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第十一話 冬来たりなば春遠からじ ~未だ蕾のぼくたちは~/A;ccol❀aders [Official Music Video]

 一週間で五公演——一ステージあたりの持ち時間が短い対バンライブとはいえ、これだけの過密スケジュールともなれば心身ともに掛かる負担は大きい。

 経験値と体力には自信がある私でさえ後半はだいぶしんどかったから、華燐にとっては相当にハードな一週間だったはずだ。


 それでも、私たちはやり切った。

 慣れない会場で、私たちのことを知らないお客さんに囲まれた中で、今の私たちに出来る最大のパフォーマンスを出しきることができたと思う。


「お互い疲れて眠いだろうし早速本題に入ろうと思うんだけど、その前に一言だけ……まずはこの一週間、本当にお疲れ様でした」


 対バンライブ五連戦の最終日、夕方からのライブを終えて寮に戻った私と華燐はお風呂上りにコタツを囲んで恒例のミーティングを行っていた。


「かなり厳しいスケジュールだったけど、お互いよく頑張ったと思います。特に今日のライブはお客さんを満足させられるパフォーマンスを披露できたんじゃないかなって」


 私も華燐も今すぐベッドに倒れ込んで爆睡できるくらい疲れていたけど、区切りとなる一日が終わったのだ。

 今後のことも含めて、寝る前に軽く話をしておきたかった。


「勿論、まだまだ改善しなきゃいけない点はあるけど、今の私たちの実力は出し切れた。不慣れな環境下で体力的に厳しい中で完全燃焼出来たのは、素直に一歩前進だと思います」

「……ま。概ね同意ね。今日のライブ、最高ではなかったかもしれないけど、今やれる最善ではあったとあたしも思うわ」


 基本的に私より辛口採点の華燐も最終日のライブには手応えを感じているらしく、私の総括に特に反論することもなく素直に頷いてくれた。


「それで、外部のイベントに参加した成果なんだけど……」


 本題。というか、問題と言うべきはここからだ。

 私はコタツの上の華燐のノートパソコンを操作して、『A;ccol❀aders』の動画チャンネルや各種SNSを見せながら、現在の状況を説明する。


「SNSのフォロワー数も動画の再生数も、対バン前と比べると明らかに増えてるわ。ただ、再生数の伸び方を考えたら、チャンネル登録者数やフォロワー数がもう少し増えててもいいんじゃないかって思うんだけど……」

「……なるほどね。興味はあるけどフォローする程じゃないって層が増えたんでしょうね。勿論、チャンネル登録してくれた子もいるんだろうけど、割合的には前者が多い」


 興味はあるから流れてきた動画は見るけど、チャンネル登録したりSNSをフォローしたりして積極的にファン活動をする程じゃない。

 所謂、ライト層が増えたのだと華燐は分析したらしい。私の結論と同様だ。


「やっぱりそうよね。でも、それじゃあ……」


 私たちがクリスマスライブに出演するには、上位三グループとの票差を覆す為の新規ファン——それも、人気投票企画に参加してくれるコアなファンを獲得する必要があった。

 対バンライブで新規ファンを獲得すること自体は出来たと思う。

 けれど、投票企画で逆転できる数のコアなファンを獲得出来たかと言われると……。


「……ねえ。今日は投票結果見るの、やめない?」

「え?」


 突然、華燐がそんなことを言い出した。一瞬、私の聞き間違いかと思ったけど、


「くじ姉の命令で明日は強制的に終日オフでしょ? 動画も編集済みのストック分を投稿するだけだし、今結果を見たところで明日一日悶々とするだけなのは目に見えてるわ」

「それは、確かにそうだけど……」


 今日が終われば、クリスマスライブまであと十三日。

 ファン投票が行われるのはライブ開催の七日前までだから、私たちに残された時間は実質的にあと一週間もない。

 くじらさんから「明日は絶対休むように」って厳命されてるから、確かに今日明日でやれることはあまりないけど……それでも、結果を見て策を練るくらいは出来るはずだ。


 本当にいいの? と探るような視線を華燐に送ると、


「じゃあ決まりね」


 拍子抜けする程にあっさりとそう言って、華燐はパソコンを閉じてしまう。


「それと、明日は午後から出掛けるから」

「あ、そうなんだ……えと、いってらっしゃい?」

「なに他人事みたいに言ってんの。あんたも行くのよ」

「え、私⁉ 何も聞いてないわよ?」

「今言ったじゃない」


 華燐は平然とそんなことを口走る。


「……えーっと、一応聞くんだけど、私に拒否権とかってあったりは……?」

「対バン五連戦中に投稿した動画の再生数、たしか私が勝ったわよね?」

「え。でも、今回は視聴者に罰ゲーム募集してなかったし、勝負はノーカンなんじゃ……」

「勝負しないとは一言も言ってないじゃない」


 ……なるほど。つまりは再生数勝負の罰ゲームだから絶対に来いよ、という訳か。


「……はぁ。わかったわよ。勝負は私の負けで、罰ゲームも受ける。これでいい?」

「ふん、負けたんだから当然でしょ。ナニ仕方ないなぁ、みたいな理解ある大人面してんの。あ、当たり前だけど遅刻は罰金だから」


 なんて言い残して、華燐は啞然とする私の返答も待たずに自室へ戻ってしまった。

 相変わらず自分勝手極まりない華燐の後ろ姿を呆れ混じりに見送りながら、ふと思う。


 ……待って。ひょっとして今のって、もしかしなくても遊びの誘い? あの華燐が? 私を休日に? 終わりか? 世界の。明日は空から槍でも振るのか……?


「……まあいいか、何でも。予定もオフの日にやりたいことも特にないし……」


 とにかく色々疲れた。考えることを放棄した私は、華燐に倣って寝ることにした。



 翌日。昼前に起きると、華燐は既に寮にはいなかった。


「うぅ。寝すぎて頭痛い……というかあの子、一緒に出掛けるんだから、わざわざ待ち合わせにしないで起こしてくれればいいのに……」


 リビングのコタツの上に置かれた書き置きには、『新宿アルタ前に一時。遅れたら死刑』とだけ記されていた。書き置きというより、これではまるで命令書だ。


「……罰金から実刑にしれっとランクアップしてるし」


 ひとまず目を覚ます為に部屋の窓を開けると、控えめな日差しと共に冬の乾いた風が頬を叩く。久しぶりの長時間睡眠で重くなっていた頭が幾分かスッキリした。

 あとは腹ごなしに朝食代わりのゼリー飲料を……いや、コタツの上に華燐が作ってくれたらしい卵焼きと味噌汁が置いてある。

 折角だから今日はこっちを頂くことにしよう。


「……ん、美味しい。華燐って、見かけによらず料理出来るのよね……」


 ……いやまあ別に私が料理出来ないって訳じゃないけど。納豆パンとか得意だし?


 内心で誰に対してか分からない見栄を張りながら華燐が作った朝食を美味しく頂いた。


 食事を終えた私は、再び襲い掛かる眠気と戦いながら外出の支度を開始する。

 まずはシャワーを浴びて汗を流し、見苦しくない程度に化粧をして部屋着のジャージから冬用の私服——ジーンズにタートルネックのニットに着替え、最後にPコートを羽織る。


 ……時間は、まだ十二時過ぎ。これなら余裕を持って待ち合わせ場所へ行けそうだ。

寮の戸締りをして一階の事務所へと降りる。

 建物の構造的に、一旦事務所を経由しないと外に出れないのだ。

 いつもなら事務所の受付にはくじらさんが座っていて、出掛ける私たちを見送ってくれるんだけど……今日は所要で不在、他の所属アイドルたちの姿も見当たらない。

 明かりが消えた無人の事務所は、そこだけ時間が止まってしまったかのように物静かで少しだけ寂しい気持ちになった。

 特に、ここ最近は常にうるさいのが近くにいたから、余計にそう感じるのかもしれない。


「行ってきま——きゃっ!」

「おっと」

 

 扉を開けて外に出た途端、玄関の前まで来ていた誰かと正面衝突しそうになった。

 咄嗟に回避。お互い衝突は免れたものの、相手の方が手に持っていた鞄を落としてしまい、衝撃で床に中身——おそらくは名刺だ——が広がってしまい。


「ごめんなさい! 急いでて前を見てなくて、今拾いますね……って、瀬良さん?」


 床に落ちた名刺を慌てて拾い集めていると、ぶつかりかけた相手が瀬良さんであることに遅れて気づく。そんな私に、瀬良さんはおかしそうに苦笑を返した。


「おはようさん。せやで、ウチや。やっぱり気付いてなかったんやなぁ、叶ちゃん」

「あ、あはは……なんかすみません、恥ずかしい所をお見せてして。あ、コレ、名刺」

「お。おおきに、堪忍な」

「いえ、ぶつかった私が悪いので。それにしても、どうして瀬良さんがうちの事務所に?」

「どうしてって、酷いなぁ叶ちゃん。前にも言ったやろ? 叶ちゃんの復活劇、独占取材させて貰うって。なんや、リップサービスか何かだとでも思っとったんか?」


 純粋に不思議に思ってそう尋ねると、瀬良さんは「初ライブにもちゃんと行ったのに、お姉さん悲しいわぁ」と目元を拭う仕草をして傷心アピールをしてくる。

 口元が若干ニヤついてるから確信犯でやってるんだろうけど、瀬良さんに頭が上がらない私は、平身低頭で「そ、そんなことないですよ~」と必死にペコペコするほかない。


「——それで、結局今日はうちに取材に来たってことでいいんですか?」

「ま、せやな。叶ちゃんの顔を拝みがてら、おたくの事務所に伺った所や」

「でも、くじね——社長は終日留守にすると聞きましたけど……連絡、取りましょうか?」


 ……この人、そもそも事前にアポとか取ったんだろうか? 

 そう思いつつ尋ねると、瀬良さんは案の定ひらひらと手を振って、


「あー。いや、やっぱええわ。そんなら今日は出直すことにする」


 ……やっぱりアポ取ってなかったんだな、この人。


「それより聞いたで? 叶ちゃんら、クリスマスライブの出演目指してるんやって?」

「ええ。それはそうなんですけど……瀬良さん、よくそんなこと知ってますね」

うちの事務所って、一応インディーズに分類されるはずなんだけど……。

「むしろだからこそ、やな。大手じゃまず出来ないようなオモロいイベントをようやる事務所ってことで、この界隈じゃ結構有名なんやで、叶ちゃんトコは」


 確かに、ライブ開催の一週間前まで出演アイドルが決まらないなんて他じゃまずないだろう。ギリギリまでライブに向けたレッスンをこなすアイドルも勿論だけど、開催直前の決定に対応しなければいけないスタッフにとっても相当大変なイベントのはずだ。


「叶ちゃんらの『A;ccol❀aders』は最近好調みたいやし、このままいけばワンチャン一位もありそうで、ウチも楽しみにしてんねん」

「それは……ありがとうございます。瀬良さんの期待に応える為にも、頑張らないとですね」

「せやで。こっからのラストスパートに掛かってるんやから、叶ちゃんも気張らんとな! ウチも叶ちゃんらがクリスマスライブに出演出来るよう、色々協力させて貰うで」

「協力……ですか?」

「リツイート、とかでな! 今の時代、炎上にせよ何にせよSNSでどれだけバズるかが勝負、みたいな所はある訳やし。叶ちゃんらの一ファンとしてやれることはやらんと」

「あ、あはは……炎上はもう勘弁して欲しいですけどね……」


 ほな、次は劇場で会おな! 瀬良さんはそう言って私の背中をばしんと叩いて、引き留める間もなく去っていってしまった。


「ワンチャンある……か」


 ……逆に言えば、余程のことがない限り可能性は極めて低い、ということでもある。

 何気なく放ったであろう瀬良さんの一言に、今の私たちの厳しい立ち位置を再確認させられた気分だった。

 ……そんなギリギリの状況にいる私たちが、オフに吞気に遊んでいていいのだろうか。

 昨日の夜からずっと考えないようにしていた、そんな考えが再び首を擡げかけて、


「……ううん。折角出掛けるんだから、そういうの考えるのは後にしよう」


 リフレッシュも仕事のうち。それに、強引ではあったけど約束は約束だ。

 気を取り直して、私は華燐との待ち合わせ場所へと向かうことにした。



 新宿駅は日本で一番乗車数が多いターミナルなのだそうだ。

 JR線以外にも四社の路線が隣接し、様々なデパートや百貨店が駅ビルとして融合してしまっている為なのか、縦にも横にも無駄に広い駅構内は迷宮のように複雑に入り組んでいて、改札だけで九つ。さらには数えるのが馬鹿らしくなるような数の出口があり、一向に目的地に辿り着けず迷子になる人も多い。

 かく言う私も、『ナナイロサクラ』のライブを観る為に初めて新宿を訪れた時は駅の中で盛大に迷子になったものだ。


 もし待ち合わせをしていた桜花が私を見つけてくれていなければ、私は『ナナイロサクラ』の

ライブに間に合わず、こうしてアイドルをやっている今もなかったかもしれない。


「……そういえばあの時の集合場所も、新宿駅東口のアルタ前だったっけ」


 電車を降りた私は、頭上にぶら下がっている無数の案内板を眺めながら、そんな風に昔の記憶を手繰り寄せつつ、目的の改札口へと向かう。

 東口、歌舞伎町方面出口。ここの階段を登ると目の前にアルタがある大きな交差点に出れるんだけど……覚悟を決めて外に出た途端、私は眩暈に襲われた。


「……うぅ。相変わらずうんざりする人の数ね、ここは」


 ホームを行き交う人の数もそうだけど、改札を一歩出た瞬間視界を埋め尽くす夥しい数の人の群れには上京から七年以上が経った今でも慣れる気がしない。

 特に私の場合は、早朝に事務所へ出勤して夜遅くに自宅に帰る生活を送っていたから、この時間帯の駅前には縁がなく、混雑具合にあまり耐性がなかった。


「さて、華燐はもう来てるかしら——」


 待ち合わせ相手を探して周囲を見渡す。

 乱立するビル群にギラギラしたネオン、極彩色の看板や巨大なモニターに代わる代わる表示される動画広告——それらはどれも目前に迫ったクリスマス色一色に染め上げられていて、訪れる非日常の存在を声高々に主張しているけれど。

 足早に交差する車と人、排ガスの香り、無数に重なり意味を無くした音の塊、群衆、喧騒、雑踏——それらいつもと変わらない忙しない日常の風景も同時に孕んでいて、多種多様を通り越して混沌と化したその光景は、ありとあらゆるモノを許容し吞み込んでいく新宿という街を象徴しているようですらあった。


 そして、そんな混沌の中にあって一際輝く赤褐色の瞳が目に留まる。

 ふーふーと、少女は白い息をかじかむ手のひらに吹きかけるようにして暖を取っていて、


「……遅いっ、てか人多すぎ!」


 人混みを搔き分けて合流した私に、華燐はむすっとした顔で開口一番そう言った。


「それを私に言われても……というか今って、まだ約束の一〇分前よね?」

「は? 約束の時間に間に合うのは当然でしょ? その上でこの寒さの中あたしを待たせたことへの謝罪はないのかって言ってるの!」

「相変わらず滅茶苦茶言うわね……」


 ……まあ、確かに。待たせたのはごめんだけど。


「というか、随分早く寮を出てたみたいだけど、一体いつから待ってるのよ?」

「え? たしか、寮を出たのが十時半くらいだから十一時くらい——って、あたし、あんたのこと二時間も待ってるじゃない⁉ ……あり得ない。お詫びになんか奢りなさいよね」

「すごい。勝手に早く出て勝手に人を待って勝手にキレてる……」


 私を遊びに誘って来た時は一体どういう風の吹き回しかと思ったけど……この理不尽な横暴さ、うん。いつも通りの一宮華燐だ。


「……一周回って安心したわ。逆に」

「は? あんた、急になに言ってるの? 寝すぎて頭壊れた?」

「壊れてないわよ、失礼ね」


 人のこと心配するんだか馬鹿にするんだか、どっちかにして欲しい。


「それより私、今日のこと何も聞いてないんだけど、これからどうするの?」


 このままここで言い合っていても埒が明かない。先を促すようにそう尋ねると、


「え? ああ。そうね……えっと、確か——」


 華燐は顎に手を当てて少し考えるような仕草をして……いや、何も考えてないんかい。


「あっち。あっちに行くわ」


 そう言ってとある一点を指差すと、華燐は勢いそのままに人混みをずんずん進んで行く。


「ちょっ、待ってよ華燐。あっちってどっち? どこに行こうとしてるのよあなた!」


 上京してから七年以上を過ごした街とは言え、基本的に自宅と事務所を往復するだけの毎日だった私では、とてもじゃないが魔都新宿の道案内なんて出来る気がしない。

 二人揃って迷えればまだ御の字、この人混みではぐれでもしたら合流は至難の業だ。

 私は慌てて華燐の後を追いかけた。

 その華燐はと言うと、私の心配をよそにスマホで地図アプリを見ながらどんどんと大通りから離れ、繫華街の方へと進んで行ってしまう。


「ねえ華燐、そっちの方は中学生はあまり近づかない方が——」


 当然、私のそんな言葉にも華燐は聞く耳を持たない。


「……胃が痛い。折角の休日だっていうのに、これじゃ何も休まらないじゃない……」


 気付いた時には低層の木造長屋が密集した、怪しさ満点の細い路地へと辿り着いていた。

路地の入り口にはどこか懐かしい書体で『ゴールデン街』と書かれた看板が設置されていて……その看板に見覚えがあることに遅れて気付く。


「ここって……」


 路にはみ出た飲み屋や飲食店のごてごてとした立て看板に室外機、頭上に垂れるランプ型の外灯、スプレー缶で描かれた壁の落書き。いかにもアンダーグラウンド然としたお手本のような裏路地を、昔の記憶を辿りながら華燐の後に続いていると、


「わっ」


 キョロキョロと周りを見ながら歩いていた私は、急に立ち止まった華奢な背中にぶつかりそうになって慌ててブレーキをかけた。

 華燐に背後から覆い被さるような形になった私に、華燐は振り返って肩越しに言う。


「お昼、まだでしょ。ラーメン食べるわよ」


 そこにあったのは人一人がやっと通れるかどうかという狭さの急勾配の階段だった。

 主張の激しい立て看板が表に出ていなければ、その階段の先にラーメン屋があると気付けたかどうかも怪しい、どこかアングラな隠れ家感漂うお店。

 ただ、辺り一帯には食欲をそそる濃厚な煮干しの強烈な香りが立ち込めていて……あ、思い出した。ここ、このラーメン屋、研修生時代に桜花と一緒に来たことがある……!


 そのことを知ってか知らずか、華燐は初見の人間には入りずらい雰囲気がある狭い階段を、一切の躊躇なく登っていく。


「ちょ、待ってよ華燐。私、ちょっと前に朝ご飯食べたばかりなんだけどー!」


 そうして、隠れ家感のあるお店ですごく濃厚な煮干しラーメンを堪能した私たちは、元来た道をなぞって大通りへと戻っていく。


「ふぅ……なかなか美味しかったわね」

「けど、予想以上に味が濃くてボリュームもあって……うぷ。私にはちょっとキツいかも」

「あんたって、あれだけ普段から動いてる練習魔のくせして小食よね」

「そう? 必要なカロリーと栄養素はちゃんと摂ってるわよ」

「……スティック野菜とサプリメントとプロテインで、でしょ。それで主食が納豆パンって、味気も色気も女子力もなさ過ぎて引くわ。ドン引きよ」

「い、いいでしょ別に。好きで食べてるんだから。そういう華燐は毎食結構ガッツリ食べてるけど、色々大丈夫なの? 体重管理とか、スタイルの維持とか」

「私、いくら食べても太らないのよ。なら、成長期の今食べておくべきでしょ?」

「へぇ、そうなんだ。なのに慎まし……じゃなくて、脂肪が付かないなんて羨ましいなぁ」

「おい今どこ見て何を言いかけたあんた」

「さあ……? 私は今のままでも全然イイと思うけど?」

「あんただって大して胸ないだろ別に……!」


 煮干しラーメンに満足したのか、道をゆく華燐はいつもよりテンション高めな様子で、時折垣間見せる笑顔はどこか桜花にも重なって見えた。

 やっぱり二人は姉妹なんだなぁ、なんてことを中身のない会話を交わしながら思う。


「そういえば、さっきのお店なんだけど、前に桜花とも一緒に来たことがあったのよね」

「……あんたとお姉ちゃんの二人で?」

「そう、二人で。あの時は確か——」


 ——レッスン帰りに桜花に寄り道に誘われて一緒に新宿を探検していて……それで見つけたあの路地の、どこか得体の知れない雰囲気に尻込みしていた私の手を桜花が強引に引いて、ふらりとあのお店に立ち寄ったんだっけ。

 それからはあのラーメン屋が桜花のお気に入りになってしまって、時々レッスン帰りに付き合わされるようになったのだ。


「——それで、桜花があまりに頻繫に通うものだから、私一度聞いたことがあったの。『あんな怪しいお店のどこがそんなに好きなの?』って。そしたら桜花、なんて言ったと思う?」


 私は、当時の桜花の言葉を思い出して笑いながら、


「「——冒険の味」」


 口に出した記憶の中の桜花の言葉が、隣の呟きとぴたりと重なった。

 驚いて隣を見る。同じように驚きに目を見開く華燐と目が合って、けれどすぐにその目を嬉しそうに細め、華燐はくすぐったそうな笑い声をあげて子供みたいに駆け出した。


「ふ、ふふ。あは、あははは!」

「か、華燐?」

「……ううん、なんでも! それよりも次。あっち、あそこの大きなビル、行くわよ」


 わざわざこちらに戻ってきて、華燐は戸惑う私の手を引いて楽しそうに走り出す。

 ラーメンを食べたばかりなのに華燐の手は心臓がきゅっとするほど冷たくて……あぁ、心が温かい人は手が冷たいってやっぱり迷信だよなぁ、なんてことを思う。

 それから何となく。

 本当に何となくだけど、華燐の手を握る力をほんの少しだけ強めた。


 ……ほら、風邪なんて引かれたら困るから、少しでも私の掌の熱が伝わって華燐が温かくなればいいかなって。ホント、それだけだ。

 私はそんなことを考えながら、手を引かれるままに前を走る小さな背中を追いかけた。

どこか懐かしく感じるそんな時間は、それから先もしばらく続いて——


「——服よ。まずは服を買うわ」


「はいはい。分かったから、ショッピングモールでそんなにはしゃがないの」

「……ふっふっふ。ずっと楽しみだったのよねぇ、あんたを着せ替え人形にするの」

「そうねぇ、私を着せ替え人形に……って、着せ替え人形? 私が? なんで……⁉」

「当然でしょ、ジャージアイドルさん。仮にもあんたは私の相棒なんだから、ジャージ以外の私服が白T一枚とジーンズ一本しかないとか許される訳ないじゃない」

「失礼ね、シャツもジーンズも何着かあるわよ。冬服だって……ほら、ニットとかちゃんと」

「同じようなデザインの服が何着も、でしょ。それが有り得ないって言ってんの!」

「……え、ダメなの?」

「クローゼットに同じ服ばっかり並んでる光景は恐怖よ恐怖。アニメでしか見たことないわ、あんなの」

「……でも、出掛ける時に一々組み合わせを考えるのが面倒っていうかそこに思考とエネルギーを割きたくないっていうか、そもそもオフの日はあんまり外に出ないし……」

「あんたねぇ、仮にもSNSを主戦場にしてるアイドルが、トレンドを抑えてないどころかオシャレに無頓着って論外だから! てか、あんたのは無頓着越えて虚無よ、虚無!」

「きょ、虚無って……そんなにかなぁ」

「分かったら……はい、これとこれとこれ持って試着室!」

「いつの間にこんなに……って、いや無理無理無理! こんなヒラヒラした可愛い服、私絶対似合わないって!」

「罰ゲーム、勝者の命令は……?」

「それ今持ち出すのはズルじゃない……⁉」


 当時からファッションに疎かった私は、『ナナイロサクラ』のオーデションに挑む為の勝負服を桜花に選んで貰った。

 その後も度々桜花の買い物に付き合っては、今みたいに着せ替え人形にされて恥ずかしい思いを沢山して……けど、友達に服を選んで貰えるのが本当は凄く嬉しかった。


「あ、待って見て。このお店、すっごく可愛い!」

「華燐? あなた次はCDを見たいって言ってなかった?」

「ちょっと寄り道ー!」

「まったくもう……まあ、気持ちはわかるけどね。モール内に入ってるこの手の雑貨屋って、見てるだけで楽しくて、買うモノがなくてもつい長居しちゃうし」

「……へぇ、意外。あんたでもそんなこと思うんだ」

「いや、思うわよ。人を何だと思ってるの」

「だってあんたの部屋、シンプルを通り越して殺風景じゃない」

「そりゃ、グッズまみれのオタク部屋と比べたら誰でも……」

「? おかしいわね。それは存在しない記憶のはず……後頭部を強く叩けば消えるかしら」

「ごめんなさい噓です覚えてないですっ。真顔で背後から襲おうとしないで怖いから!」

「そう、覚えてないならいいわ。……でも真面目な話、小物の一つでも置いたらいいのに」 

「あー、それは……」

「それとも、あの殺風景には何か理由があるとか?」

「ううん。別に、そういうのじゃないわ。ただ……」

「ただ……?」

「……ずっと、余裕がなかったんだなぁって。時間も、心もさ」


 昔は、桜花と二人で何を買うでもなく商品を眺めて喋っている時間が好きだった。

 アイドルとしては無駄で無意味で、けれど何にも縛られていない自由で楽しい時間。

 あの頃にはそんな時間があったことを、忘れていた。

 忘れていたんだってことに、今、気付けた。

 そういう感情を、思い出せた。


「ゲームセンター……? 華燐って、こういう所によく来るの?」

「逆よ。今まで行ったことなかったから、行ってみたかったのよね」

「行ったことがないって、一度も?」

「そ。小さい頃は大きくなってからねって止められて、大きくなってからは……機会がなかったの。そういうあんたこそ、この手の場所とは無縁そうに見えるけど?」

「あのね、私だってゲームくらいするわよ。それこそ昔はよく通って——……でも確かに、ここ四、五年くらいは来てなかったかも」


 ……最後にこうやって、誰かと遊びに来たのはいつだったっけ。

 確かなのは、楽しい思い出にはいつだって桜花がいたってこと。


 そして、今は——


「——……っつぁー、遊んだーっ」


 満足げに大きく伸びをした華燐の白い吐息が、薄くくすんだ街の夜に溶けていく。


「つ、疲れた……本当、こんなに遊んだのいつ以来だろってくらい遊んだわね……」


 遊んだ後特有の、レッスン後ともライブ後とも異なる気怠い疲労感。

 久しぶりに感じるその感覚に何だか安堵している自分がいる。


「外、いつの間に真っ暗ね。てか流石に冷えるわね。うぅさむー」

 刺すような夜の冷気に華燐が肩をぶるりと震わせた。確かに風が吹くと少し堪える寒さだけど、ゲームに熱中して火照った頭を冷ますには丁度良い。


「華燐、次はどうするの? もう結構いい時間だけど」

「……ん、もうちょっと歩く」


 そう言って再び歩き出した華燐と肩を並べ、たわいないことを話しながら雑踏に沈む。

 ギラギラとした街の光と道往く人々の喧騒は夜の帳が降りようとまるで衰える気配がなくて、むしろここからが本番とばかりの活気を見せていた。

 雑多で煩雑で毒々しいほどに混沌としたその光景が、何だか今は正反対のはずの星の海原に似ているような気がした。


「……華燐。ありがとね」

「なによ、急に。あんたに感謝されるようなことをした覚えなんてないんだけど」

「今日、誘ってくれてさ」


 今日一日、ずっと不思議な感覚だった。

 過去の足跡を辿るような……いつの間にか失ってしまっていたあの頃の感情に寄り添うような、そんな一日だった。

 あの頃の私の隣にはいつだって虹坂桜花がいたんだって……そんな当たり前のことを再確認すると共に、当たり前として享受していたその過去がどれだけ恵まれたものだったのか、今更になって分かったような気がした。


「こういうの久しぶりで……楽しかったわ、すごく。本当に」

「……別に、あんたの為にやったことじゃないから」


 私のお礼にそっぽを向いてぶっきらぼうな返事をする華燐に、思わず苦笑が漏れる。


「……なによ」

「ううん。そういう素直じゃないところ、やっぱり桜花に似てるんだなって」


 あの子の場合は華燐より捩じれた性格をしてるから、ある意味もっと分かりにくかったけど。本質的な優しさは姉妹で同じなんだなって思った。


「……違う。本当に、そんなじゃない」


 そんな風に納得する私に華燐は道端で立ち止まって、拗ねたようにかぶりを振る。

 姉に似ている——そう言われることを恐れ、拒むような。

 でも心のどこかでそれを望み、喜ぶような……心の柔らかい所に爪を立てるその声色に、私も釣られて足を止める。


 沈黙しその場に立ち尽くす私たちを、人の波が避けるようにして進んでいく。

 喧騒が次第に遠ざかり、人混みの中にいるのに世界が二人きりになったような錯覚を覚え始めた頃、ぽつりと。降り始めの雨のように華燐が話し始めた。


「あたし……ずっとこの街に憧れてた」


 星の見えない薄暗闇を見上げながら、華燐がそう零す。


「この街って……新宿に?」

「……お姉ちゃん、レッスンから帰って来ると、その日あったことをいつもあたしに話してくれたわ。アイドルのことも、そうじゃないことも。楽しいことも愚痴も、色々」

「……へえ。ちょっと意外かも。桜花って、親に学校のこととか聞かれたら上手いこといなして話を逸らすタイプだと思ってた」

「確かに、お母さんたちに対してはそんな感じだったわね。自分のことを話したがらないって言うより、余計な心配を掛けたくないって感じだったけど」

「……あー、それは凄い分かるかも」


 桜花って、人の懐には容赦なく踏み込んでいく癖に、人には容易に踏み込ませないような所があったし。本心を隠すっていうか、煙に巻いて遠ざけたがるって言うか。

 なまじ能力がある分、一人で問題を抱え込んでもそれを苦とせず自力で解決してしまう。親友だった私に悩みを打ち明けたり、困ったことを相談してくれることもまずなかった。


 ……でも、妹の華燐に対してだけは、そうじゃなかったのかもしれない。


「その時のお姉ちゃん、すごく活き活きしてて楽しそうで……だから、羨ましかった。あたしも連れてって、って話が終わるといつもダダを捏ねて困らせてた」


 ダダをこねる小っちゃい華燐かぁ……その光景は容易く想像できた。


「だから、ずっと来てみたかったのよ。お姉ちゃんが話してくれた思い出の場所に」

「……なるほど。道理で、どこも覚えがある場所だった訳ね」


 桜花の思い出をなぞる路は、私の思い出をなぞる路でもある。

 それが誇張表現ではないくらいに、あの頃の私たちは何をするにも一緒だった。


「でも、私なんかで良かったの? 大切なお姉ちゃんの思い出を辿るデート相手」

「……逆よ。あんたじゃなきゃダメだった」


 からかうつもりで口にした軽口に予想外の言葉が返ってきて面食らう私に、頭上を見上げたままの華燐は気付いていない。


 だから、それが本心なのだと恥ずかしいくらいに理解できて、耳が急速に熱を帯びる。


「お姉ちゃんの話には、いつだってあんたがいたわ。だから、虹坂桜花の思い出を辿るならあんたと一緒が良かった」


 そこまで言うと、華燐は少しの間を置いてから口の中で小さく何かを呟いた。


「……どの道、一人じゃ怖くて来れなかっただろうし」

「——え? なに?」

「何でもないわよ。とにかく。それがあんたを誘った理由」

「……だから、あくまで自分の為で、私の為に誘った訳じゃない?」

「最初からそう言ってるでしょ」


 しつこい、と。華燐は嫌そうに眉をひそめて嘆息する。


「そっか。ならやっぱりありがとね、華燐」

「……あんた、人の話聞いてた?」

「ええ。ちゃんと聞いてたわ。その上で、私がありがとうって言いたいと思っただけ」


 だってそれは、華燐の大切な思い出の中に、私がいることを許してくれてるってことだ。

 私を裏切者と呼ぶ華燐に少しだけ許して貰えたようで、それが純粋に嬉しかった。


「それに、もし本当にそれだけが理由なら、昨日の夜に今日はランキングを見るの辞めよう、だなんて言い出さないでしょ?」

「……言ってる意味が分からないわ」


 昨日の夜に投票結果を見なかったのも、罰ゲームを持ち出してまで私を強引に連れ出したのも、華燐なりに私のことを心配し気遣ってくれてのことなんだって今なら分かる。

 多分、華燐から見てもここ最近の私は特に余裕がないように見えたのだろう。


 実際、久しぶりにアイドルから離れて自由時間を過ごしてみて、今までの自分がどれだけアイドル以外のことを蔑ろにしていたかに気付くことが出来た。


「……まあいいわ。感謝したいなら勝手にすれば」

「うん。そうする」

「そ。なら、あたしに感謝してるって言うあんたに、一つ頼みがあるんだけど」

「う。なるほど、そう来るのね……油断も隙もない」


 一転して、華燐は小悪魔めいた笑みで詰め寄ってくる。

 でも、感謝しているのは事実だし、先輩として後輩に頼られたからには応えたい。


「分かったわ、内容にもよるけど聞いてあげる。それでなに? 頼みって」


 諦めと共に尋ねると、闇夜に浮かぶ感情の読めない赤褐色の瞳と目があった。


「……あとひとつ、どうしても行きたい場所があるの」

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