少女になるため学院へ
――お前もう死んだほうがいいよ。
心の宇宙の遥か五十億光年彼方から届いた声を聞いて、少女は目覚めた。
(――まただ)
眉をひそめながら簡素な宿の簡素なベッドで上体を起こす。ボブカットの黒髪のボサボサ頭を掻きながらふわああと欠伸。色白い肌に華奢な体躯をしているがその仕草に乙女としての自覚は欠片もなし。
寝ぼけ眼の半眼の赤い眼には不機嫌さが窺い知れる。
この声が聞こえたときの寝起きは生理を迎えた朝並に決まって憂鬱だ――心の鬱憤を頬をたたいて発散し気分転換。
「よし」
憂鬱なムードなど吹き飛ばすように勢いよく布団を除けてベッドから飛び降りる。
その勢いのまま右手を天井に向け、左手を右肩に回して元気よく伸び。
「んっ――!」
外からチュンチュンと小鳥のさえずりが聞こえる。早朝のため道行く人の数は少ないが、それでもそれなりの人の往来が宿の二階の窓から見下ろせた。流石この国の首都――少女の所感。
悪くない朝だ――さっきの声のことなんかさっさと忘れて、部屋に常備されている小型の鏡で撥ねまくった髪の毛を適当に整える。
一部撥ねたままの髪の毛――何度整えようとしてもバネのように反発。
(まあいいや)
抵抗激しい髪の毛は面倒だから無視してテーブルの上に無造作に置かれたいくつかの物品のうち一つを手にする。ラベルには『スプレー式口内クリーナー・ミント味』――商品名、『ワンプッシュだけで気になる口臭はおろか、歯も真っ白にする優れもの!』――謳い文句。“実際結構効果がある”という少女の信頼の元開けた口の中にワンプッシュ。広がるミントの香りにやけに満足する。口を『い』の形にして確認――真っ白い歯を視認して物事が順調に進んでいるといった感じでうんうんうなずく――元から少女の歯が白い可能性を考えない。
他に足りない物は何か――特に思いつかない。
じゃあ行くか、といったところで自分が今は下着姿なのだという事を思い出す。
「危ない危ない……」
しかし大したことないといった感じ――今までパンツとブラだけの破廉恥な恰好で部屋を歩き回っていたことに抵抗なしという乙女にあるまじき振る舞いを咎める人間はここにはいないことに寧ろ心地よささえ感じていた。
誰にも監視されないことの素晴らしさと幸せを噛み締めながら新調されたワイシャツに袖を通す。その上に真新しいチェック柄のスカートを腰に穿き、これまた新品のソックスを足に通す。ネクタイを締めて学園のエンブレムを胸の辺りに付けて――完成。
まるで学生といった出で立ち――実際に彼女はこれから学校へと向かう。
ふーん、そこそこ動きやすそうじゃんといった感じでしげしげと自分の恰好を確認、吟味する。
「ま、学生ライフというのでも満喫しますかね」
どこか皮肉っぽく、乾いた感じの口調だが、どことなくこれからの生活に期待している言葉。
きっと少女が無意識に望んでいたもの。
そんな事は当の本人が知るはずもなく――単に“平和な生活が訪れる”程度の認識――テーブルに乱立する品々を適当にリュックの中にぶっこんで部屋を出る。
背にはリュック、肩には学生鞄、手にはスーツケースとういかにも修学旅行の風情。
――行ったことないけどな。
荷物を鉄篭で出来た簡易エレベーターに乗っけて下のロビースタッフの元へ送る。その間に二階の受付でチェックアウト。順序よく物事が進んでいく――まるでこれからの旅路も順調といわんばかり。
階段を下りてロビーについた後、荷物を受け取り宿を出た。
石造りの道と向かいの洋服店が少女を出迎えた。他の客の出入りの邪魔にならないよう宿屋の扉の前から少し移動して壁にもたれる。左右をキョロキョロ確認――来るべき人を待っていた。
「ベル―――!」
どこからかまるで子を探す母の様な大声で誰かさんの名前を呼ぶ声――こんな朝っぱらから大声出してんじゃねえと眉間に皺を寄せる。
「ベル―――!」
相変わらずのでかいが少々迫真じみてきた声――そのスピーカーみたいにでっかい音を出す口を縫い合わせてやろうかと思い声の主を探そうとしてふと引っかかるものを感じた。ベルという名前にどこか聞き覚えがあったのだ。しかしはて、誰だったか。
首をかしげて思案する。
(ベル、ベル、ベル――)
一向に何も思いつかないが確かに引っかかる何かがあった。そうして何だろうと頭をひねる。何だっけ――確か――ベルトチカ――あっ。しまったといった顔で何かを思い出した瞬間、少女の耳元で一際大きいどころじゃない女性の声が炸裂。
「ベルトチカ・ウィント・ヘクタールッッッ!!」――最早天変地異の大吶喊。
「ぐえっ」
おおよそ女の子が出していい声じゃない呻き声を上げて聞こえた叫びとは反対方向に仰け反る。
頭がジンジン響く中、少女――ベルは声の主である女性に申し訳なさそうに目を合わせた。
そこには豊かな金髪を後ろに束ねた碧眼の女が厳しい顔でベルを睨んでいた。
「は、はい……自分はここにいます、フィオーネさん」
「さっきまではどこにいたというのだ」
口調からにじみ出る軍人気質――しかし姿はそこらで買い物してそうなお母さんといった感じ――見事な変装だが隠し切れない雰囲気のせいでギャップがすごい事に。
「さ、さっきまでは宿の中に――」
「ほう、では私が貴様の名前を呼んでいる時に今貴様が立っている場所で不機嫌そうに壁にもたれかかっていた貴様にそっくりな少女は貴様ではないと」
いいえ違います、と大真面目には言えず――誤魔化すように笑う。
「まったく……」
軍人女フィオーネは腕を組んでため息を吐く。だがそれは呆れた軍人のそれではなく友人を憂う者としてのため息だった。
「いい加減、自分の名前を覚えたらどうだ」
「いやあ、ハハ……慣れなくて……」
「貴様はこれからこの名前で呼ばれ続けるのだぞ、慣れなくてどうする」
ベルトチカ――最近自分につけられた『名前』。
「Eだとか60だとかの方がしっくりくるもんですから……」
「お前は人だ、これからは人の名を名乗っていくんだ――そんなモノの名前など忘れてしまった方がいい。奴隷じゃあるまいし。その奴隷も過去の産物みたいなものだ。人だという自覚を持て」そう言ってフィオーネは優しくベルの肩を叩いた。
厳格な性格だが、根はこうして優しい。だからベルは彼女のことを信用していた――監視員の中でも特に。
「さあ、ここで立ったままでいるわけにもいくまい。市街バスに乗りに行くぞ」
呼び止めたのはお前だろ――心の声を漏らすことなくベルは返事をする。
「了解」
婦人の後にてくてくとついていく齢14、5歳ぐらいの少女。
まるで母か若しくは親戚の叔母さんに就いていく娘のよう。
しかし彼女らの関係はそんなほのぼのとした優しさに包まれたものではなかった。
もっと殺伐としたもの――怪物と国。
♰♰♰♰♰♰
「なあ、フィオーネ……おばさん」
一瞬こちらを睨みつけた目が柔和なものに変わる。
「うん、どうしたのベルちゃん」
ベルちゃん――ある種の気持ち悪さを感じて噴き出しそうになる。
盛大に笑いたい感情に必死に蓋をして相手の演技に合わせる。
「私がこれから行く――」ちらりとバス内の停留所一覧に目を通す「ベテンダース王立魔術総合学院は学院通りで降りればいいんだよな……だよね」
いきなりフィオーネから圧を感じて必死に演技――あほらしくなってくる。
ベルトチカの役――優しい優しいフィオーネおばさんに連れられた親戚のお行儀の良い少女。
ふざけんじゃねえくそったれ私がこんなキラキラしたキャラクターを演じられるわけないだろうが恥ずかしくて死ぬぞ――口が裂けても本音は言えず。
内心きっといや絶対笑い転げているだろうフィオーネは完璧な演技で表情筋を動員してほくそ笑んで娘の心配をする叔母さんを演じる。
「ええ、そうよ――貴女は学院通りでこのバスを降りて、そのまま道なりに進めば魔術学院に着くのよ」
「私、本当にベテンダース王立魔術総合学院に通えるんだよね……?」
ベルの演技――だが同時に純粋な疑問も兼ねていた。
ベテンダース王立魔術総合学院、通称魔総院といえばかつてのベテンダース王国――現ベテンダース連邦共和国――から続く由緒正しい魔術学校の超名門だ。
つまるところ超難関校である。
ベル自身未だに信じ切れていなかった。しかし手渡された学生証明書は間違いなく魔総院のそれでありその証に六芒星を模した花のマークがプリントアウトされていた。
今でも何かの夢ではないのかと思うが、先程のフィオーネの大声で揺れた脳が間違いなく現実だと認識した。
「ええ、ええ、もちろんですとも!」
大げさに演技するフィオーネ。だが、少しばかり本音も入っていた。
その様子がベルにこれは夢ではないと更に確信させる。
「貴女はわがヘクタール家の誇りよ!ベルちゃん!」
抱き着かれて赤面する。もういいからという風に何とかして親戚の娘思いのおばさんを押し退けようとした。
だがその顔には微笑みが浮いていた――些か現実味に欠けるが、これでよいと自分に言い聞かせた。
きっと、幸せに、平和に生きられる。
♰♰♰♰♰♰
暫くしてバス内に間もなく学院通りに到着するアナウンスが流れ、フィオーネおばさんに促されるように席を立った。
静かに開いたバスの扉をその他大勢と共にくぐる――同時に生徒手帳に刻まれたベルの残高が差し引かれたのを確認。
二人の後ろを車輪もないバスが音もなく浮動を開始――移動合図である特徴的な汽笛を鳴らす。
魔力線に沿ってバスは次の停留所へと走っていった。
「身分を証明できるのってこんなにも便利なんだ」
自分の生徒手帳にある無愛想な顔の自分の写真に視線を落としてベルは呟いた。
「そうだ」いつもの軍人口調に戻るフィオーネ「自分が何者であるかはっきりしていると、安心するだろう?」
「でもこれは、偽りの身分」
「それが貴様の名前になるのだ。ベルトチカ――真なる名前、お前だという意味だ」
訴えるように言う。だがベルは写真の中の不機嫌な自分を見つめ続けていた。
「……まあ、これから我が物にしていけばいい。時間はたっぷりある。潤沢な時間は平和の証だ。平和なら、時間をかけてでもなんだってできる」
子供を慰めるような言い方だった。
まるで拗ねた娘をあやす叔母さんのよう。演技でも何でもない、二人の信用というものがそこにはあった。
「そうだな」不敵な笑みを浮かべて顔を上げる「ゆっくりと、慣れていくさ」
そして元気よく歩き出す。
フィオーネもその後についていく。
「ねえ、フィオーネおばさん――」
突然後ろを振り向く――燦爛とした少女の笑顔。
「私、嬉しいの」
演技――そうしてまでも隠したい気恥ずかしい何か。
その何かを感じ取ったフィオーネは、優しく笑って言った。
「そうかい、それは――とても良いことだ」
学院通りのT字路をまっすぐに進みながら互いに微笑みあう――例え二人の関係が国と化け物のそれだとしても、偽りに満ちた演技の関係だとしても、この繋がりだけは本物だといえる何かがあった。
――そうだ、私はきっと幸せになれる。
信じるという事――少女はそれがたまらなく大好きだった。