表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

どこにでも行けるドアがあるからといって、どこにでも行けるとはかぎらない

作者: 安路 海途

 俺のアパートの扉はどこにでも行けるようになっていて、念じたり声で場所を指示したりすれば、そこに行くことができる。

 きっと時空の歪みとかひずみとかが、何らかの偶然でこの扉の向こうに生じたのだろう。

 俺はさっそく扉の前に立ち、行きたい場所を思い浮かべてみた。

 まず何の脈絡もなく思いついたのは、南極だった。人類の手に(それほどは)汚されていない無垢なる大陸。楽園を求めたペンギンが、その羽を失ってまでたどり着いた逆説的世界。ふかふかの毛に覆われた赤ちゃんペンギンに、嘴を天にかざしてディスプレイにいそしむ親ペンギンたち。島のように馬鹿でかい氷山、風に吹かれたカーテンのように夜空を彩るオーロラ、青や緑といった微妙なグラデーションを見せる氷塊の数々。

 何といっても、そこは南極なのだ。

 ――だがしかし、と俺は思う。

 南極は寒い。気温が-80℃なんて訳のわからない数字を平気で叩きだすような場所だ。ブリザードに襲われれば呼吸だってろくにできないし、火山島にあるという温泉に入ったところで服を着替えるまもなく凍りついてしまうだろう。

 それに各種利権の問題で、きな臭い所でもある。

 俺は凍傷になったり、ペンギンにつつかれたり、国家間のしがらみに心を傷めたりしたくはなかった。

 南極はやめだ。

 とすると、他はどこがいいだろう?

 南極がだめなら、いっそアマゾンはどうか。赤道直下の熱帯雨林。樹冠帯をピグミーマーモセットやリスザルといった猿たちが飛びかい、エキゾチックな原色の鳥たちが愛を囁く。何百キロも川を逆流する神秘的なポロロッカ。いまだに新種の植物や動物の発見が絶えない人跡未踏の地でもある。

 だが待て、待てよ。

 アマゾンなんて年がら年中高温多湿で、空気が汗をかいているような場所だ。川の中にはピラニアなんて凶暴な(本当は臆病らしいが)魚がうようよいるし、未知のウイルスなんてのもいっぱいいるのだろう。それに森林の伐採やら、環境破壊やらで、問題の山積みになった場所でもある。

 ――ふうむ、これもまずい。

 こうなったらいっそ、月なんてのはどうだろう?

 あまたの宇宙飛行士たち(アストロノーツ)の憧れと約束の地。アポロ計画以降、人類にとっては再び彼方の地となった天体。三十八万キロという距離の隔たりに浮かぶ、地球の四分の一という大きさの岩の塊。人類にとっての大きな一歩が刻まれた土地。神話の時代から、嫦娥やアルテミスといった女たちの住まう場所。

 月なんて、夜空に向かって親指を当てれば隠れてしまうような、そんな程度のものでしかない。しかしそれは、地球を九周するよりも遠いところに確かに存在している。そうして夜になればひっそりと輝きはじめ、白い光で世界を照らす。

 そこは、ほとんどの人間が間近で見ることさえ叶わない場所だ。

 俺はあとちょっとで月に行こうとするところだった。

 だが実に、それには問題がある。

 当然だが、月には大気がない。人体に必須の酸素がない。おまけに大気がないのだから、有害な宇宙線にもばんばん被爆するし、太陽光の当たるところでは灼熱、ないところでは極寒という、かなり厄介な事態になる。気圧がゼロなため、体液は容易に沸騰してしまう。

 月は生物の適応環境を越えたところだ。

 おまけに問題はそれだけじゃない。例え俺が死んでも月に行きたいと思ったところで(実際、数秒後には確実に死ぬだろう)、そのあとが問題だった。開いた扉を、誰が閉めてくれるのか?

 うちのアパートの扉は、一般的なものと同じで外開きになっている。大気圧の関係からいうと、地球上の空気が開いた扉から月へと流れ込むことになるだろう。その時、扉を閉めることができない。ドラム缶がへこむ例の実験と同じ力で、空気は宇宙空間へと流れ込んでいく。

 下手をすると、地球の大気がなくなってしまいかねない。

 そんなわけで、俺は人類の永遠の夢である月旅行を諦めた。

 同じような理由で、深海に行くこともできない。クジラたちだけが行き来する神秘の世界。暗黒と水圧と未知が支配する、宇宙に行ったよりも少ない人間しか到達したことのない場所。奇妙な進化を遂げた、地球外生命体のような生物たちが跋扈する海の最奥。

 水圧のことを考えると、そもそも扉を開けることができるのかどうか――

 俺は悩んだ。

 こうやって考えてみると、行くべき場所を思いつけなかった。どこも都合が悪い。寒すぎたり暑すぎたり空気がなかったりする。そこには実際的な問題や、精神的な問題がある。

 こうなったらいっそ、女湯なんてのはどうだろう? あまたの益荒男どもの憧れと約束の地。しかし最近の銭湯に都合よく若いギャルがいるとも思えないし、マンガやアニメで表現されるような幻想性が保証されるかどうかも不明。第一、それはただの犯罪だ。

 とすると、近所のスーパーに買い物に行くのはどうだろう? 移動する手間が省ける。買い置きなんてせずに、いつでも好きなときに新鮮な食材が手に入る。

 だがスーパーにいきなり時空の歪みを出現させるというのは、かなりの迷惑行為だ。びっくりして、心臓発作を起こす人がいるかもしれない。そうなると近所での俺の評判はがた落ちし、あまつさえよからぬ噂を立てられないともかぎらない。銭湯に突如現れた謎の人物の正体が俺だ、なんて憶測を立てられては困る。

 俺は玄関の前で長々と考え続けたすえ、普通に扉を開けて煙草を買いに行くことにした。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[一言] 空間捻じ曲げてどっか行けるドアが用意できるんだから、宇宙服なり耐圧服なり用意せい!ってツッコミながら読みました。 面白かったです。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ