青と追憶
朝、8時5分前。いつものように校門をくぐって部室に直行した。
部室の前でふと立ち止まり、天を仰ぐ。そこには雲ひとつない紺碧の空が広がっている。
「いい天気」
呟いて、スカートのポケットからスマホを取り出し、写真を撮る。写り具合を確かめ、満足してひとり頷き、そして部室に足を踏み入れた。
手早く制服からスウェットとTシャツに着替えて、お気に入りのグレーのパーカーを羽織る。
タオル、水筒、日焼け止めクリーム、iPod等々の必要なものを移し替えた小さなトートバッグとCDデッキを手に、校門のすぐ横にある練習場所へと足を進めた。
8時5分。今巷で人気の覆面歌手の曲をiPodで聴きながら、ストレッチを始める。
夏休みの部活は9時からだが、私は部員のいないこの時間帯に1人で体を動かすのが好きで、毎日1時間前に登校しては、こうして1人の時間を楽しんでいる。
高校2年。来年は受験で夏休みなどあってないようなものだと聞く。ということは、今年は実質高校生活最後の夏休みといっても過言ではないのだろう。
高校受験の時と違って、来年1年間の勉強で合格できるほど大学受験は甘くないと、勿論知ってはいるけれど。
今年は部活に励んだり友達と遊んだりと、夏休みを満喫して楽しい思い出をたくさん作りたい、青春を謳歌したいと、そう思う。
「はーなー!」
自分を呼ぶ声が聞こえて、振り返って見下ろす。私のいる場所は、校門のそばのスロープを上がった、少し高いところにあるのだ。
吹奏楽部に所属する友人が、元気よく手を振っていた。校門の向こう側には、ラケットバッグを背負った男の子の後ろ姿。
「おはよう」
イヤホンを外しながら言うと、彼女はにっこり笑った。
「うん、おはよう。あのね、私もうギリギリだから、はな代わりにこの人テニスコートまで案内してくれない?」
言われて、思わず腕時計に視線を落とす。現在時刻、8時15分。確か吹奏楽部の集合は8時半だったはず。楽器の準備やらの時間を考えると本当にギリギリ、もしかすると遅れるかもしれない。ましてやテニスコートへの案内など。している時間などあるはずもない。
相変わらず登校の遅い友人に呆れながら、手をひらひらと振る。
「わかった。いってらっしゃい」
ありがとーはな愛してるー。そう叫びながら駆けていく彼女に苦笑を零しつつ、私はスロープを下った。
途中で彼女を追ってきて学校の敷地内に入っていたその男の子は、呆気にとられたのか立ち尽くしていた。その彼に、こっちです、と後ろから声をかける。
そして振り向いた彼に、私はしばし呆気にとられた。
「え……小野崎?」
彼、小野崎佑太は中学1年と2年の時のクラスメートで、当時は野球部に所属していたと記憶している。
「浅野?」
小野崎は、心底驚いたような顔をしていた。きっと私も同じような表情を浮かべていることだろう。
まさかまさか小野崎に、しかも私の高校で会うなんて思ってもいなかったものだから。
「久しぶり……とりあえず、テニスコートはこっち」
言いながら、先導するように校門を出る。この高校のテニスコートは、学校から少し離れたところにあるのだ。
隣に小野崎が並んだのを確認して、ついでにその背中で存在を主張するラケットバッグへと目を向ける。
「テニスしてるんだね」
「うん、やってみたかったから。浅野は高校ではテニス部入らなかったんだな」
「うん。高校では新しいことやってみようと思って。それで、ダンスにした」
「そっか。っていうか、なんで『はな』?全然わからなかったんだけど」
「ああ、それね」
頷いて、少し笑う。
浅野実花。それが私の名前だ。高校に入るまで私はみかと呼ばれていたし、当然のように高校でもそう呼ばれると思っていた。しかし、1年のクラスメートに美香という名の子がいて、更に部活も一緒となった。そこで呼び分けるため、それぞれ後ろの漢字一文字をとって、私を『花』、彼女を『香』と呼ぶようになったのだ。
「なるほど、だからか」
小野崎はそう言って、ちょっと笑った。その変わらない笑い方に私は一瞬どきりとして、それを悟られないように急いで言葉を紡ぐ。
「この時期だったら、総体?」
「うん、そう」
「エントリー何時?」
「8時45分」
「あ、じゃあ余裕だね。試合頑張れ、応援する」
「いいのか?俺の1回戦の相手、浅野と同じ学校の人で、しかも同学年だったはずだけど」
「……小野崎ってさ、たまに天然だよね」
「え、なにが?」
もちろん社交辞令で言ったつもりはないけど、そういうことは考えないんだろうか。それに、応援といっても実際に試合を見て声援を送る訳じゃないんだから、相手のこととか私の立場とかは気にしなくていいのに。
そう思って、小さく笑った。
「いや、なんでもない。で、その相手は誰なの?」
自信なさげに小野崎は視線を彷徨わせた。
「誰だっけ。田村?田辺?なんかそんな感じの人」
「あー。あのさ、うちのテニス部田村も田辺もどっちもいる。まあ、どっちだったって頑張りなよ」
「そうなんだ。うんありがと、頑張る」
「うん」
つかの間訪れた静寂に、ああこの感じ、と懐かしく思う。お互い図書委員としてそれなりに同じ時間を過ごしてきた。私にとって小野崎は、沈黙が苦にならない、一緒にいて楽な人だった。
そんなこんなでだらだら喋りながら、テニスコートまですぐのところまで来た。試合前の人に言うのは控えた方がいいだろうか、と少し迷って、でもやっぱり言うことに決めて。
「今だから言うけど」
「うん?」
さらりと、普段となんら変わりない感じで言おうと思ったのに、僅かに声音が変わった。それを感じたのかどうか、小野崎が私に顔を向けたのがわかったけれど、前を向いたまま続ける。
「中学のとき、私小野崎が好きだったんだよね」
ふわり、季節に似合わぬ柔らかな風が、二人の間を吹き抜けていった。
「……」
「……無反応は想定外だった」
「……」
「おーい、小野崎?」
あまりにも反応がなさすぎて見上げたその顔は、どこかぼんやりとしていて。顔の前で手を振ってみると、彼ははっとしたように私をその瞳に映して、ついで小さく苦笑した。
――なにその顔。
自分の中で終わったこととはいえ、告白の後に苦笑されるなんて思いもよらなかったから。なんとも形容しがたい感情が湧き上がってきて、私はすっと顔をそむけた。
そんな私の様子に気づいているのかいないのか、小野崎はのんびりと口を開いてひとりごつ。
「そういうことなら……」
なんとも歯切れの悪い。
言いたいことがあるなら言えばいいのに。なんて、八つ当たりじみたことを思う。
「なに」
発した声が少しの冷たさを含んでいるのに気づいて内心しまったと焦ったけれど、別に今更気を使う相手でもないかと思い直して。いつの間にか、どちらともなく止めていた足を、再び前に進める。
「なーに?」
もう一度、今度は促すように言うと、小野崎はうん、と頷いた。
「いや、それならそのときに告っとけば良かったなって思って」
「……は?」
「えっとだから、俺も中学時代浅野が好きだったって話」
「……」
今度は、私が黙る番だった。
「ほら。急に言われたら黙るしかないだろ?」
「……まあ、そうだね」
得意げに笑う小野崎に、なぜ君がそんなに得意げなのかとツッコミたい気持ちを抑えて、小さく同意する。
そっか、と。口からこぼれ出たその言葉は、どこかすっきりとした響きを伴っているように感じた。
「今は?彼女さんいないの?」
「いない。浅野は?」
「私もいないよー」
「浅野はすぐ彼氏できそうなのにな」
「そんなことないよ。っていうか、それこっちの台詞」
二人で顔を見合わせて笑う。穏やかな時間にほっこりする気持ちを抱えながら、私は前方右を指差す。
「ほら、そこ。その階段降りてすぐのところだよ」
「ああ、うん。さんきゅー浅野、助かった」
「いえいえ。うちのテニスコートわかりにくいから」
派手な音を立てて車が側を通りすぎる。葉の擦れる音。登校中の女子高生の話す声。口をつぐんだ私たちの声の代わりに、そういう音が耳に飛び込んでくる。
「じゃあ、私戻るね。試合頑張って」
「うんありがとう。わざわざ案内までしてくれて。浅野は時間大丈夫?」
「大丈夫だよ。じゃなきゃこんなとこまで来てないって」
悪戯っぽく私が笑うと、それもそうかと小野崎が苦笑に似た笑みをもらす。
「なら良かった。……本当にありがとう。じゃあ、またな」
うん、と頷いて、私は踵を返す。角まで行って曲がるときになんとなく後ろを振り返ると、目が合った小野崎が軽く手を振ってきた。
……律儀なやつ。さっさと受付に行けばいいのに。
それでも、だからこそ小野崎らしい。そんなことを思って、ふと笑みが浮かぶ。苦笑交じりのそれのまま私も手を振り返し、そして角を曲がった。
またな、なんて小野崎は言っていたけれど、彼と顔を合わせることなどこの先あるのだろうか。
なんて、あれも一種の挨拶なのに、さっきの小野崎みたいに真面目に考えすぎだと一人で小さく笑う。
汗を拭って、天を仰ぐ。
空の青さに目を細めた。
ありがとう、と誰にともなく呟いて、私は高校への道を進んだ。
小野崎とはまた近いうちに会う気がする。
そんな予感を抱えながら。