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4-1

「黒蛇が死んだそうですよ」

 唐突に落とされた爆弾はルチの囁きのかたちをしていた。

「え」

「任務に失敗したらしいっす。ヘマやってドタマ撃ち抜かれて絶命ってウワサ。裏では持ちきり」

「信憑性は? あれが死ぬとは到底思えんが」

「オレだって思っちゃいねえけどよ、信頼出来る筋から聞いた話だ。死んだが嘘だとしても――その手前くらいはいってんじゃねえの?」

 ぼわん、と音が遠くなる。死んだ? クロさんが? ……ほんとうに?

 連れていくって言ったのに。

「マァ、とはいえ死体はだぁれも確認してねえ。王家の犬がさらってったって話だ」

「猟犬が出張るのならあながち噂とも言い切れんか」

 ぐらぐらする。私はいま立っている? スミレの世界が壊れるのはこれで二度目。何も持たない女が居場所を失うのが二度目。

「いか、なきゃ」

 吐いた息に混じった音を二人は決して聞き逃さなかった。レーヴェンはピクリと眉を上げ、ルチはそっと懐の小瓶を探る。

「小娘、どこへ行くつもりだ」

「黒蛇さんのところです。私、行かなきゃいけないんです。約束したから」

「シスター、落ち着きましょ? アンタはこの森を出られない。外に出たら死にますよ、黒蛇より確実に」

「まだ噂の段階で確定した訳ではない。貴様はここを動くな。私はルーナ様に確認を取ってくる」

「オレぁ情報収集に行ってきます、ねえシスター、お願いだから出てかないで」

 それでもスミレは扉へ向かおうとするので彼らはさえぎるように立ちはだかった。

「私はぜったい黒蛇さんのとこに行く!」

「……」

 ルチはイライラとして頭を掻く。不安と心配と嫉妬。シスターの髪ひとすじすら欠けて欲しくなくて、だから彼女にはここにいて欲しい。レーヴェンとルチにとっても外へ行くのは簡単なことじゃない。その苦労をしてでもスミレの為に情報収集に行こうとしているのに――黒蛇しか見てない。

「……脚、いや勿体ねぇ、腱切りましょうか。シスター、歩けなくなりたい? オレがあんたの世話しますよ。それがいい? 前、聞かせてくれましたね。ニンギョヒメの話。ね、シスター」

 彼女が欠けたとしても自分を見てくれるならいいルチと違って、レーヴェンは全てをゆるす聖女として側に居て欲しいので渋面をつくって口を挟む。

「それに賛成するわけではないが……諦めないなら縛り付けておくことになるぞ」

 ――す、とスミレの顔から表情が抜け落ちた。黒い瞳が光をうつさなくなる。深淵のようにぬるりと冷えたそれは――奇しくも黒蛇によく似ていた。

「……」

 したいならすればいいと、そう続くかと思っていた。彼女は素直で気弱だが頑固者。だからレーヴェンは警戒し、ルチはドキドキと胸を高鳴らせていたけれど。

 一度俯いて、次に顔をあげた時にはもういつものスミレだった。困ったみたいなゆるい笑み。

「……ルチ」

「はい、シスター♡」

「さっきはごめんなさい。黒蛇さんのことで……動揺、しちゃって」

「いいんすよ、シスターは優しいですもんね。気にしねーでください。オレがちゃあんと話聞いてきますから」

「ありがとう、ルチ。お願いします」

 ルチはひらりと手を振ってみせる。スミレの為に眼球も腕も一つずつ無くした彼にとって黒蛇の案件に足を突っ込むなんて今更だった。ただありがとうと言って笑って欲しいだけだから、ルチは子供みたいにはにかむ。

「レーヴェンさんもごめんなさい」

「いい、気にするな。あれの重さは分かっているつもりだ」

「私、縛り付けられますか?」

「しない! ちゃんと反省しているんだろう? 貴様は教会を出られない、わかっているな」

 スミレは大人しくうなずいた。

「はい、もちろん」


***


「ルチ、無事に外に行けたでしょうか」

 伝手をあたってきますと教会を出たのが六日ほど前。連絡手段がないので心配しかできないのが歯がゆいのか、スミレはずっと所在なさげにしている。明らかに落ち着きのない様子を見ているレーヴェンは彼女の気が少しでも楽になればと思って、監視を緩めることにした。この教会唯一の出入口である聖堂の扉の近くにいる時以外はそっとしておくことにしていた。部屋にこもって何事か調べていても、書いていても、料理や文化の勉強が気休めになるのならと詳しく調べなかった。

 ――敗因がどれかと言えば、きっとそういう優しさを持ったことだった。スミレのことを支配するのではなく、個人として尊重し大切にしようと思ったことが、きっと負けの理由だった。



「レーヴェンさん、料理、作りました。お詫びでバナナマフィンも」

 ルチが不在になって八日目の朝。再開した鍛錬を終えてキッチンに向かえばスミレがニコニコとしてそう言った。用意されていたのは紅茶とサンドイッチと、手のひらサイズのケーキ。

「詫びだと?」

「レーヴェンさんの行動を制限していたでしょう? そのお詫びです。黒蛇さんのうわさを聞いてすぐの時も困らせてしまったので、そういう意味でも」

「……気にしないでいい。貴様にとってあれがどれほど必要かは分かっているつもりだ。もし……あれが死んでいたとしても私が責任持って面倒を見よう。私の守り方は貴様を聖女にすることしか無いが……」

 けれどそれが自分が差し出せる最上だ。彼女が「聖女なんてなりませんよ」と軽く笑って流すから本気だといつも言い損ねる。自分は黒蛇の代わりになれないかと。

「今日のサンドイッチもマフィンも良くできたので、どうぞ」

「貴様の分は?」

「実は失敗したぶんを食べて証拠隠滅したらお腹いっぱいになってしまって」

 失敗したと聞くのは久しぶりで、やはり不安は消えていないのだなと思う。一緒に食事ができないのは少々物足りないと思っていたが、彼女はキッチンにある木製の椅子に座ってこちらを見ている。

「部屋に戻らないのか?」

「そのお菓子、ちょっと味が変わってて。他の人が食べた感想を聞きたいんです」

「成程」

 ふんわり甘い匂いがする茶色の菓子。スミレがそう言うのならと、レーヴェンは最初にそれを手に取った。一口ぶんを割って口に入れる。

「……」

 うまい。いつものように美味しいが。

「この菓子、妙な風味があるな?」

「ふふ、ですよね。これは変わった小麦粉でできてて……その粉のせいなんです。でも、バナナ、中に混ぜた果物によく合うでしょう?」

「うむ、中々うまい。癖になる味だ」

 気を取り直したのか明るく喋るスミレにレーヴェンはこっそり息をついて――くらりと揺れた視界に酷く動揺した。

「っ、な、に」

 急速に意識が遠のいていく。座っていられなくて床に転げ落ちた。その衝撃も覚醒には全く足りず、彼は朦朧と側に来た足音を聞いていた。

「ごめんなさい。そのマフィンに黒蛇さんの睡眠薬を入れました。副作用はないものを選んだので安心して眠ってください」

「……は」

 声にならない声で呻く。この女のしたたかさを見誤ったのだ――初めはあんなに警戒していたのに! おおよそ他人を信用しない聖騎士は、けれど目の前の落としモノに心を許していたことを知る。

 ――薬を盛られてやっと!

 ……行くなという懇願は暗くなる視界に溶けて消える。

「レーヴェンさん、ごめんなさい。私、どうしても無理なんです。黒蛇さんがいないとだめ」

 泣きそうな迷子の子供の声だけがする。

 ――いきていけないの。




 スミレが思い出すのは黒蛇との約束。

 そして一番初めに教わったこと。

 【飽きた夜の森】から出る方法。

 黒蛇から与えらえれた守護の歌。

 ――今から言うのは俺の飼い主代理のとこに行く方法。

 ――歌いながら森を進む。今から俺が言う歌詞を。そうすればここにつく。

 ――普段は使うな。特別で緊急な時だけ。お前がどうしようもない時だけだよ。


***


 【飽きた夜の森】にほど近い小さな一軒家。

「ったく……今何時だと思ってやがる」

 スートは扉の叩かれる音にぶつくさ言いながら玄関へ向かう。酔っ払いかジャンキーか、それとも黒蛇に喧嘩を売りに来た命知らずかのどれかだ。

 この家の存在はごく一部の人間しか知らない上、特殊な条件を通過しなければ見つけられないよう魔法がかかっている。金と手間をかけ厳重に管理された黒蛇の隠れ家のひとつ。しかし、それほどの空間を用意していても抜けて来る人間はたまにいる。通るべき道から外れて蛇の巣に来ちまった馬鹿野郎か、実力も運も持ち合わせているくせに命が惜しくないらしい愚か者。ご丁寧に扉を叩いているところをみるに前者だろう。森のヤバい生き物じゃねえといいなあとスートは内心でぼやく。

 まあ実際今とぐろを巻いている蛇が弱っているのは確かなので、万が一を防ぐためにスートが常駐しているわけなのだが。十日も森近くの家で籠りきり! やってらんねえや。

 着古した深緑のローブを羽織ってがりがりと腹を掻いた。

「おい、うるせえ、ぞ……」

 腰のガンホルダーを触りつつ扉を開けて、絶句する。

「あの、黒蛇さんはいますか?!」

「――黒蛇、さん?」

 そこに立っていたのは一人の子供だった。どこから来たのか多少薄汚れているものの大きな怪我のひとつも無く、武器のひとつも持っていないように見える。なにかの罠かとあたりを窺うが人間の気配はない。囮として来た訳でもないらしい。なら何故。黒蛇が居るかを問われたのか。

「黒蛇さんが、死んだって聞いて。心配で、こわくて。私、一目でいいから無事な姿を見たいんです」

「は?」

 意味不明だった。見るからに上流階級の少女がまくしたてるのは理解不能な内容だ――天下の人殺しを心配するなんて。

「お嬢ちゃん。あんたが一人どうやってここに来たのか知らねぇがな、あんたのペットの黒い蛇ならここにはいねえよ」

 だからスートはそう結論づけた。勘違いしているんだと。この家までどう来たのか依然として不明だがそう考えるほかなかった。

「私が会いたいのは!」

 しかし、目の前の大人しそうな少女はその対応に苛ついたように大きな声で言う。

「茶髪で緑の目の、首に赤い石の着いたチョーカーをしてる、黒いローブの黒蛇さんです!」


「ン」

 黒蛇はふと隠れ家に墓守以外の気配が入ってきたことに気付いた。客らしい。珍しいと思った。この家へ事前連絡なしに入って来られる人間なんかほぼいないからだ。つまり墓守が気まぐれで招いたか、始末できなかったか。黒蛇を後片付けに使うのなんてあの男くらいだ。ああいや、あの落としモノもか。

 自分で作ったミートボールパスタをくるくると巻き付け頬張る。あの女の手料理を真似てみたもののほど遠い味に咀嚼が嫌になる。いっそ魔力を直接摂取したかったが休んでいる身ではそうも言ってられない。魔石の用意は大がかりな準備が必要な上に膨大な金がいる。だから仕方なくまた頬張った。大怪我には飯だ。美味い不味いは一先ずおいて。

 やがて足音が近くまできて、そこでやっと疑問に思う。この体重は。この歩き方は。この人間は。

「……あー、黒蛇。あんたに客だ」

 言いにくそうに口にした、墓守の背後にいるのは。

「クロさん!」

「は」

「クロさん、無事だったんですね! やっぱり、よかった。あのね、ルチがクロさんが死んだって言うから」

 かしゃん、と黒蛇は音を立ててフォークを置いた。墓守が目を丸くしていたのを見た。ああ、音。

「聖騎士は?」

「行っちゃだめって言うから、ごはんにお薬を入れて眠らせました」

「……後ろ盾がいなくなるから?」

「え?」

「ここまで来た理由は?」

 黒蛇は無表情だった。それに対するスミレはにこにこと心底安堵したように、気の抜けた顔で笑っている。いくつも作ったすり傷なんて、泥と汗で汚れた身体なんてどうでもいいと言うように。

「クロさんが心配だったから。会いたかったから、です」

「……ばか」

 小さくそう罵って、彼は頭を抱えた。もう何を言えばいいか分からなかった。

 黒蛇を心配する人間なんて一人もいなかった。ただの一人もだ。殺しても死なないから黒蛇なのだ。屍を積み上げる幽鬼のような存在だから黒蛇なのだ。死んだという噂だって、キツイ呪いが籠められた銃弾を脳天に食らったのを面白がった周囲が流したものだった。敵を炙り出せたら上々と拾いに来た猟犬は笑っていたし、そこの墓守だって休むために隠れ家に付き合えと頼めば聞いてられない酷い罵倒をしてきた。飼い主からも失笑された。

なのに。

 ――それなのに片手で簡単に殺せるこの女は、心配だったから来たという。教会を出てはならないという決まりを破ってまで。夜の森を一人で走ってまで。聖騎士に薬を盛ってまで。失敗した時に自分がどうなるのか、考えもしないで。

「ばかだよ、おまえ」

「えへへ。クロさんに会えて、良かった」

 間抜けな顔で笑う女を、黒蛇は初めて恐ろしいと思った。

「墓守」

「っ、おう」

「これ、風呂に入れる。奥借りるよ」

「は?」

 黒蛇は彼の応えを聞かずにスミレの手を引いた。細くて、軽い。折れそうなのに、どうして一人で動くのか。

「おまえ、風呂に入りたがってたよね? ここにあるから使いな。一人で洗えないならしてやるから」

「え、あの、ここはクロさんのお家なんですか?」

「違うけどおまえがその方がいいならそうしな」

 ここは名義上は墓守の一軒家だ。黒蛇の数多くある隠れ家の一つ。ここに居れば飼い主からの加護を受けることが出来る。

「分かる? この扉の奥が服を脱ぐところ。一人で出来る?」

「ぬ、脱げないです。後ろのボタンを外してくれますか」

「ン」


 スートは扉の側で耳をすませてギョッとした。あの黒蛇が侍従の真似事なんかをしている。確かにこの男は小器用でやらせれば何でも出来るが如何せん気分のムラが激しい。というかそもそも他人を気遣うとか出来ない。触れ合うのはもっと無理。拗らせた潔癖症、というのが猟犬の評価。気色悪い人外というのがスートの評価。

 少女は誰に脱がせてもらっているか分かっているのだろうか。

 ――分かってるんだろう、な……

 スートは嫌な気持ちになった。先ほどの台詞はきっと心の底から吐き出されている。黒蛇は洗脳になんか興味無いから素なんだろう。

「外したよ。湯、溜めておいてやろうか。温度調節出来ないでしょ」

「すみません、お願いします」

 というか二人はどういう仲なのか、とスートは思考する。

 黒蛇が女に配慮をみせているのは明らかだ。気を遣って、傷一つ付けないように扱っているんだろう。そう思わせるような柔らかな庇護のこもった声だった。人間の子供の扱い方なんて知ってたのかと思う。乳幼児だろうと躊躇いなく殺すくせに。湯を溜める音、軽い水音。

「これ、熱い?」

「少しだけ……」

「少しなら我慢して。お前、身体冷えてる。浸かって。髪は自分で洗う?」

「あ、洗えますよ! ボタンだけ外してもらえば十分です」

「本当に?」

「本当です! どうしたんですか急に。私は大丈夫ですよ、クロさん」

「……たぶん、傷に、しみる」

 スートは盗み聞きを続けながら気持ち悪くなってきた。誰だコイツ。撃たれた男があんな小さな傷を気にしている。というか脳天撃たれたなら死んどけよ。脳に溶けて絡んだ呪いを取り出すのに半日、解くのに三日、傷の治癒に一日、魔力の回復に三日。全部自力。気色わりい。

「……私のこと、心配してくれたんですか? ふふ、こんなの、葉っぱで切っただけなのに」

「こんなのって」

「こんなのですよ。料理で怪我する方が痛いです。それに、クロさんが側にいることの方がずっと大切。私、あなたに会いたかったんです。レーヴェンさんとルチと三人なのは、さみしい。あなたがいい。側にいて欲しい。ルチからクロさんが死んだって聞いて、最初は信じてなかったのに、だんだん怖くなった」

「信じたの?」

「……」

 水の音がした。恐らく少女がバスタブに入ったのだろう。細く長い吐息。

「死んだって聞いて、私……また、迷子になった気がしました」

「生活出来なくなることがじゃない。最初はそうだったけど、いまはもう違います」

「私はまた世界を失うのが怖い。あなたと、レーヴェンさんと、ルチがいなくなるのが嫌」

「私の〝世界〟には、もうあなたがいるんです。だから、どうか無事でいてください。死んだって噂が流れるなんてことがないようにしてください」

「あなたが死ぬときはぜったい私を連れていって。お願いします」



 ……あれ、まずい話を聞いたかも、と今更思った。聞き耳を立てていることを黒蛇はたぶん気付いていない。墓守の能力は隠蔽特化なので猟犬すらもごまかせる。だからそこはいい。問題なのは。

 最近黒蛇が飼い主にとあることを強請ったという話。南の落としモノが死んだという噂。落としモノは同じ時代を生きられないという伝承。いま、バスルームに居る子供。黒蛇がガキの頃からさらって育てたんじゃない限り、生き物が懐く訳が無いのだ。あれは根源の恐怖に位置する蛇だ。やたらと飯に執着していたのがマシになった。この療養期間なんて自分で作ったものを食べていた。

 今の話。レーヴェン。ルチ。司教の側で見なくなった聖騎士と体のパーツを欠かしたという商人。人が変わった男ばかり。

 そういういくつかの違和感。

 スートはザッと青ざめて扉の前から飛びのいた。慌ててリビングルームへ戻る。そして今夜のこと全てを忘れようと誓った。

 ――黒蛇が落としモノの少女に執着を見せているなんて、覚えていたくもない。




「いつ教会を出たの」

 黒蛇は彼女の髪をくしけずりながら問うた。どこぞの皇女が好むという洗髪剤でシャクシャク洗ってやって、どこぞの美姫が手ずから作った香油を揉んで、知り合いの麗人が教えてくれた櫛を使う。後でその麗人から貰ったボディクリームも塗ってやろう。あれは肌に良いし傷の治りを早くするから。

「ついさっきですよ。えっと、ここに着くまで一時間もかかってないと思います。レーヴェンさんもきっとまだ寝たままですね。起きる前に戻れたらいいですねえ」

 スミレは羞恥心が無いみたいだった。あと警戒心もない。いくら聖騎士が言い聞かせても身に着かなかった。商人が隙さえあれば浚おうとしているのに。

「歌はきちんと歌った? 一つも間違えずに」

「はい」

「なら、三日かな。おまえは祝福持ちだから二日かもね」

「? 何がですか?」

「森を抜けるのにかけた時間」

「――えっ?」

「……おまえ、前渡した本読んでない? 司教が来た時にあげたでしょ」

「よ、読みましたよ! 【飽きた夜の森】は時間が歪んでいるんですよね? それって普通に通ったらの話じゃないんですか? 歌えば大丈夫なんじゃ?」

 ざば、と彼女が大きく動いたので湯が揺れた。溢すなよ、勿体ない。霊薬入りの湯なのに。

「そうだよ。あれは招待状で生き物除けで時間捻じれ除け。だからおまえは精神に異常をきたさず、たった数日でこの家までたどり着いた。本来なら当然のように途中で死んでる。来たとしても短くて二十日か三十日か、長くて一年かな」

 そう答えるとスミレは絶句したようだった。想像よりずっと危ない橋を渡っていたことに気付いたらしい。歌詞の一つでも欠けていたら、彼女の持つ力がもうちょっと少なかったら。黒蛇は死体と会うことすら出来ないところだった。

「反省した? 聖騎士は怒ってるだろうね。商人はきっと探してるよ。俺はおまえを殺し損ねるかも知れなかった」

「……」

 黒の瞳。黒蛇を真っ直ぐに見る、その熱。この世の誰より弱いくせに。僅かに視線を逸らす。濡れた髪と肌。子供のような外見なのに体は相応に脂肪がついている。高く売れるだろう。親に愛されていたことが分かる容姿、落としモノらしい無垢さ。森の外に出てしまえば瞬く間に群がられ食い物にされる。

「反省も、後悔もしてないです。私は私がしたいことをしました。あの教会は不自由だけれど、私は自分でいる権利まで手放したつもりはない。あなたが死ぬときは私を殺したあとです」

 それなのに。

「私はきっと同じことをします。誰に対しても。レーヴェンさんでも、ルチでも」

 この女をうしなえない。

「だからどうか無事でいてくださいね」

 自分がどれだけ弱いかを、都合がいいかを全く分かっていない愚かな女を、それでも黒蛇は見捨てられない。もう無理だ。手放す気など欠片もなかったが、もう。これは駄目だ。

「……教会に、帰ったら」

「はい」

「話すことがある。おまえの今後の話。今回死にかけたのもそれのため」

 流れる黒髪に触れた。伸びたそれにそっと指を通す。

「ここでは話せないけど、きっとおまえは喜ぶ」

 スミレと出会ってどれくらい経っただろうか。帰りたいと言う彼女をここに留めてどれくらい。

「迷子の子供、代わりのない人間、俺のコック」

 黒蛇を抱く女。

「おまえはきっと喜ぶよ」

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