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「……よく生きてこれたね」
黒蛇は思わずそう呟いた。調理場には彼女の姿はなく、ようやく恐怖に駆られて逃げ出したのかと思えばこれだ。
彼女はすぐ側に立つ黒蛇に気付かず眠り続けている。その手に武器らしいものはなく、警戒心の欠片もない。
入口には罠を張っておいたから脱走は出来ないが、例えばわざと置いたままにしたナイフを構えて暗がりに潜んでおくだとか、他の脱走経路を探すだとか、そういうことをしているかと思っていた。
黒蛇はこんな生物が存在していることに首を傾げながら、抱えていた荷物を置いた。彼女が生きていくために必要な物をまとめて持ってきたが、その説明をするのは彼女が目を覚ましてからになりそうだった。起こしてもいいが――普段の彼なら相手が誰であろうとどんな状態であろうと叩き起こしていたが――あれだけ旨い料理を作れる人間を損なうのも勿体ないので、黒蛇は珍しく他人に気を遣うことにした。つまり放置して森へ戻って、夜明け頃にまた来ることにした。
***
彼女は、色波スミレは優しい夢を見ていた。両親に料理を振る舞って喜ばれる夢。友人とレポート課題をしながら徹夜する夢。温かいごはんと布団がある夢。このまま眠り続けることが彼女にとって幸せだっただろうが、しかし夢とはいつか醒めるものだ。彼女も例に漏れず、泡が弾けるように現実に突き戻された。
「……ここは」
ゆっくりと寝起きの頭を回転させる。
知らない部屋。知らないベッド。寒い。なんでベッドに凭れて寝てたの? おなか空いた。
そんなことをひとしきり考えて、ふと思い出す。
――そうだ、知らない場所に来てたんだった。
それを思い出してしまえば後は簡単で、黒蛇と呼ばれることを求めた男に料理を作ったことも、それを気に入られてこの教会に住むことになったことも、そしてそのための準備を男がしに行ったことも思い出された。
どれくらい寝ていたのかと慌てて窓を見るが外は変わらず薄暗いままだった。まさかまだ彼は戻ってきていないのか、と立ち上がろうとした時、自分の側に袋があることに気付く。
「これ、クロヘビさんの?」
男が提げていた荷袋のようだった。しかしそれを彼女の側に置いておく意味がない。どうしたものかと考え始めた時
「起きたぁ?」
と声がした。ぎょっとして振り向けば、黒蛇がへらへらと笑いながら扉の前に立っている。
「そろそろ腹が減ってさぁ、起こそうかと思ってた」
「お、おはようございます……朝ごはんも、私が作るんですか?」
「ウン。でもお前も腹減ったでしょ? ダイナーで買ってきたから食いなぁ。それから俺のを作って」
ん? と彼女は思った。ダイナーに行ってきたらしい。黒蛇の口ぶりから恐らくそこは食べ物を売っている場所で、それなのに彼は食事をしていないと言う。
「それは、嬉しいです。ありがとうございます……でも、クロヘビさんはどうしてご飯を食べてこなかったんですか? 私が今から食事をして、それから作るとなると時間がかかりますよ?」
「今はお前の飯しか食べたくない」
「はあ」
相変わらずの気に入りようらしい。どこがそんなに良かったのか、と思いながらも喜んでくれることは嬉しいので、彼女は黒蛇が差し出す包みを受け取った。
「あ、サンドイッチだ」
ハムとレタスとチーズのシンプルなもの。けれど昨日からアンパンしか食べていない彼女にはごちそうで、頬が緩む。
「いただきます――ん」
一口齧って目を瞬かせ、首を傾げた。かなり美味しかった。黒蛇が自分の料理を優先するのを不思議に思うほどに。
ハムは少し塩っ気が強くて、しかしそれが癖のあるパンに合っている。レタスはシャキシャキと新鮮な食感でチーズも風味豊かで美味しい。
「あの」
「袋開けてないの、お前のなのに?」
彼はふ、と荷袋を指す。
「えっ」
「中にシスターの服とか、魔法薬とかナイフとかベーコンとか入ってる」
「ベーコン」
ついベーコンの衝撃が大きくて復唱してしまったが、彼女がツッコむべきはそこではない。
「じゃなくて、まほうやくってなんですか? まほうって、魔法のこと?」
「魔法薬も知らないの? 魔法の込められた薬だよぉ。俺が持ってきたのは身体を男に変えるやつ。お前はガキでも女だから、犯されそうになった時とかに使いな」
「……? ――えっ」
――ちょっと情報量が多い!
魔法薬、魔法? やっぱりここ、日本じゃないどころか世界も違うの? 冗談……とか言わないタイプだよねたぶん。ていうか身体を男に変える? そんなこともできるの、魔法って?! あとガキってなに、子供に見えてるってこと、私?! あと犯されそうになるって治安悪すぎない?!
彼女は完全に固まったまま脳内でパニックになっていた。それを黒蛇は面白そうに見つめて
「そんな心配、したことなさそうだね、お前」
と笑った。
「食べ終わったら着替えて、そのあと飯作ってねぇ」
「は、はい」
頷きながら袋を開ける。まず目に入ったのは油紙に包まれた大きな包み。独特の燻製臭がして、ベーコンだと分かる。本当に入れてくれてるんだ、と思いながら下にあった真っ白な布を取り出す。広げてみれば、それはうなじから腰あたりまでボタンで留める形になっている、純白のワンピースだった。ベーコンとホワイトの服を一緒に入れないでよ。匂い染み付いてるよ。
なんとも言えない気持ちでワンピースを抱えていると、黒蛇が隣に立って指をさした。
「これがシスターの着る服だよぉ。一人でボタン留められる?」
「む、無理ですね……」
「じゃあ手伝ってあげる。脱いでぇ」
ぎょっとして黒蛇を見上げる。さすがにどういうつもりか、と睨めば彼は面白そうに見返した。
「ヤろうと思ってたらとっくにヤってる。あと俺、性欲ないからわざわざめんどいことしないよぉ」
彼女は探るように黒蛇を見つめて
「確かに……」
と呟いた。この教会で二人きりだし、なんなら無防備に眠りさえした。それなのに触れようとすることすらなかったから、つまり本当なんだろう。
なるほど、と頷く様に呆れたような目を向けて、黒蛇は彼女に近付く。
「お前ねぇ、納得しちゃダメでしょ」
「でも今更だなって思っちゃったので……あ、あと私、色波スミレです。スミレが名前」
彼女はお前と呼ばれて、そういえば名乗ってないな、という軽い気持ちで言った。相手が黒蛇としか名乗っていないのを忘れて。
「……なんかもういいや。ウン、分かった」
「はい、よろしくお願いします」
「あーウン」
彼女は、異なる世界へ迷って一人きりのスミレは満足そうに頷いて立ち上がり、ワンピースに手を掛けた。
「じゃあ脱ぐので、後ろ向いてもらっていいですか?」
「ン」
布の滑る音が二人だけの部屋に響く。スミレは紺色のワンピースとタイツを脱いで、真っ白な修道服を身にまとった。一応ボタンを留めようと努力してみていくつか留めた後、諦める。
「着たので、ボタンをお願いします」
「ンー」
黒蛇は彼女の真後ろに立ち、指を動かした。
「……肌、白いねぇ」
「ありがとうございます……?」
肌を掠るかさついた感覚をくすぐったく思いながら首を傾げた。言い方が、なんというか、珍獣をみた時のような気がする。
「はい、できた」
「ありがとうございました」
それはともかく、ぺこりと一礼する。服を着せてもらうなんて子供みたいで、でも照れるには黒蛇が異様なので特になんにもないような気持ちだった。
そう、気持ちといえば、修道服は布が柔らかくて中々気持ちのいい着心地だった。やっぱり新品の服って明るい気持ちに――
「あ!」
「ン?」
「お風呂に入りたいです。すみません、服を着る前に言うべきでしたね」
「……風呂?」
スミレは黒蛇が不思議そうな顔をする理由が分からず、風呂について説明を追加する。
「あの、お風呂……えっと、お湯に浸かりたいんです。身体を洗ったり髪を洗ったりしたくて。あ、でも、汗を流せたらそれでいいので」
「……あぁ、聞き間違いじゃないんだぁ。ウン、魔法で綺麗にされるのと、濡れた布で身体を拭くの、どっちがいい? お前の望むものは今は用意できないなぁ」
用意できない? バスルームはあったのに? あ、でも海外だとお湯に浸かる文化はないって聞いたことがある。そういうこと?
なるほど、とスミレは納得して、そしてどちらがいいか考えようとして、魔法で綺麗にするって? ということに思い至った。
「魔法でって、どんな感じにきれいになるんですか?」
「……ウン、そうだよねぇ知らないよねぇ……目、閉じて」
彼女は大人しく目を閉じた。どう綺麗になるのかそわそわしながら待つ。
「手出してぇ」
間延びした声に対し、お手をするようにスミレは手を出した。
「はい、どうぞ」
黒蛇は差し出された馬鹿みたいに綺麗な白い手を握る。どこぞの御令嬢のように傷の無い柔らかなそれを笑って、ゆっくりと魔力を籠めた。
「ん?」
スミレは手先から這ってくる感触に首を傾げた。風が撫でるような軽い感触。さらさらと手先から腕へ肩へ、頭へ脚へ何かが流れる。
「んん?」
「終わったよぉ」
「え、もうですか」
パチリと目を開ける。置いていた手を離して自分の顔をぺたぺた触る。なんとなく、清涼感があるような気がする。
「……便利ですね! すごい、ありがとうございます!」
「ンー」
テキトーな返事。昨日から思ってたけどこの人、空腹の時と満腹の時で性格から違うよね。
「おなか空いてますか? 急いで作るので、少し待っててくださいね」
だからそう言うと、彼は半分ほどに狭められた目をやや広げて、ぱちぱちとまばたきした。ゴミでも入ったのかな?
「……ベーコンはそれに入れたけど、他は冷蔵庫に入れた。はやく、メシ作って」
ゆっくりハッキリそう言われて、スミレはピンと弾かれたような気になる。そうだ、このひとはヤバいひと。ぐるぐると脳が動き出す。早くごはんを渡さないと。朝のごはん。
「は、はい。えっと、昨日のじゃがいものやつ。ベーコンで作りますか?」
「ウン。いっぱい入れてねぇ」
「分かりました。白菜があるし、ミルク煮にしても美味しそうですけど……」
味の早い牛乳と白菜は先に片付けたい。腐ってしまうのは悲しいけれど、彼が食べたいものを優先したい。じゃがいもとベーコンと、例えばパンがあればもう朝ごはんには十分だよね。
「じゃあそれも」
「それも?! わ、分かりました」
それなのに黒蛇は両方欲しいらしい。スミレは驚きながらも昨日作ったものが全て食べ上げられたことを思い出して納得した。
「昨日の甘いパンはぁ?」
「あ、す、すみません、もうないんです。ベーキングパウダーがあれば、簡単なものなら作れますけど」
「ふくらし粉? 買ってきたよ。砂糖も小麦粉も」
「ん、んん、バナナのパウンドケーキとか、チーズの蒸しパンとかなら作れます、かね……? 本格的なパンはちょっと、作ったことがないので」
「……分かったぁ」
間延びしたどことなく不満そうな声にスミレは慌てて荷物を漁る。機嫌を損ねたくなかった。夕飯は逃れたからといって、朝食にも昼食にもなりたくはない。
「あの、代わりに、代わりになるか分からないんですけど、飴ならあります! いちごみるくのやつ!」
「飴? おいしいのぉ?」
「私は好きですよ」
白地にいちご柄のパッケージ。スミレは子供の頃からこれが大好きで、常にストックがある。好きなものは他人と共有したいタイプだから、この世界では手に入らないことを分かりつつも一握りの飴を黒蛇に渡した。
けれど未練はあるのでそのうちの一つを手にとって、自分で食べる。中がさくさくしているところが好き。
「では、作ってきます」
飴を舐めながらベーコンを持って部屋を出る。
「……」
黒蛇は、てのひらに乗せられた飴をしばし見つめて。ついでのように口に放り込んで、ゆらゆらと続いた。
「じゃがいもとベーコンの焼いたやつと、白菜とベーコンのミルク煮と、焦げたバナナパウンドケーキと膨らまなかった蒸しパンです!」
スミレはやけくそになって叫んだ。こんなところで異世界感じるなんて聞いてない。なんで小麦粉が茶色いの? 砂糖がざらざらしてるのはどうして?
昨日は自分で買った材料を焼いただけだったから気が付かなかったのだ。異世界の食材は、スミレが扱いなれたものと少し違った。そしてその少しが致命的だった。
スイーツなんて緻密で繊細なものなのに、感覚が狂ったせいでこのざまだ。
「ン」
スミレが慌てていた一部始終を見ていた黒蛇は、それでも何も手出しせずにいる。だからスミレも不味くても知らないからね! という態度で開き直っている。
「そのお皿に乗せたものは全部クロヘビさんのものですから。私のはちゃんとよけておいたので大丈夫です」
「ンー」
もう言葉すら発してくれなくなった。たぶんこの人、空腹になるとダメなタイプだ。明らかに雑な手つきでカトラリーを並べているし、ゆらゆらと揺れながら椅子に座っている。音は、一切しないけど。
「じゃあいただきます」
慣れ始めてきたスミレは気にしないことにして食事をする。
「ベーコンおいしっ」
焼いたのも煮たのも、ベーコンがすごく美味しいおかげで成功している。ミルク煮の方はちょっと味が足りない。コンソメかキノコ類か、出汁が欲しいかも。
「パウンドケーキびみょう!」
火加減を黒蛇がみてくれたおかげで、生焼けにはなっていない。代わりに外側が焦げたけど。小麦粉がちょっと独特な風味がする。でもバナナのおかげで目立ってない。
「蒸しパン……以外に美味しい!」
これ、ホットケーキだ。
「……相変わらず、うまい」
スミレが半分食べる頃には食べ終えた黒蛇が、いやにしみじみと言った。
「落ちモノは神からの贈り物。俺は欠片も信じてないけど、おまえはきっと、そういうものなんだろうね」
「え、えと……?」
「黒蛇が庇護を授ける」
「?」
「契約しよう。おまえはそれに見合う能力を持つことを証明した。それなら俺が証明する番」
ピリ、と空気が変わる。緑の混じった茶の瞳が、まっすぐにスミレを見ていた。観察するにしては熱を帯び、けれど好意にしてはたいらな温度をした黒蛇の目。
スミレは無意識に姿勢をただす。置いたフォークが小さな音を立てて、それ以降はスミレの呼吸音だけがしている。
「おまえに黒蛇の腹で眠る権利をあげる。記憶を無くした貴族の娘として、【飽きた夜の森】で誰かの為に祈る義務を与える。対価は俺に飯を作ること。簡単でしょ? 単純だよ」
……満腹の彼の言葉は難解で意味を取りづらかったが、昨日、この教会で暮らせと言われたことを思い出す。
「ぎ、義務って、あの、私、出来るなら帰りたくて――」
「おまえがそれを望むなら、俺は出来る限り叶えてあげる。不可能なことは、あんまり無いよ。俺は黒蛇だから」
慌てて手を振って否定しようとした言葉は、黒蛇の淡々とした声に遮られた。それをまた時間をかけてかみ砕いて、スミレはやっと、目の前の男が自分に何を捧げようとしているのかを理解した。
「ああ……なるほど……」
つまり黒蛇はこう言っている。
この教会の外に一歩でも出れば食い物にされるほど無知なスミレを置いてくれる。何者か、どこから来たのかすら問わない。対価は料理だけ。黒蛇に、ごはんを作るだけ。それだけでここで生活できて、そして望みは出来るだけ叶えてくれる。
なるほど、契約だ。それもスミレにとびきり有利な約束だ。
音を立てずに生活する、こんな深い森の奥で暮らす、見るからにヤバい黒蛇は、どうやらすごい人間らしい。そしてやっぱり食事への執着が強いらしい。
異世界から来たスミレには、黒蛇だからという言葉の意味の重さは分からないが、それでも彼がかなり優遇してくれていることを悟る。
無表情のまま、黒蛇が上機嫌にうたう。
「ここは黒蛇の庭だった。でも今からおまえの箱庭だ。小さなドールハウスだ。か弱いお嬢サマ、遠くからの落ちモノ、神さまの下僕」
スミレはぼんやりとそのさまを見ている。
「俺のコック、真っ白なシスター。これからよろしく」
終