シーザー・ローズフィードは夢を見る。それは――
学園の寮の部屋で2人の優男が向かい合う。
1人はこの私、シーザーで、もう1人は側近のクラネルだ。
「市井の出?」
「ええ」
「シーザ様が調べる様に命じられた件の男爵令嬢、アリス・カータレットの両親は前任の男爵の次女と、平民の兵士です。駆け落ち同然に野に下りこれまで市井で生活をしていたようです。1年ほど前に男爵家と養子縁組の届け出が出されています」
「養子になった理由は?」
「残念ながら詳しい事は不明です。カータレット男爵家は周囲と繋がりが薄く当家とも取引はありません。ただ、両親らしき人物を目撃したという情報がないので不慮の事故にでもあったのではないですか」
「……事故ですか」
「市井ではよくある話です。少なくとも男爵家は既に世代交代が終わり若い長男が現在の男爵です。御家争いの可能性は低いかと」
「……」
報告を受けて考える。
夕暮れの花畑でアリス・カータレットと邂逅してから早数日。当初懸念していた危険性が低い事は少しの会話だけでも理解できた。
だからといって裏付けなしで信用できるほど貴族社会は甘くない。
「男爵領には目立った産業や特産品もありません。他家との繋がりも希薄で有力な後ろ盾もいない。なぜこの様な家を調べられるのですか?」
事情を説明せずにただ調べろと命じた弊害でクラネルは怪訝な表情で問うてくる。
その問いに答える事はできない。
王族案件はどんな些細なミスが惨事に繋がるか分からないからだ。文字通り首が飛ぶ。
「ご苦労様でした。後の事はこちらで処理をするので休んでください」
「……かしこまりました。では失礼します」
話は終わりだと下がるように命じれば不服そうではあるがクラネルは素直に退出した。
1人だけになった部屋は随分と広く感じる。そもそもが広いのだ。
寝泊りするくらいしか使わない部屋なのに無駄に広い。他の貴族は狭いと不満を持つらしいが理解できない。
ようやく肩の力が抜ける。
身内の側近であっても彼はローズフィードの貴族である。つまり私と相いれない間柄だ。
「気がかりだった彼女の言動に対する違和感の正体もわかりました」
体重を背もたれにかければ年季の入ったチェアがギシギシと鳴る。壊れる心配はまだない。
見上げた天井は無機質で呟きが反射する事もない。
独り言というのは周囲から気味悪がれるが、考えをまとめたり精神安定には丁度いい。
「貴族の教育は多岐にわたる。その中でも最も困難なのが所作でしょう。1年程度の時間ではとても習得できません」
それは誰よりも私が一番理解している。
彼女と同様に平民から貴族に引き上げられた身の上として。
「殿下が面白いと表現したのは単に平民と接する機会がなく新鮮だったというだけの話、私が感じた違和感も相手を根っからの貴族だと想定していたからそう感じたのでしょう」
あの邂逅で私たちは大した話をしたわけではない。
相手の素性も不明で門限も近かった。だから、精々が初対面の挨拶と軽い探りを入れただけ。
少ないやり取りでも彼女の言動はおおよそ貴族らしくなかった。
そんな違和感が実像の見えない相手を無意味に大きく不気味に映していたのだ。謎が解ければどうという事はない。
妙な噂が出ていない事も確認済み。
安堵のため息が漏れる。
「危険がないのなら彼女ともう少し接触するのも悪くありません。何せ、彼女は唯一私と同じ苦労を共有できる人材です。……明かす事はできずとも観察するのも面白い」
興味本位とでもいうのか、昔の自分を客観的に観察できる機会は貴重だ。
基本的に勉強以外に取り柄のない私に趣味の類はない。音楽や芸術の才能も常人の域を出ないし特別に好きなわけでもない。
そんな私の唯一の趣味が他者を観察すること。人間観察とでも呼ぼうか。
彼女は中々に興味深い。
とはいえ彼女とはクラスも別だし生徒会が忙しいのでそんな機会は中々取れないだろう。
「おはようございますローズフィードさん!」
翌日の放課後、件のアリス・カータレットと偶然出会った。
場所は図書室だ。そう言えば、彼女の行動範囲に図書室があったな。
「ごきげんよう。カータレット令嬢」
「ううん、なんだかその呼び方なれませんね~」
マイペースというか天然というか彼女は明け透けのない人物だ。
事情を知っている身としてはもう少し隠す努力をしろと叱りたい。平民として生きてきたという事実は貴族社会では致命的な汚点だ。
貴族は血の積み重ねを重んじているとか、平民の女は皆体を売っているという偏見とか理由は様々だ。
処女神話なる狂気の信仰を深める貴族特有の価値観なのだろう。
私も女性との経験がないので初めてはそういう相手がいいなんて願望もなきにしもあらずだが、40過ぎた家庭を持ってるおじさんが愛人を作るなら処女がいいとか、狂気以外の何ものでもない。
なお、血縁上の父である男爵の実話だ。
気分が悪いというか気持ちが悪いので、あどけない後輩を見守る事で気分を変えよう。
「これでも正式な挨拶よりも簡略化しているのですよ」
「ええ!? そうなんですか!」
「女性の挨拶は決まり事が多いのでなるべく早く習得しないと後が困ります。良ければいい教本をお教えしましょうか?」
「わー! ありがとうございます! ローズフィードさんは今日はどうして図書室にいるんですか?」
ころころと表情が変わるのは貴族としてどうかと思うが見てる分には面白い。
「勉強ですよ。ここには先代の生徒会の資料も数多くあります。これからの業務に必要になるかもしれないので確認しているんです」
学園の図書室とは卒業生の勉強ノートや各種委員会の議事録等が保管されている資料室だ。
研究者をしている教師が自分の研究成果を寄贈する事もあるらしいが基本使われるのは前者の方。
図書室の奥の方に足を進め本棚から一冊のノートを取り出す。そこには生徒会議事録と書かれていた。
この代は戦争真っ最中で人手不足ながらも、任期を全うした世代で大変勉強になる。
「ローズフィードさんは本当に凄いですね。ただでさえ学園の勉強は大変なのにそれ以外にも勉強をするなんて」
「……それほどのことではありませんよ。どんなに努力をしようとも結果に結びつかねば意味がありませんから」
胸の奥がズキリと痛む。
思い浮かべるのは恐怖の象徴イザベラの姿だ。
本物の天才を前にすれば凡才はどれだけ努力しても意味はない。努力だけしても成果を上げなければ意味がない。
「そんな事ありませんよ!」
「え?」
「誰でもローズフィードさんの様に頑張る事ができる訳じゃありません。それこそ、頑張る事が頑張れない人は大勢いるんです。だから私はローズフィードさんのようにいつも一生懸命に頑張れる人の事を心から尊敬してるんです!」
驚きに目が見開く。
これまでどれだけ努力しても認められることはなかった。重要なのは注目されるのは結果だけ。
だから、彼女の言葉に心の底から驚いた。
人の顔色を窺ってばかりの人生だ。その人生で培った高度な観察眼が彼女を見る。
そこには、嘘も偽りも同情もない。あるのは純粋な好意と尊敬の眼差しだけ。
目頭が熱くなる。
これまでは暗く淀んだ道をもがきながら進んでいるようだった、光り輝く栄光に憧れ、決してそこにたどり着けない自分を悲観した。
そんな道に小さくそれでも温かな光が差し込む。
『 報われた 』
そんな言葉が頭の中に浮かんだ。
「シーザーと」
気がつけば口から言葉が漏れる。涙が漏れないように我慢しているので言葉にまで意識が回らない。
「え?」
「私の事はシーザーと呼んでくれませんか? ……親しき友人として。迷惑でしょうか?」
「いいえ迷惑なんてことありません! 私の方こそローズフィードさ……シーザーさんと仲良くなれてうれしいです! そうだ、私の事もぜひアリスと呼んでください!」
「アリス……」
「はい、シーザーさん!」
アリスの笑顔は太陽を彷彿とさせる温かく可愛いかった。
「……」
目がくらみ後方からこちらをジーと見ている視線に気づく事ができなかった。
・・・
学園は全寮制で日が暮れる時間には寮に帰っていなければならない。当然男女は別々だ。夕食の時間になれば学年を問わず食堂に集められるが、それまでの時間は比較的自由時間である。
いつも通り夕食前に勉強をしていると手紙が届けられた。
手紙の配達をしてきたクラネルから受け取り差出人を確認する。
「これは……」
朱印は薔薇の文様。ローズフィード家の家紋だ。この学園でこの家紋を使用する相手。つまり、
「イザベラ様から夕食のご招待です」
嫌な名前が出た。
「随分と急ですね……断る事は」
「既に面会用の食堂の準備が整えられています」
一応言ってみたが当然駄目だった。イザベラが一度決めた事を覆す事なんてできない。心なしかクラネルがそっけない。
「……」
仕方ない。夕食はイザベラと共にする趣旨の手紙をしたため殿下と寮監に送る。
間違いなく味なんて分からないだろう。
胃薬の用意も必要かもしれない。
学園の寮は男女別々だ。けれど、戦争時代の様々な影響で1つの館を東西に分け男女別々に使っているというのが実情だ。
それまではお互い離れた館だったらしいが、人手不足で護衛が足りないのでまとめたらしい。
とはいえ、それぞれの館には扉を守る護衛騎士が常にいるし寮の中にも護衛はいる。女子の方にも女騎士が絶えず目を光らせているので不純異性交遊はできない。
ただ何事にも例外は存在する。
本来は婚約者同士が少ない時間で愛を育む様にできた制度らしいが、学園に申請すれば夕食を異性と同じ食卓で取ることができる。
勿論それぞれの側近や学園側からの監視がある程度つくが。
あと、個室を予約するのに伯爵家相当でも躊躇するレベルの経費が掛かるらしい。公爵家にはただの些事だろうけど。
「お久しぶりです……義姉上」
案内された個室は寮の自室よりも広い。
既に卓についていたイザベラに挨拶をする。恐怖で笑顔が作れないので無表情で。
「同じ学園にいてもお互いに多忙ですもの仕方ありませんわ。お久しぶりですわねシーザー」
それは相手も同じらしい。いや、恐怖心の私と違って幼い時より成長し美しさと威圧感が増したイザベラにとっては表情筋を使うのが手間だっただけだ。
人は美しい過ぎる物に恐怖を抱くというが、ドラゴンのような威圧感をかもし出す生物に恐怖以外の何を感じろというのか。
値段相当であろう食事が運ばれる。普段の食事よりも豪勢だが案の定味がわからない。
談笑もなく粛々と進行する食事。
重くのしかかる空気に皿の上の物を口に運び飲み込むという単調な作業。
満腹感よりも先に不快感を覚え始めた所でようやくデザートを食べ終わる。
これ以上何かを食べていれば見るも無残に腹の中身をぶちまけていた所だ。
おえ。
食後のお茶が運ばれると、監視達や支給をしていた側近は一度退出する。合瀬を育む男女の為に設けられた配慮らしいが、私には無関係だ。むしろ、1人でイザベラの前に立たせるとかやめてほしい。
胃痛で死ぬぞ?
「早速ですが本題に入りましょうかシーザー」
「……」
「先日の事ですがわたくし先生方から相談をされたのですよ。これをご覧になって」
「これは私の成績表ですか……生徒の個人情報は例え身内であっても秘匿する義務があるはずです。なぜ義姉上がこれを?」
「言ったでしょう? わたくし先生方から相談を受けたの。最近の貴方は少々気が緩んでいるのではなくて?」
厚紙を折り冊子状にしてある成績表。ぺらりとめくればそこにはこれまでの学園での成績が記載されている。
「学園は実技と座学の総合点が成績に反映されますわ。どちらかが不得意でも片方でよい成績を取れば問題なく進学卒業はできるでしょう」
貴族の学園なので色々と緩い。
双方の点数の合計が平均より上なら合格なので落第する者はほとんどいない。
私の様に特化している生徒にはありがたい制度だ。馬鹿なラルフが落第しない原因でもある。
「貴方は昔から体が弱かったから実技ができなくとも苦言を呈する事は致しません。ですが、座学では常に結果を残さねばなりません」
最新の成績が記載されてる欄をコツコツと指ではじく。成績が下がっている。それでもまだ首席である事には変わりない。
けれど、イザベラは咎める視線を向けてくる。
「わたくしは貴方の事を心配しているのよ。他の方と違い貴方には後がないの、それを解っているのかしら?」
心配なんてしていないくせに。
そんな感想を思いつくが口にはしない。
(嫌味を言いに来た? 文句を言いに来た? ……いや、この女がそんな些事で自ら動くとは思えない)
なら本題は別にあるのだろう。
注意深くイザベラの表情を盗み見るが、そこにどんな内心があるのか読み取る事はできない。
「わざわざ義姉上に心配していただけるなんて光栄です。皆様の優しさ身に染みる思いです。ですが、多忙な生徒会役員の身ではありますが、己の研鑽を怠らぬよう日々努力する所存です」
「貴方の事ですから私の心配が杞憂である事は理解していますわ。それでも家族ですもの心配をして当然でしょう?」
「……」
その言葉に押し黙る。
今の会話を解りやすくかみ砕くとこうなる。
『心配される必要はありません。生徒会が忙しいので少し不覚を取りました。なのでそこの所を考慮してください』
『うるさい黙れこの無能が、貴様の失態一つで我々ローズフィードの、何より私の顔に泥を塗ることになるんだぞ。出来損ないのゴミ屑が!』
多少脚色がされているが意味合い的には違いはない。
「それに最近妙なお友達と縁ができたようね?」
その言葉にようやく今回の本題が何なのか理解した。
「……妙な友達とはおかしな言い回しですね。この学園に通っている生徒は歴史と名誉ある貴族の縁者ですよ」
「本来であるのならそうですわね。でも何事にも例外は存在する。それは、貴方もよく理解しているでしょう」
「……」
アリスの出自がバレている。
なぜイザベラがそんな事を知っている? こいつにとって有象無象の1人でしかないアリスの存在なんて認識すらしていないはずだ。
何かがあった、いや、誰かが密告した?
(クラネルか……)
アリスの内情を知り、私との交友を知り、イザベラに密告できる人間。それはクラネルだけだ。
(余計な事を!!)
普段からいけ好かない奴だと思っていたが最悪だ。
よりにもよってイザベラに告げ口するなんて!
肉食のドラゴンの前でこれ見よがしに足を引きずる家畜がいればどうなる? 簡単だ骨までしゃぶり尽くされるに決まっている。
耐えられるか? 耐えなくてはいけない。
「学園での交友関係をとやかく言われる事は心外です。ここでは家や派閥を越え交友関係を広げることは推奨されています」
「友人を作ることはいい事ですわね。わたくしとても内気なシーザーにお友達ができるのを喜ばしいと思っていますわ」
イザベラは優雅に紅茶を口に含み一呼吸置いた。カップを置いた次の瞬間、冷たい瞳が向けられる。
まるで首元に剣を突き付けられている幻覚を見る。
「ですが、そのご友人は貴方にとって本当に必要かしら? 相手を選ぶようにと家庭教師から教わらなかったの?」
怖い。ただただ怖い。
それでも。それでもここで引いてしまえば終わりだ。進んでも止まっても後退しても死んでしまう。
ならせめて命の時間を延ばす為必死に抵抗しなければ。
「彼女にはローズフィードと敵対する意思も力もありません!」
「そうでしょうね。それほど身の程知らずならとうに貴方の前から消えている事でしょう。貴方もわかっているでしょう? 貴方とでは身の程が違うという事が」
素で恐ろしい事を言う。
「た、立場の弱い貴族を保護するのも上位者の役目です!」
「良き隣人を尊重するのは当然ですわ。悪い隣人と距離を置くのも当然です。されど、隣人にすら成れない、すれ違っただけの他人に心を砕くなんて随分とお優しいのね。姉として優しい弟を誇りに思いますわ。その優しさが貴方自身に災いとして降りかからないか心配でたまらないわ」
「ッ……その様な事は!」
「ありえないなんて事はありえませんわね。現実にそのお友達ができてから貴方の成績は落ちた。それが事実です」
「そんなことはありません!」
感情的に否定したその瞬間、しまったと思った。
「……」
「ッ」
こちらを観察する様に目を細めるイザベラを見て後悔が沸き出てくる。
嵌められた。踊らされた。
表情を取り繕い感情を隠すのは貴族にとって必要な技能だ。
何せ貴族の先祖は最も栄えた暴虐の賊である。身の毛もよだつような残忍で残酷な事を当たり前の様にできる。それが貴族だ。
愛する女性がいれば人質に、守るべき領民は見せしめに殺し、そいつの血を継いだ家族がいれば……想像するだけでも恐ろしい末路を辿るだろう。
感情を荒げてしまった時点で、私はアリスの事を大切な存在だと明言してしまった。イザベラの言葉を証明してしまった。
「……」
打開策を思考するが何も思いつかない。
ごくりと唾を飲み込む。
不甲斐ない自分が嫌になる。
言い訳はもう遅い。黙秘は論外。なら話題を挿げ替えれるしかない。
「……そういう義姉上こそ人の事をとやかく言える成績ではないではないですか!」
勢いに任せてまくし立てる。
交渉術は数あれど、人と人のやり取りで最も有効的なのは大声を張り上げる事だ。どんなに優れた技術を持っていても声が小さければ意味がない。
イザベラの成績は当然のようにすべて満点――ではない。
優秀者として常に名は上がるがまるで手を抜いている様に抜きんでたモノではないのだ。実際に手を抜いているのだろう。
何せ座学の最優秀者は私で、実技の最優秀者はラルフなのだ。
昔の幼い時のイザベラでも圧倒できる実力しか持っていない2人だ。
「義姉上が本気を出せば学年首席なのは明白です。本気を出さないのはあまりにも怠惰が過ぎます!」
「あら、おかしなことを言うのね。確かに首席を取る事は立派ではあるけれど、別にそれは必ずしも必要な事ではないでしょう?」
他の人が言えば正論だろう。
けれど、何も考えずに常に結果を残せる化け物が何をのたまうのか。
「……義姉上なら容易なはずです」
「貴方に褒められるなんていつぶりかしら、ありがとう。でも別に問題はありませんわ」
何が問題ないのかと疑問を思う前に背筋に寒気が走った。
この感覚は忘れもしない、忌々しい石合戦の時に感じた嫌な予感。命の危険を知らせる本能からの警告だ。
何かは分からない。なぜかもわからない。でも、これ以上この場にいてはいけない。これ以上、この女の言葉を聞いてはいけない。
さもないと。
「まっ――」
言葉を止めようと手を伸ばす。
けど、貴族のテーブルは広く大きい。これだから貴族の価値観はいやになる。
無情にもイザベラは言葉をつづけた。
「たかだか勉強くらい一番になれなくとも人の価値は変わらないもの」
それは決して私に言ってはいけない言葉だった。
「私たちにはもっと他に大切なことはいっぱいあるのだから、むしろそっちを頑張った方がいいでしょう」
正論だとも。否定はしないさ。でも、正論ほど暴力的な言葉はこの世に存在しない。
悪意はない。だからこそそれは残酷な現実を意味している。
パキン。
何かが割れる音がした。
穿たれた罅は徐々に大きくなり全体に広がる。壊されたのは僕の心だ。
僕が、シーザー・ローズフィードが唯一他人に誇れる自信をイザベラは何気なく粉々に砕いたのだ。
「あぁ、ああ、ああぁぁあああああああああああああッ!!」
部屋から飛び出す。生存本能に従い命の危険から少しでも離れるために逃走を始める。
誰かが何かが後ろから呼び止める声がしたが構うものか。あんな場所にはいられない。
走る。
走る。
走る。
目的地なんてない。向かうべき指標もない。僕の道は暗く淀んだ泥に飲み込まれた。
・・・
気がつけば花の香りにうずくまっていた。
「ああぁぁ、クソクソクソッ! ちくしょうぅ……」
いつぞやの校舎裏の花畑に漏れ出す嗚咽のなんとも汚い事か。
もう日が暮れて星々と月の光しか照らす物はない。それすらも俯きうずくまる僕には届きはしない。
門限が過ぎているので他人はいない。ああ、よかったと心のどこかで思う。
「……シーザーさん?」
けれど、神様はどうにも僕が嫌いらしい。
「アリ……ス」
「どうされたんですかこんな時間に?」
なぜアリスがここにいる?
もう門限は過ぎている。なんでなんでなんでなんで?
サクサクと足音が近づいてくる。芽生えた感情は恐怖だった。これまで感じた事もない恐怖。
こんな姿を、よりにもよって彼女に晒す事なんて死んでも御免だ!
「く、来るな!」
拒絶の言葉は思いのほか強く出た。
足音が止まる。
「頼む、今は、今だけは来ないでくれ……」
弱々しく懇願する自分のなんとも情けない事か。
それでもいい。こんな姿を見せるより百倍マシだ。
惨めだな。無様だな。シーザー・ローズフィードよ。僕はこんな人間になるためにこんな場所に来たわけじゃないのに。
こんなはずじゃないのに……。
しばしの沈黙は再会された足音で破られる。
それでいい、遠ざかってくれ、こんな僕を見ないでくれ。
「ッ!?」
そんな願いは打ち破られる。
サクサクと草を踏みしめる足音は遠ざかっているのではない。近づいているのだ。
来るな来るな来るな来るな来るな来るな来ないでくれ!
必死に願った。何に願ったのかは分からない。神様にでも願ったのかもしれないし、そうじゃないのかもしれない。
そんな願いが叶う事はなく足音が止まる。僕の耳元で。
「大丈夫よシーザー」
「……え?」
かけられた言葉に泣くのも忘れ唖然とした。
降りそそいだ声は優し気だ。それにどこかで聞いたことがある。
当然だろうこれはアリスの声だ。でも、どこかいつものアリスと違う。それなのにどうしようもなく心地がいい。
頭の上に温もりが下りた。
優しい手つきで撫でられる。
「大丈夫よシーザー泣かないで」
ゆっくりと顔を上げる。重力に逆らうように見上げた先にはやはりアリスがいた。
月光に照らされ美しく、どこか妖艶な微笑みを浮かべるアリスが。
涙を指で拭われる。
彼女の触れた場所からあたたかく心地のいい温もりが広がっていく。気のせいかアリス自身も光っていた。
まるで月の女神のような光景だ。
「私が貴方を守ってあげる、だから泣かないでシーザー」
あやすように愛しむようにかけられた言葉。
僕はこれを知っている?
遠い記憶が蘇る。
それは僕がまだシーザーだった頃の記憶だ。
一番幸せだった時の大切な、大切な思い出だ。
「……おかあ、さん?」
「私が貴方を一生守ってあげる。だからおいで、可愛い可愛い私のシーザー」
アリスから差し出された手を見た。神々しくも光り輝く掌を僕は掴む。優しく、丁寧に、壊れ物を扱うように、けれど愛しい母の手を握るように。
握った掌から温もりが漏れ出した。
それはやがて体全体に広がり、僕を包み込む。
その光が僕を満たすとき、唐突に理解した。
――僕は救われたんだ。
シーザー・ローズフィードは夢を見る。それはとても幸せな夢だった。