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1-1

「あれ? 女の子が座っている……俺の夕飯?」

 彼女は淡々と、アーオワッタナーと思った。歩き疲れて休憩していたところ、急に背後からあらわれた男の目が、沼のように濁っていたので。

 私の人生は捕食されエンドか……と覚悟を決めていたら「俺チキン。チキン食べたい」と男が言う。なるほど、食材ではなく料理人としての夕飯だったらしい――どちらにしろ初対面の人間に言うにしては狂気だ。

「これで飯作ってよ。出来なきゃお前が夕飯な」

 うん、食材としての夕飯になる未来もまだあるらしい。彼女は状況が一切理解できないまま、しかし男が納得するだけの料理を作らないと死ぬ、ということだけ把握した。

「鶏肉料理ですか……」

 言いながら立ち上がり、男が差し出している物をじっと見つめる。

 ――それ、どう見てもじゃがいもなんだよなぁ……!

 ここで「いやぁ貴方の持ってる食材ではチキン作れないんですよねハハハ」って言ったらどうなるんだろう、と彼女は思考を飛ばす。瞳の濁った見るからに正気ではない男。従っておくのが賢いやり方なんだきっとと自分を納得させ、彼女は男の差し出す物を受け取った。

「ウン。あっち、教会行こうよ。お前そこのシスターなんでしょ?」

 しす、たー? シスターってあれ、迷える子羊よとかいう感じの女性のこと? 確かに彼女はくるぶし丈の紺のワンピースを着ていた。それを見て男は勘違いしたのかも知れない。

「いえ私、迷子になっていただけでシスターという訳では……」

 怒らせてしまわないようにと窺いながら発言した彼女はただの大学生である。知らない場所に知らないうちに立っていた彼女はうろうろと彷徨っていた。そして男と出会い、迷子だったことを吹き飛ばされていた。人間はあまりの衝撃があるとそれ以前のことは忘れてしまうらしい。

 ――そういえば私、普通にお買い物から帰る途中だったんだけどな……気が付いたらこんなところにいるし、どうなってるんだろ。

 少し余裕が出てきたのか巡らせた彼女の思考を、再び男が断ち切る。

「ン? じゃあ神の加護もなんも持ってないってこと?」

「か、神の加護?」

 なにそれ。日常じゃまず聞かないような。

「知らないの? 身綺麗だし、どっかの御令嬢? 記憶消されて【飽きた夜の森】に捨てられた? じゃないとうろつかない」

「……?」

 男が何を言っているのか彼女には分からなかった。迷子になって歩き続けていたから全身薄汚れているし、ただの一般家庭生まれだし、さっきまでの記憶はバッチリある。捨てられた訳ではもちろん無いし、なんなら手元にある程度の食料があるので、迷子である以上でも以下でもなかった。

「マ、いっか。腹減ったし」

 男は静かに歩き出した。彼女は慌ててついて行く。男は音を立てないくせに異様に歩くのが早くて、駆け足でないと見失いそうだった。

「俺さぁ、食べるの好きなんだけどさぁ、旨い料理を作れる奴がいないんだよね。ちゃんと言ってるのにしてくれない奴が多くて、解体だけ上手くなっちゃった」

 相槌は打てなかった。それなりに重たい荷物を抱えて男の後に続くのに必死だったからだ。あと怖いことを言っているので深掘りしたくなかったからだ。解体って料理人のことじゃないよね?

「ちゃんと綺麗な匂いで透明な音がして甘い色があるやつがいいのになぁ……なんで出来ないんだろ」

 ――意味不明!

 心の中で絶叫した声が聞こえた訳ではないだろうが、男がぐるりとこちらを向いた。

「あんたはさぁ、ちゃんとしてくれるよね?」

「ぜ、ぜんりょ、くはつく、つくします」

 息も切れぎれに、しかしそれだけは真っ直ぐ男を見つめて答えた――そんなもん作れないと言って、夕飯にされるのはごめんなので。


***


「いい時間に着いた」

 男がふと足を止め、そう言った。彼女は汗を拭いながら顔を上げる。乱れた息を必死に整えて、目元をひきつらせる。

「うわ」

 ――魔女の家かと思った。

 ひっそりとそこにあった建物は荒れて蔦まみれ、薄暗い森の中に建っているものだからどの角度から見ても神聖さは欠片もなく、ただ不気味な雰囲気だけを纏っていた。

 元は白かったのだろう壁と、なんらかの模様をかたどっているステンドグラス。建物のてっぺんには女神像らしきものが付けられている。それでようやくここが男の言っていた教会なのだと気づく。

 ――あれ、ここ、キリスト教のじゃないのかな? 十字架とかないし……

 彼女は酸欠で回らない頭で考える。何かがおかしい気がするが、何がおかしいのか分からない。様子のおかしい男といるからだけではない不安感が忍び寄る。

「ここ俺の隠れ家みたいになってるから。中はまあまあ綺麗だよ」

「隠れ家……あなたはよく来るんですか?」

「【飽きた夜の森】に来る奴なんかいないさ」

 男は手慣れたように錆びついた扉を開けた。それに彼女はついていく。背後で一人でに閉まった扉に、なんとなくもう戻れないような感覚がした。恐怖を振りきるように頭を振って、暗い中を歩く。

「ああ、お嬢サマは見えないかぁ」

 慎重に歩く彼女にふと気付いた男が指を鳴らすと、途端に周囲が眩しくなる。急なことに目を痛めながらも、久しぶりに見た明かりに彼女は強張りを解いて深呼吸した。

 中は、ぼんやりと想像する通りの雰囲気だった。天井にぶら下がる大きなシャンデリア。等間隔に灯る壁照明。二列に並ぶ椅子。確かにシャンデリアは蜘蛛の巣まみれだし椅子には埃が積もっていたが、想像よりはずっと綺麗だった。劣化しているようには見えず、掃除をすれば問題なく使えそうだ。

「調理場はあっち」

 また男はふらふらと歩みを進める。キョロキョロと見回しながらついて行くと、聖堂とは比べ物にならないほど清潔な部屋に辿り着いた。うん、この人本当に食事が好きらしい。調理場は彼女が笑ってしまうほど綺麗で整えられていた。

「ここさぁ金掛かってて。冷蔵庫とかオーブンもあるんだよね。まぁ暖炉もあるけど」

 ふと彼女は違和感を覚えた。けれど男が続けて言った言葉にまた思考が吹き飛ばされる。

「夕飯作ってよ。出来なきゃお前が喰われるだけだから」

 そう、そうだった。依然として自分には身の危険が迫っている。考えることがありすぎてなにも考えられない。

 ――えっと、鶏肉料理。この人はそれが食べたいって言ってた。

 音を立てないまま男が近くの椅子に座った。静観モードらしい。じっと突き刺さる視線が更に彼女の思考を奪っていく。

 慌てて抱えていたエコバッグを開く。まずは食材を確認しなくては。

 中身は鶏もも肉、酢、しょうゆ、牛乳、小麦粉、菓子パン三つ、飴一袋、白菜、バナナ、チーズ。

 ――うん、これだけあればとりあえず何かは作れる。買い物帰りでよかった……!

「あの、冷蔵庫を開けてもいいですか?」

「好きにしていーよ。俺のじゃないし」

 腰程度の大きさの箱を開ける。中はひんやりとしていて、そして空っぽだった。いや、奥に丸い水色の石は入っていたが、たぶん食べ物ではなかった。

 彼女は静かに扉を閉める。うん、なるほどね! これはもうダメかも知れない。ていうか主食がない。菓子パンの一つを渡せばいいのかな。

「メロンパンは好きですか?」

「ン? めろ? ……分かんないけど、好きにしていい。俺、嫌いなモンはないから」

 じゃあいいか、と彼女は自分を納得させる。本人がいいと言っているなら好きにしよう。

 オーブンに近付いてみる。家にあるものとだいぶ……かなり形が違う。

「オーブンの使い方は分かりますか? 私がいつも使ってるものとは違うみたいで、使い方が分かりません」

 困り果てた彼女に、男は観察するような目を向けた。空洞のように何も窺えない一対の瞳。

 ――あ、この人、目の色が茶色の混じった緑だ。きれい。

 やっと彼女は男の容姿を見ることができた。明るいところでまじまじと見てみると、男が茶髪であることや、黒いローブを着ていることが分かった。まるで物語に出てくる旅人のような服装で、そして雰囲気だった。顔立ちは整っているがその闇のような目と薄っぺらいへらへらとした笑みで台無しになっている。体格はローブのせいで全く分からず、身長は低くもなければ高くもない。彼女より拳二つ上程度だろうか。

 彼女はまた強烈な違和感を覚えたがどうにも言語化出来ず、どうしようもない不安として胸の内に募っていくだけだった。

「ふぅん……マ、使い方は分かるよぉ。どうして欲しいか教えてくれたらその通りにしてやるから」

「あ、ありがとうございます。あとあの、どれくらいおなか減ってますか? 和食と洋食どちらが好きかとか、聞きたくて」

 先程から観察してくるような男の視線から逃れたくて、彼女は笑ってみる。それはどう見ても引きつったものになっていたが、それを含めて男は観ていた。やがて何を思ったかつまらなさそうに視線を動かして彼女の質問に返答する。

「腹はそこまで減ってない。作る間くらいは待てる……あと、これで三回目だけどぉ。〝好きにしていい。もう言わせないで」

「は、はい! すみませんでしたごめんなさい!」

 びく、と彼女は大きく身体を震わせて男に背を向けた。

 ――えっと、えっと。コンロが見当たらないからオーブンで作れるやつにしよう。

 備え付けの棚を見てみると、いくつかのコップとそれに立てられたカトラリー、サイズの異なる複数のボウルや鍋や食器。その隣の棚にはいつから放置されているのか分からないコーヒー豆や茶葉、砂糖。

「あ!」

 棚の奥の奥。ひっそりとあったのは小さな蜂蜜の瓶だった。濃い茶色になってはいるが、未開封のようでまだ食べられそうだった。結晶化している様子もなく、もしかすると非常に上等なものなのかも知れない。

「はちみつ……しょうゆ……とりにく……照り焼き!」

 彼女は和食派だった。


 そうと決まれば彼女は早かった。男に早く料理を提供するためか、作業に集中して何もかも頭から追い出したいと、無意識下に思ったためかは知れないが。

 使う鍋や食器、フォークを洗う。洗剤やスポンジは見当らなかったが、男が「洗うならコレ」と差し出してくれた手のひらサイズのヘチマに似た何かは水を吸わせると泡立ち、食器を洗うのに役立った。不思議に思いながらも気にしないことにする。全部ごはんのあとだ。

 トレーのラップを開けて鶏もも肉にフォークで穴を開ける。ボウルにしょうゆと酢と蜂蜜を適当に入れて混ぜて、肉を漬ける。

 放置している間に一緒にオーブンに突っ込むじゃがいも料理を作る。男の望むものは鶏肉料理だが、差し出されたのはじゃがいも。なので万一を避けるためにじゃがいも料理も作っておく。

 ――つい和食派だから照り焼きチキンを準備してしまったけど、実は洋食派かも。

 好きにしろと言われていても男の正気を疑っているので、そんな心配に襲われてしまう。だからもう一品はじゃがいもとチーズの焼いたやつを作る。

 がんばるぞ、と自分を勇気づけながらじゃがいもを水で洗い、泥を落とした時点で気付く。

 ――あ、包丁が無い。

「あの、包丁はありますか? あと、お塩とか、ベーコンもあったらいいんですけど」

「ンー? ……ナイフすら持ってないの? 参ったな、ガチのお嬢サマ? 殺しちまったらマズイかなぁ、ねぇ? それとも柔い身体で旨いかなぁ」

「え、えっと」

 言葉の出ない彼女に向けて、胡散臭い笑みのまま男は呆れたように息を吐いた。

「塩はそこの壷の中。ベーコンは無いけどハムなら持ってる」

 男は提げていた荷袋から肉の塊を取り出すと

「どれくらい欲しいの?」

 と彼女に聞いた。

「あ、えっと、貴方の食べたいだけ、です。ハムとじゃがいもとチーズをオーブンで焼くので、そんな感じで……」

「ウン、分かったぁ」

 どこからか取り出したナイフでハムを薄く削いでいく。皿の底がハムで見えなくなった頃に男は切るのを止め、ナイフを彼女に差し出した。

「ン」

「あ、は、ありがとうございます」

 恐る恐る受け取ってじゃがいもの皮を剥く。おっかなびっくり剝いていく様をまた男はじっと見つめていた。

 何度か手を切りそうになりつつも無事に皮を剥き終えたじゃがいもを薄切りに……まな板は?!

 ちらりと男を見る。相変わらずへらへらと笑っている。

「あの、じゃがいもを薄く切りたいんですが、まな板とかありますか……?」

「貸して」

 じゃがいもとナイフを渡すと男は先程のハムのようにじゃがいもを皿に削ぎ落とす。その様子は手慣れているように見えて、彼女は抱いた疑問をそのまま口にした。

「自分で作らないんですか?」

「不味いんだよねぇ、俺の料理。味付けが不味いんだよ」

「なるほど……だから他の人に作ってもらっているってことですか? 会えない時はどうしてるんですか?」

「ダイナーで食ってる。金はあるんだ……ほら、終わった」

「そうなんですね……ありがとうございます!」

 ハムの上に散らされたじゃがいもを適当に整えて塩を振る。シュレッドチーズをたっぷり乗せればこれも準備完了。

 鶏肉を漬け汁から取り出して別の皿に並べる。オーブンに両方入れてしまえば後は火を通すだけになった。

「あとは200℃で20分くらい火を通せば完成です」

「……ほんと、どこから来たんだよお前は……マ、テキトーにするよ」

 オーブンの扉を閉めた男がトントン、とそれを叩くと起動したらしい。中がぼんやりと赤く光っている。

「これで合ってるのか分かんないからさぁ、様子見てて。水浴びてくる」

「え、でも」

 オーブンの止め方とか分からないです、と彼女が言うより先に男の姿は消えていた。

「い、行っちゃった……」


 一人にされて不安だったが、むしろ頭の中を整理するにはちょうどいいといえた。男が先程まで座っていた椅子をオーブンの前まで運んで座る。

 ――ここはどこなの? スーパーの帰りだったのに気が付いたら森にいた。そんなことある? ……そもそもここ、日本?

 ここが夢かもという考えはとっくの昔になくなった。森を歩くということ、人との会話、料理。その全ての行為が現実感を伴って、これが夢ではないと告げる。何も知らないし分からないのに、これは夢ではないのだ。

 そしてここが日本ではない、という感覚。理由はいくつかある。まず自分がシスターだと勘違いされたこと。日本じゃそうそう起きない勘違いだ。しかも、理由が紺色のワンピースを着ているから、だけなんて。そして知らない単語や物がよく出てくること。自分のことを世間知らずだと思ったことはないし、実際ごくごく普通の大学生である。なのに全く扱い方の分からないオーブンがあることや、ナイフを持っていないことで呆れられる状態というのはおかしい。

 ――あの変なお兄さんが俳優で、私はドッキリに巻き込まれている、とか。無理やりいえないこともないけど、無いだろうなぁ……

 そう決めるにしては男はあまりにも生活感があった。そしてこの教会のキッチンにも。

 ――だから、つまり、結論としては。

――知らないうちに日本ではないどこかにいる上に、現地の人に絡まれてて下手したら私が夕飯にされるっていうことになる訳だけど……うん、ヤバいね!

 彼女は今更ながらの結論に引きつった笑いを浮かべる。作ったものがこれで大丈夫かという不安が彼女を満たす、が、これ以上材料がないため作り直しは出来ない。今彼女が出来ることは焦がさないようにすることくらいだ。

「まだ焼くべきかなぁ」

 小さく呟く彼女はまだいくつかのことに思い至っていなかった。もしくは、精神の安寧のために気が付きたくなかったか。

 ――そう、ならばどうして日本語が通じているのか、だとか、ではナイフを持っていないと呆れられる世界とはつまりどういう世界か、だとか。この教会では十字架がないが、ではキリスト教以外のどういう教義の宗教なのか、男の電気の付け方やオーブンの起動の仕方は異様ではなかったか、とか。


 いろいろなことをぼんやりと考えているうちに、中からぱちぱちと油の音が聞こえだした。いい匂いもする。

「中、見たいけど……このまま開けていいのかな」

 オーブンの扉に手を掛けて開け――

「火傷したい?」

 男の声に慌てて手を離した。音もなく背後に立つ男に驚いて飛び退り距離をとる。い、いつの間に?!

「開けたいの? なら言ってって言ったよね」

 言ってないです、とは返せなかった。

「すみません……」

 とだけ返して男を見る。ローブを脱いでいて、茶色の髪が湿っているのが分かった。そして首に何か嵌めていることも。

「あの、首のは……」

「開けていいよ」

 トントン、とオーブンを叩くと光が消えていた。男は勝手に開けて皿を取り出す。

「これもう食える?」

「あ、ちょ、ちょっと待ってください」

 彼女はフォークで肉を刺してみる。透明な肉汁。じゃがいもの方はもう少し放っておいてもいいけれど、空腹だった。

「たぶん、食べられます」

「ウン、なら飯だ」

 男は両方の皿をテーブルに置いた。そしていつの間にやら用意したらしいテーブルナイフとフォークで鶏肉を分解している。そのカトラリーの扱い方が目を惹くくらい綺麗だった。

「美味かったらお前も食べていいけど、不味かったらお前が夕飯だから」

 肉に目を向けたまま男が言う。変わらない薄っぺらい笑顔のまま。

 彼女はごくりと唾を飲んだ。男が今まさに口へと運んでいるその一切れで、彼女のこれからが決まるのだ。太鼓のような心音に揺さぶられる身体を手で抑えて待つ。

 しょうゆのいい匂いを立てるそれが噛まれて飲み込まれた。

「ン……ン……ンンン?」

「お、美味しくなかったですか?! あの、じゃがいもの方もどうぞ!」

 首を傾げる男に彼女はもう一皿も勧める。どちらかが美味しいなら許してくれないだろうかという希望を込めて。

 男が外見に反して丁寧な手付きで食事をする。操るフォークがとろけたチーズをまとったじゃがいもとハムを刺して男の口へと運んだ。

「……」

「あ、あの……? 大丈夫ですか?」

 彼女が思わずそう聞いてしまうほど、男は変な顔をしていた。薄っぺらい笑みは消え、空虚だった瞳をまんまるにしている。浮かぶ感情は驚きと密やかな歓喜。彼はそれを自覚したから誤魔化すようにぱちぱちと目を瞬いて、彼女をじっと見つめた。

「――うまい」

「へ?」

「今までの人生で一番うまい」

 へなへな、と彼女は床に座り込んだ。男の放つ妙な迫力のせいでもうおしまいだと思っていたからだ。真剣な表情のまま男は食べ進める。

「お前、どこから来たの? ほんとに美味しい。食べたことない」

「……それは、よかったです」

 どうやら彼女が夕飯にならなくて済んだようだった。




「ウン、美味かった。予想外。お前、ここで暮らしな」

「……はい?」

 照り焼きチキンもじゃがいもチーズも男が全部食べてしまったので、彼女はアンパンを齧っていた。メロンパンは彼に取られた。いたく気に入ったらしく、鼻歌まで歌っている。先ほどとは違う無表情で。

「何が知りたい? なんでも答えるよ」

「へ? え、えっと、ここで暮らすって?」

「外じゃ死ぬよ、お前。カモだもん」

「し、しぬ……?!」

「常識が無い身を守る武器がない警戒心がない。命令されたら従ってしまう怪しい男について行く。ダメだよお前、全部ダメ」

「ぜ、全部ですか……」

「ウン。だからここに住みな。ここは一応教会だから、たぶん守ってくれる」

「一応……たぶん……」

「あと俺もいる。飯食いにくる」

 あ、まだたかるんですね、とは言えなかった。彼の前では飲み込むべき言葉がたくさんある。

「遠い国から来たの? 何もかも違うほど遠くから」

「な、なんで分かったんですか?!」

 呆れたように男は目を向けた。馬鹿なのか、とその目が告げる。

「俺の着ていたローブ。あれは人を殺せる奴が着るんだ」

「え」

「この首輪はそういう能力を買われて偉いヒトに飼われてる証。つまり俺と普通に喋ってる時点でオカシイんだよ、お前」

「な、なるほど……?」

「そしてそれを聞いても何もしないのが一番お前のオカシイところ」

「なるほど……」

 つまり何もかもが奇妙に映ると、そう言われたらしい。けれど平和な日本で育った彼女は人を殺せる人間と言われても上手く理解できないし、初手で自分のことを夕飯にしようとしていた相手と話しているうちにどこか麻痺していた。

「ここの教会なら多少オカシクても納得される。そういう奴が来るトコだから。〝記憶消されて捨てられたどっかの御令嬢〟とか」

「はぁ……あなたの」

「黒蛇」

「はい?」

「呼び名。黒蛇」

「……クロヘビさんのメリットは?」

「うまい飯が食えること」

 変な人だなと彼女は改めて思う。こんな素人の作った料理を、彼は本気で気に入っているらしい。

「シスターの格好して神に祈って暮せばいい。そのための準備は俺が持って来る。今から行くから今日はもう寝てて」

 黒蛇はそう言ってローブを着た。発言通り外出する気らしい。

「え、いやまだ聞きたいことが」

「後で聞く――戻ってくるから」

「まっ」

 するりと彼は消えた。追いかけようとしたが立ち上がったところで止める。どうしようもないと気付いたからだ。

 ――迷子になってこうしてここに立っている自分が、あのひとに着いて行っていいことなんか一つもない。

 それにあの足の速さだ。どうせ置いて行かれるのならば、大人しくこの建物の中に居た方がマシだろう。


 そういう訳で、歩き回ることにした。黒蛇が言うにはこれから彼女はここで暮らすらしいので、建物の構造くらいは知っておこうと思ったのだ。

 とりあえず聖堂の方へ向かってみる。そこは相変わらず煌々と照らされていて、彼女に現実感と非現実感を同時に覚えさせた。

「……何教なんだろう」

 彼女は女神像を見上げて呟く。イエス・キリストやマリア像には見えない知らない女性。ただえさえ日本人らしく宗教にあまり興味の無いたちだというのに、これから神に仕える女のフリをしなければならないという。

 なんとも言えない不安感に包まれながら右側の扉を進めば、いくつかの部屋と応接間があった。人を招いて泊まらせていたのかな、と彼女はぼんやり思う。ここも埃っぽく古ぼけていたが大きな修繕は必要なさそうだった。

 左側は先程までいたキッチンを含む居住区のようだった。こちらは人が暮らしていたような部屋が三つあり、なんとなく偉い順に使われていたように思えた。備品に差があるからだ。一番大きい、偉そうな部屋にはバスルームがついてあって、それ以外にも他の部屋にはないものがあった。彼女は少し迷った後一番小さな部屋に入り、そこのベッドの様子を見た。

「埃っぽい……」

 この部屋を自分の部屋にする予定だったが、まずは大掃除から始めるべきらしい。今夜はどこで寝ようかな……

 ふわ、と欠伸がこぼれた。お腹に少しでも物を入れたからか、急速に眠くなってくる。

「……クロヘビさんが、もどってくるまで……」

 ベッドに凭れ掛かかればふわりとカビの匂いがした。けれど睡魔には勝てない。そのまま彼女は静かに眠りの底に落ちて行った。



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