お嬢様学校に通う名家の娘二人が謎の許婚をぶっ飛ばして結ばれる話
ここは名家の子女が通う名門、新百合ヶ丘女子学園。いわゆるお嬢様学校と呼ばれる格式と伝統ある世界だ。
広大な敷地、豊富な自然。初等部から大学までの一貫教育。外界から隔絶された世界は少女たちの花園である。
そんな校舎の一角、際立って色とりどりの花が咲く裏庭。ここは麗しき乙女が心に秘めた想いを解放する数少ない聖域となっていた。
砕けた言い方をすれば密会所である。他にも同様のスポットとして屋上と保健室が存在しており、これらは百合的イベントが発生しやすい場所として俗世においても語り継がれている。
話と視点を戻そう。
裏庭の片隅に、ここで愛を語らうべしと看板を立てかけたくなる意味深なベンチが設置されている。
今まさに、その場所で二人の天使とも呼ぶべき少女が羽を休めているのだ。寄り添って手を重ね合う。その光景を見た者は圧倒的な神々しさに頬を緩めながら光の粒子に溶けていくに違いない。
「お姉さま……好きです」
「私も愛しているわ、可愛い栞」
有栖川栞と九条院楓華。学園のうら若き星々の中でも一際輝く二人である。
高等部一年の栞は身長こそ低いものの、それが愛くるしさを際立たせており、ミディアムヘアの髪を揺らして明るい笑顔を振り撒く学園の妹として名を馳せている。
そんな彼女が唯一の姉として認める存在が、誰よりも近い場所で抱擁を交わしている楓華である。
高い身長と長い黒髪。この時点で既にあらゆる女学生の頂点に立つことが確定しているのは言うまでもなく、顔立ちから性格、声や振る舞いに至るまで完全無欠の令嬢として学園で知らぬ者はいない憧れの的として君臨する十八歳……それが楓華という女性である。
「ああ、お姉さま……お慕い申し上げております」
「私も同じ気持ちよ……でも、私には許婚がいるの」
「わかっています。企業のため、この身を捧げることこそが私たちの生きる意味……」
いつの時代にも家柄を強く維持するための策略は巡るもの。
利害が一致し、家が栄える。そのために使えるものはたとえ子供であろうと容赦ない。
現実はどこまでも冷酷で、だからこそ現実的という言葉にはマイナスイメージが付きまとうのである。
「でも今だけは、このままでいさせてくれますか?」
「もちろんよ。将来引き裂かれることになっても心が栞を覚えていられるように……もっと栞を私に刻みつけてちょうだい」
「はい、お姉さま――」
混ざり合う体温は灼熱の太陽フレアのごとく燃え上がり、見るものすべてを強制的に浄化させる。万が一ここに観察者がいた場合、不純物とみなされて即時消滅の運命を辿ることだろう。
栞の頭、そして髪を撫でる楓華の指捌きはオルフェウスさえも嫉妬するであろう優雅さを溢れさせ、間近でその動作を目にした者は神秘の真理に触れて生命の形を保っていられまい。
「栞、もっと――」
呼びかける甘い囁き。それは栞だけに向けられた祝詞であり、第三者が耳にした場合は祝いが呪いへ変換され呪詛返しの応用によって身体に異常をきたす。
重なり合う柔らかな唇が奏でる旋律は、離別をもたらす未来への反逆。その光景を常人が目にすれば眼球を燃やし尽くされ、至極の瞬間を最後の視野記憶として失明しかねない。
そこまでの力を持つ愛情と恋慕を育て上げながら、運命の音階を辿ることしかできない。世界はそれを人生と呼び畏怖の対象としている。
家系を尊び、企業を成長させ、社会に貢献する。目的と手段が混同されたとしても、もはや止めることなど不可能。
最適化と効率化こそが柱であり、すべてを発展させて突き進むことが血脈の命題なのである。
「ちなみに、許婚はどのようなお相手なのですか?」
だからこそ、栞がそのような疑問を持つのは当然のことである。
許婚の相手、及びその企業が優れていると理解すれば納得せざるを得ない。情報を制する者が世界を制するのである。
「有馬殿バイオシステムズのご子息よ。我が九条院総合研究所と将来的な業務提携を見据えてのことらしいわ」
「……あの、お姉さま。私の家の方が年商も高いし提携したらお役に立てる事業内容だと思うのですが」
弱肉強食、という言葉がある。
強者こそが正義となり世界の規範となることを表現した言葉であり、当然このような場合にも当てはまる。
「あら、栞の会社といえば確か――」
「有栖川テクノロジーです」
「そうだったわね。見たわよ、先月出した決算短信。数字は軒並み右肩上がりだし、今後の展望も挑戦的で投資家の方々も注目なさるでしょうね」
令嬢を蝶よ花よと愛でながら純粋培養する教育は過去の遺物となった。
競争社会と呼ばれる現代において、将来企業を背負い立つ淑女に求められるのは厳しい世間を渡り歩く精神力と経営手腕。
弱肉強食の非情な事実を目の当たりにしつつも、その荒波を乗り越える力を得ることがこの学園に通う少女たち全員に課せられた使命なのである。
「えへへ……実は私も会議と編集に参加して、ちょっとお手伝いさせてもらったんです」
「すごいじゃない。栞も立派に役員を勤め上げているのね、偉いわ」
当然ながら、学園での座学だけでは十分と言えない。現場の空気を知らない理論武装の兵士は、知識しか詰まっていないその頭を撃ち抜かれて屍の山になるしか価値がない。
学園のカリキュラムには実地訓練と呼ばれる必修科目があり、その時間を活用して彼女たちは親元の企業で経営理論をその身に叩き込まれるのである。
「あぅ、お姉さまに褒められるのは嬉しいけど照れます……」
「誇っていいのよ。私だって経営の一翼を担ってはいるけれど、そういった宣伝や広報に携わることはまだやらせてもらえないもの」
ちなみに彼女たちは、放課後や休日に安らぎの時間と称して優雅なお茶会を開いてしばしの休息をするようなことはない。
卒業後に即戦力となって企業を牽引する存在になることが宿命付けられている指導者の卵には、柔らかな羽毛に包まれて孵化を待つような生ぬるい養殖の道を転がることは許されないのだ。
傍から見れば苛烈な環境かもしれない。だが当事者である彼女たちは自らこの道を選んだのである。家と企業と社会を導く指導者になることを選んだからこそ、この道の上に立って走り続けているのだ。
「それはお姉さまの手腕が外交に向いているからです。適材適所、秀でた能力は効率よく使うべきですから」
「あらあら、褒め返されてしまったわね。さすがは栞、将来の有望株だわ」
そのような忙しい合間を縫って育まれた二人の愛情はもはや国宝と言っても遜色ない輝きを放っている。
輝きの中にあって、なお煌めく一筋の光明。
学園の聖域に、更なる絶対不可侵の聖域が生まれたのである。
「お姉さまこそ、大きな案件をいくつも抱えていらっしゃって……それなのに折れない心に私は憧れてしまうのです」
「私も栞のことを尊敬しているし、憧れているし、愛しているわ」
「光栄です、お姉さま……」
栞の潤んだ瞳は愛する楓華にだけ向けられたものであり、水晶体と網膜によって作り出された愛の信号が視神経を駆け巡る。
高温すぎて色さえも存在を保てない熱視線を受け止める器を持っているのは楓華だけであり、その資格を誇示した視覚で栞の存在を絡め取る。
「待ってて、栞。お父様は必ず説得してみせるわ」
「はいっ! 私も帰ったらすぐに家族会議を開きます!」
愛の力は偉大である。
いかに非情で残酷な荒波が巻き起ころうとも、天使が相思相愛である会心の事実の前ではすべてが無力。
あらゆる概念が己の無力さを思い知り、ただ涙を流して崩れ落ちるしかできないのだ。
今宵、開かれるであろう両家での話し合い。
そこで出される結論の答えは既に決まっている。これは神の意思でも見えざる手でもなく、愛ゆえに導き出される当然で不変の唯一解なのだ。
――――――――
翌日、愛の聖域に再度天使たちが舞い降りた。
裏庭が何人たりとも立ち入ることを許されない一角と化してしまったことで、他の百合的スポットである屋上や保健室に濃厚な楽園ができあがっているであろうことは想像に難くない。
既に明るい表情に満ちている彼女たちが告げる福音が世界の救済に等しい声であろうことは、全人類の共通認識として誰もが予測していることだろう。
「お父様も認めてくださったわ」
「やりましたね! 私の方も話をつけてきました。もちろんオッケーです!」
経営者に求められるのは柔軟な発想と対応力。いつまでも古来の考えに囚われていては新時代を生き抜くことなど不可能なのだ。
より良い結果が得られるのであればそちらを選択することは当然の行為であり、決定が覆ることなど珍しくもない。
「ようやく胸を張って交際できるわね」
「はい……これでやっと、お姉さまの隣に本当の意味で立てた気がします」
「栞と結婚できるなんて夢のようだわ……結婚指輪はどうしようかしら」
「任せてください! この前買収した会社が宝石店をやってるので、そこに特注で作らせます」
そもそも許婚は当人同士の意思によらない契約なので無効どころか成立すらしていない。
愛する二人が結ばれる。その単純極まりない事象こそが世界を救う鍵になるのである。
「あっ、結婚したら名字はどうしましょう。私としては有栖川という響きはとても素晴らしいと思うのだけれど」
「それなら九条院も優雅さに溢れているじゃないですか……それとお姉さま、今は婦婦別姓っていうのもあるんですよ」
「選択肢が増えちゃったじゃない。でも、なぜかしら。考えるのがとても楽しくなった気がするわ」
女性が二人なのだから、夫婦ではなく婦婦。何もおかしな点などない。制度だけでなく言葉も日々移り変わってゆくものなのである。
「そうそう、お父様ったら気が早いのよ。跡継ぎはどうするんだ、なんて言ってきたの」
「お姉さま……私はいつでもお姉さまとの赤ちゃん、産みたいと考えております」
「私もよ。栞との愛の結晶をこの身に宿したくて胸が熱く燃えているわ」
女性同士でも妊娠が可能ということは今や当然の知識として世間一般に知れ渡っていることであるが、このように両者どちらが妊娠するかの話し合いはしばしば難航する。
それは互いに愛し合っているからこそ起こる議論であり、根底にあるのは低俗な諍いではなく高尚な愛情である。
「……うふふっ」
「お姉さま?」
「ごめんなさい。私もお父様のことを言えないくらい気が早いなと思って」
「あの、お姉さま……本当は私、もうしばらくお姉さまと二人きりでいたいです」
「私も栞と二人で色々なことをして、色々なものを見て、色々な想いを分け合いたいわ」
時の流れさえも変えるほどに穏やかで尊い空気が周囲を満たす。
きっとこの二人は未来永劫幸せな日々を過ごしていく。それもまた愛が確定させた予定運命図なのである。
「それと、栞。私たちは将来を誓い合った仲なのだから、お姉さまではなく名前で呼んでほしいわ」
「えっ、それは、その」
徐々に詰められていく体と心の距離。
この世に存在する万物はその間に入り込むことを許されない。二人の触れ合いは何物にも邪魔されない直接的なものであるべきなのだから。
「栞、お願い」
「あ、あうぅ」
そう遠くない未来、栞と楓華が肌を重ね合う日が来るだろう。
しかし、その経験は当事者たる二人だけが認識して記憶するべき究極の宝石。
これ以上の観測は野暮の極み。次のステージへと押し上げられた聖域には、たとえ地の文であっても踏み入ることは許されないのである。
「――ふ、楓華、さま」
「さま、もいらないのよ?」
「こ、これから頑張ります!」