体をご存知ないとか?」
「説明したよぉ、ちゃんと。ローブ着てる奴とか偉い奴には名乗らないようにってのもねぇ」
「おやおや、これは手厳しい。気に入っておられるようで」
「ウン、飯がウマいからねぇ」
ルーナは虚を突かれたような顔をした。つまり、素でびっくりしたような。
「それは、また……よかったですね」
「ンー」
「黒蛇さん! 持ってきました!」
リンゴの甘酸っぱい匂いがふわりと香った。スミレがにこにこと笑いながら駆けてくる。
「この大っきい方が今食べる方で、こっちの包みは小さいやつで、お持ち帰り用です! あとこのお皿に入ってるのは昨日の残りのポトフとパンです! フォークとナイフどうぞ!」
「ありがと」
受け取った黒蛇は適当な長椅子にそれらを並べて自身も座り、食べ始めた。まずは大きな深皿いっぱいのポトフに取り掛かる。大きめに切られたじゃがいも人参ベーコン。玉ねぎは煮溶けているらしく野菜の甘みとベーコンの旨味たっぷりだ。たくさんの具をあっという間に食べてしまえばスープにパンを浸して齧りだす。決して小さいとは言えないサイズのパンもこれまた瞬く間に胃に入れてしまうとタルトタタンの皿を手に取った。まだ温かいそれはデザートというよりメインディッシュのような大きさであったが、この調子だと黒蛇一人で食べあげてしまうだろう。
「く、黒蛇が人の作った飯を食べている……」
「先程感謝を述べなかったか? 感謝の概念を知っているのか」
「そもそも人語を介すのかも知らなかったぞ、俺は……」
鎧たちのひそひそ声も当然であった。〝あの〟黒蛇である。異常なまでに食に拘泥しているという人間。
曰く、匂いの時点で食べるか食べないかを決める。
曰く、調理中に音がすれば食べない。
曰く、甘い物は食べない。
曰く、その食事が気に入らなければ料理人が食べられる。
そんな噂が流れるほど、そしてそれを信じられるほど正体の分からない男だった。おまけにその噂、彼を知る者が全員「あいつならやる」と肯定したのだ。食事に拘る異常者。それが黒蛇に対する大概の人間の認識である。
しかしそれを帳消しにするほど優秀だった。積み上げた骸は数知れず。路地裏から始まった小さな殺しを国を揺るがす大量殺人にまで膨れ上がらせた人殺し。その能力が買われて首輪を付けられた誰も制御出来ない獣。この国最高峰の殺し屋。誰も名前を知らない黒いローブの蛇。故に一人歩きした役職名がそのまま呼び名になった――黒蛇、と。
……そんな黒蛇が子供の作った料理を平らげ満足そうにうなずいている。
「美味かった。ごちそうさま」
「はい、お粗末さまでした」
空になった皿を片付けながらスミレはにこにこ笑っている。この光景はまるで母と子のようで、そうと知らなければひどく平和なものに見えた。つまり、場違いなほどに。
この片付け屋に任せていると何も進まないと知っているルーナは、こほんと咳をして口を開く。
「黒蛇どのが美味しい食事を出来るようになったことには祝福しますが、彼女が何故ここにいるか何者なのか、一切説明がされていないのですけれども」
ひそひそ声がまた大きくなる。そういえばあの聖域を侵した異端者はどうするんだという方向にざわめく。
「おまえ、なんて説明したの?」
「えっ、あ、あの、記憶が全くないって言いました」
「じゃあそういうことだよ、司教。これは記憶の無いだけの、弱くて普通でなんにも知らない愚かな女。俺はここに住まわせてやる代わりにメシを作ってもらってる」
「何故貴方がこの教会の所有者のように話すのですか……」
「ン? おまえにも都合の良い話だろう?」
呆れたようなルーナの声も刺さる周囲からの視線もスミレの動揺も全く意に介さずに黒蛇は首を傾げた。
「俺が居る限りここの治安はある程度保たれる。見回りなんて必要ない。こんなところに来なくていい。【飽きた夜の森】までね」
しん、とルーナが黙る。騎士たちも次いで沈黙した。スミレは空の皿を抱えておろおろとしている。
「――それはまあ、魅力的です」
「でしょ? ねえ、何人減った? この森に入ってから。血の匂いがする。森からも、おまえらからも。腹が減るよ。木に赤い花が咲いてた。二度と来ない方がいい。分かるでしょ?」
暗い髪の隙間からきらきらと目が光る。蛇のように。
「……よく喋りますね、黒蛇。食事で満たされるというのは余程素晴らしいとみえる」
「今なら殺してやってもいいよ、司教。優しいでしょ?」
ぶわりと殺気に満ちた。騎士が剣を抜きかける。レーヴェンは既に抜いて、きっさきを黒蛇に向けていた。
「あ、あの!」
そんな一触即発の空気が、スミレの震えた声で揺れた。
「ここに、私がいるのがだめなら出ていきますから! えと、帰る家もあてもないから、それはどうにかしなくちゃいけないですけど! でも、だめなら出て行くので! だ、だから、あの、黒蛇さん、ナイフ、置いてください……」
泣きそうな声に、司教と騎士らが慌ててカウチの方を見る。スミレから離して置いていたナイフが、無い。
スミレの叫びに黒蛇が顔を向ける。こころなしか呆れたような雰囲気だった。
「おまえ、出て行ってどうするの? 一人じゃなにも出来ないし知らないのに」
「それは、どうにかします! どうにかなります! だからナイフ、置いて!」
ちらと手元を見る。鋭く光を返すナイフ。
「……持ってるの、これだけじゃないけど」
「でも、とりあえず、それは置いてください! 私が、怖いんです……!」
「あー、分かった。分かったから、泣かないで。おまえが機嫌を損ねると俺が食いっぱぐれる」
「まだ泣いてないです」
「まだ泣かない? それなら後にして。こいつら片付けてから――違う、殺さない。殺さないよ、話すだけ! あーもう、部屋に行ってて。おまえいたら話進まないから」
「傷も付けちゃだめ。黒蛇さんも、他の人にも」
「分かった。おまえいつもそれ言うね。ああ、大丈夫だから。泣くなよ。俺が部屋に行くまで」
スミレはぐずぐずとしつつも、黒蛇を甘えるようににらんで、皿を抱えて出ていった。なんともいえない空気の中、黒蛇が疲れたように息を吐いてナイフを置く。両手をひらひらと揺らして主張する。
周りは酢を飲んだような顔か、苦虫を嚙み潰したような顔か、しきりに首をかしげて目をこすっているか、そういう異様さがただよっている。
「……これは驚いた。貴方――本当に、彼女の保護者をしているのですね」
ルーナが感嘆に似た声をして、黒蛇に言った。
「嘘なんか吐いたことないよ」
「嘘は、ね。いえ、それはどうでも良くて……ああ、そう。うーん、どうしましょうね」
思案が滲む。安全と立場を比べて結論を出さなくてはならない。この黒蛇相手に会話が成り立っていることすら稀なのに、交渉をせねばならない。
ルーナの考えを読んだのか、黒蛇が平らにささやく。
「簡単な話でしょ? 俺にこの教会を渡す。その代わり、見回りなんかに来なくていい。あの女は見逃す。その代わり、おまえらは一人も欠けることなくこの森を出られる」
「おや、大盤振る舞いですね。出口まで案内してくださるのですか」
「腹がいっぱいだからね。機嫌が良いのも本当。あれがいなくなると困るのもね」
「それはそうですね。彼女がここを出て貴方の庇護を無くして生きていけるとは到底思えませんから。まるで記憶が無いみたいに無垢で無知だ」
「だから、教会の庇護はいらない」
「つれないですね。貴方の代わりに保護してあげようというお話ですよ」
「ウン。保護して祭り上げて破滅させようって話ね」
ルーナの眉がひそめられる。驚いたように、不可解そうに、困ったように。
「それは、内緒の話ですよ、黒蛇」
「そうして欲しいなら交渉は成立だね」
「交渉というより脅しですけれど……まあ、貴方が執着しているものを取り上げるなんてこと、しませんよ。蛇の尾を踏むなんて恐ろしい」
「そうでしょ? ほら、さっさと帰れ。ここから去れよ。あれが泣く前に側に行かなきゃ」
――それで交渉はなった。
「では失礼します。黒蛇どのがここを手放したくなったら連絡してくださいね」
「いいよ。飽きたらあげる。あれは渡さないけど」
「……拾ったのが貴方で良かったのでしょうね」
素直にスミレを渡さないと言いのけるのは、きっとこの蛇くらいだろう。なにも知らない上に貴族のように身綺麗な女など、使い道は売るほどある。壊すためでもなく使うためでもなく教育と保護を渡すのなんて、純粋に食事のためだなんて、他にいない。
「土産をくれるのなら、また来てもいい」
「おや、本当に丸くなってしまって……ええ、お言葉に甘えさせていただきます。彼女は仮でもシスターですから、その点の教師は必要でしょう?」
「俺の知識は偏ってるから、ウン。頼む」
「ありがとうございます。それでは、また」
森の中を司教御一行は進む。この森に教会を作った過去の司教を恨みつつ、聖騎士らはカチャカチャと歩いている。
ふと、鎧の一人が小さく声をあげた。
「あの女が黒蛇の弱点、というわけですね。司教様、このことは報告を?」
ルーナは困ったように笑う。木漏れ日すら差さない暗いなかで、彼の空色の瞳だけがきらきらしている。
「いいえ、この森であったことは全て忘れてください。ヒース、ピート、アルフォンス……」
司教は一人一人の騎士の名を呼ぶ。レーヴェンを除いて全員。そして穏やかな声が繰り返す。
「この森に入ってからのことは忘れなさい。私たちは森で迷って教会には辿り着けなかった――そうでしょう? 黒蛇になんか会っていませんよ」
「……そ、う。そう、でしたね。申し訳ありません、少し混乱していたようです」
名前を呼ばれた鎧たちは不思議そうに首をかしげつつ、けれど何も言わないまま、簡単な納得を示して歩きだす。
「大丈夫ですか? 森には記憶を混濁させる植物でも生えているのかも知れませんね」
「確かに、この森では起こりえますね」
「でしょう? だから早く森を出て食事にしましょう……なんだかリンゴが食べたい気分なんです」
終