一話
世の中には、頑張ってもぶち当たってしまう理不尽というものがある。貰い事故、誰かの逆恨み、空から降ってくる鳥のアレとか。カテゴリにとらわれない豊富さで。
だからそう、今自分に叩きつけられたこの状況もきっとその類の理不尽なんだと信じたかった。
「やあお兄さん。なにかをお探しで?」
気がついたら海のど真ん中にいた。
唯一の救いだったのはいきなり水にドボンじゃなくて船の上だったこと。
「何かっていうか…、自分の居場所を」
「そりゃなんとも哲学的で青春ぽい探しものだね」
「いや、そうじゃなくて。ここはどこかとかそういう話なんですけど」
そして目の前にはひとりの女の子。年の頃は俺と同じくらいか。だというのになんというか何もかもが胡散臭い。
口の片端だけを釣り上げた笑い方も、投げやりな視線もやる気なさそうな立ち姿もなんちゃって風味溢れる修道服も何もかもが胡散臭い。なんというか、年齢詐称とかそっち系のやつ。
「ここはって。君も見たらわかるだろう。船だよ。それも超でかくてかっちょいいやつ。」
めちゃくちゃ得意げなこいつには申し訳ないがそういうことでもなかった。きっとこいつは会話の通じないやつだ。こうなったら自分的には無視するしか手が無い。
「そっすか…じゃあ俺はこれで。」
「こらこら待ちたまえ。冗談の通じん男だな君は。説明してやるから着いてきなさい」
踵を返そうとする俺の肩をむんずと掴んでにっこり。顔だけ見れば可愛いのに。顔だけ見れば。
俺の心底嫌そうな顔にもう一つ笑いながら、そいつは歩き出した。時折俺がちゃんと着いてきているかをちらちら確認しながら。
「説明とはいっても、この場所はなんと言うか、船としかいいようが無いんだよ少年。渡し船と言ったら分かるかな?」
俺が放り込まれた場所はどうやらこの船の甲板で、板張りの床の中に時折芝生があったり、鉢植えに花が咲いていたりと随分とこう、セレブリティを感じる造りだ。
「渡し船ってのは、まあ一般的には岸から岸へ人や荷物を運ぶ船のことだ。私はこの船の管理人で、一人しかいない船員で、渡し守という訳だ」
かた、こと、と板張りの小気味よい音を響かせて一番外側の通路を歩いて船の中へと進む。ガラス張りのシンプルでオシャレなドアをくぐると、目の前には吹き抜けのホールとお高そうなシャンデリアがお出ましだ。
「というのも一般的にはの話でね。この渡し船は少々特殊なのだよ。望んで乗れるものじゃない、滅多にお目にかかれない代物さ」
「そんなご立派な代物になんで俺が乗ってるんだ?俺はついさっきまで……、えと、さっき…まで…………」
空白。
そう、自分はついさっきまで、平和な日常の中にいたはず。居たはずなのだが、何故か前後が思い出せない。おかしい。何がどうしてこうなっているんだろうか。
すこし落ち着いて他人の話を聞いたからこそ、改めて現状の意味不明さに冷や汗が流れ落ちていく。
そもそもここはどこの海で、どういう経緯で乗って、どこに向かっているのだろう?
まさか、どこかに売り飛ばされるなんてことはないよな、と不安から頼りなく喉がひゅう、と鳴った。
おかしい。何もかも変だ。何故直前のことは愚か、ここ数日のことが何も思い出せないんだ……?
「何も思い出せませんってか?
まあ安心したまえ。君みたいに頭から全部吹っ飛んじまった人も時々居るよ。ここじゃなぁんにも不思議な事じゃないさ」
真っ青になって行く俺とは対照的に、目の前の女の子はあっけらかんとした様子で言ってのける。不思議な事じゃないって、これのどこが。と思わず睨み付ける。
「ははは。不思議な事じゃないさ。だってここは三途の川だからな」
「嘘つけ!!」
思わず反射的に出た言葉に彼女は隠す気もなく舌打ちし、『冗談』と言いたそうな顔で大袈裟に手をひらひらと振ってみせた。
「まあなんだ。君、明晰夢って分かるか?」
「は?明晰夢…?」
小耳に挟んだことくらいはある。夢だって分かってる夢…?とか何とか。でもそれが今なんの関係があるというのか。今はもっと違うことでいっぱいいっぱいだと言うのに。
「この場所は、そんなようなもんだと思っておくといい。ここは現実世界とはちょっと違うからね。」
スカーン、と。頭を殴られたような衝撃を受けたと言うのはこういう事か、と後後になって思う。
「は…?え、つまり何か、ここは夢の中で、現実の俺は寝てるって、こと…?」
「うん。そうなるね」
どっ、と身体中の力が抜けていくのを感じる。なんだ夢か。そうか夢か。今の現状と同じくらいふわっとした理由に全身の力が抜けて行って、そのままぺたんと尻もちをついた。
「心配して損した………」
夢だって言うんならこんな無茶苦茶な状況も納得出来た。夢なら仕方ない、と言うやつだ。
夢ならいつかは目が覚める。目が覚めれば、きっとこのことも直ぐに頭から飛んでいくのだ。どんなに無茶苦茶な内容でも、どんな夢だったかも思い出す暇すらないままに。
「なんだ、信じるのか」
心底つまらなそうな声が頭上から降ってくる。すい、と目線を上げれば、彼女の表情はつまらなそうな表情とは程遠い、なんというか能面のような無表情だった。
「夢、と言って信じるやつは初めて見たな。君って案外単純だな」
「いや、他に説明つくようなものないじゃん。夢とかかなりしっくりくるわ、理不尽すぎて」
逡巡する様に視線を逸らした彼女はぽつりと「まあね」とだけ零した。
「は~……ほんとに一面海だな…何にもねぇや」
あれから俺はここでの生活についてを掻い摘んで説明されながら今いる客室に連れてこられた。
ここでの生活についてと言っても、部屋はここで備品は好きに扱えとか、レストランは何処にあるとか、ラウンジはどうとか、ランドリーは何階にあるとか、遊びたければ遊戯室に行けとか、そんなような雑なものだけど。
「しかし夢のような場所だなぁ…夢だけど…」
割り当てられた客室は、調度品などは質素に纏まっているがどれも高くて質のいいものだとすぐに分かる様な品でまとまっており、一人用の客室としてはやや広めの印象を受けた。部屋だけでなく…まだ全てを回ってはいないにしても、この船は所謂豪華客船とかいう類のものなんだろう事は嫌でも分かった。
しがない一般家庭の一般的な男子学生には決して縁のないものだ。夢の中とはいえそこで好き勝手出来ると言われれば嬉しくない訳ない!…と言うのが本音だ。
客室の丸窓を開け、外を眺める。余程の沖なのかそれとも現実のものでないからなのか、海はただそこにあり、凪いでいる。そしてこの船はただそこに浮かび、海に波を作り上げる。空には雲も無く、ひたすらに晴れ渡っている。
鼻をくすぐる潮風を胸いっぱいに吸い込んで、突然降って湧いたこの理不尽を何となく楽しんでみようと、一人頷いた。