第一章・世界で一番優しい死亡原因とは
鈴木辰次は穏やかに自分の死を受け入れようと思ったが、阿呆らしい死因に思わず自嘲してしまった。
――だって、絹豆腐の角にぶつかって死んでしまったのだから。
うっかりにもほどがある。
目の前には辰次を死に追いやった絹豆腐が目の前でグニャグニャと器用に体を曲げて汁を吹き出しながら謝っていた。
そんな柔らかい絹豆腐をぼんやりと眺めながら、辰次は終わった短い人生を反芻して思ったのだ。
――良い人生ではなかったな、と。
辰次は三兄妹の中間子に生まれ、出来る年子の兄と八つも年の離れた可愛らしい妹に挟まれていた辰次は、両親からの愛情が薄かった。
母親は教えれば人並み以上に能力を発揮する兄につきっきりで「辰郎は何でも出来るのに、辰次ときたら……」が口癖だった。
実際、辰次は不器用な人間で何をするにも人の倍以上時間がかかった。
それでも、母親の期待に応えようと努力はした。
しかし、母親は辰次の努力など無意味とばかりに鼻で嗤い、小さい事に難癖をつけたり、変えられない容姿について卑下したりするのだ。
自分が、父の母親に似ている容姿だから??
それに反して、兄は母親にそっくりだから??
その謎は死んだ今となっては、解決する事は無かった。
そんな風に母親から罵られている弟を見ていた兄も、幼い時から辰次は自分のサンドバックであり、何をしても良い存在だと理解する。
母親からのプレッシャーでストレスの多かった兄は、陰にかくれて辰次を殴ったり蹴ったりした。
幼い時は母親にそのことを訴えても「お兄ちゃんがそんな事するわけないでしょう」と母親は辰次をまるっきり信じてくれなかった。
次第に母親に期待するのを諦めて、辰次は母親に殴られても蹴られても我慢するようになる。
そんな風に息子が殴られている事に対して父親はどうしていたのか――と言うと、彼の関心は妹だけだった。
母親が兄に熱心で、誰よりも優秀な人間を作るのに精を出していたからか、父親は妹を溺愛する事で、その寂しさを補っていた。
辰次を溺愛対象にしなかったのは、きっと辰次が男で自分が苦手としている己の母親に容姿が似ているからだったかもしれない。
父親は母親よりは辰次の事を見てくれたが、妹が第一でその次が辰次だった。
妹は兄と違って、優しい子で辰次を慕ってくれたが、兄妹で仲良くしていると孤立する父親が不機嫌となり、それを察した辰次は妹に近づくのも最低限にした。
こんな風に不完全機能家族に育った辰次。
生まれ持った家庭環境は、学校生活でも支障をきたす。
何をしても努力しても否定されていた辰次。中学生に上がる頃には人の顔色ばかり伺って、自分の思った様に話せなくなっていた。
せっかく話しかけてきてくれた人間にも、それに答えようと脳内は大量の文字が流れるのに、言葉を発せなくなっていた。
そうなると、兄の様にストレスの溜まった人間は、辰次をターゲットにする。
あいつは何を言っても言い返さない。
だから、やっても良いのだと。
それから辰次は中学校生活の間、ずっと苛められ続けた。
引きこもりにならなかったのは、母親がそれを恥とし「お兄ちゃんが中学校を卒業するまでは学校へ行きなさい」と毎日家から締め出されたからだ。
苛められた当初は暴力的な事もあったが、何も反応しない事につまらなくなったクラスメイト達は、辰次を徹底的に空気の扱いをする事にする。
辰次は空気の扱いに慣れていたから、そうして、空気のような学生生活を辰次は生きた。
だが中学二年生の三月に、事件は起こる。
兄が第一志望だった有名進学校に落ちたのだ。
落胆する兄。それ以上に落ち込む母親。
父親と妹は必死と二人を慰めるが、辰次はそんな兄と母親を見て、一瞬、一瞬だけ「ざまぁみろ」と思ったのだ。
それを、母親は見逃さなかった。
「……辰次、今なんで笑ったの?」
「えっ……」
「なんで、お兄ちゃんがN校に落ちて笑っていられるの……!?」
「ぼ、僕、笑ってなんて……!」
「笑っただろ!!」
母親は激怒し、辰次を食卓に並べられていた冷ややっこに頭を押し付けた。
すると、打ちどころが悪かったのだろう。
辰次は死んだのだった。
嘘みたいな本当にあった話。
辰次は一瞬で真っ白の世界へと吸い込まれた。
――そして、目の前には、絹豆腐が平謝りしていたのだ。