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身代わりスージー

作者: 長崎秋緒

 遮光一級のカーテンはうわさ通りで、室内に暗幕をかけたようだった。ぼくは彼女が遮光性の高いカーテンを買うことには反対だった。彼女から、外へ出る機会を益々奪うような気がしたからだ。

 昼間眩しくて眠れないの、と訴える彼女の、か細い声に押し切られるかたちで、部屋中のカーテンを、99.99%以上も光を遮るという、素晴らしいそのカーテンを部屋中に取りつける作業を、先週末ぼくは一人でやってのけた。

 色や柄の指定は彼女がして、それを探しにぼくは街中を車で走り回った。給料日前ではあったが、彼女の気分が良くなるというのならそうした方がいい、という彼女の担当医の言葉に従い、ぼくは彼女の望みを叶える為に、一日中、店とマンションとを往復し、キッチン、リビング、ベッドルーム、その他合わせて十窓分のドレープとレースを買い揃えた。

 丈をフックで段階ごとに調節できるタイプのものを選んだので、店員に言われたように床から一〜二cmの隙間をあけることができた。そうすることが“基本”なのだそうだ。

 ベッドルームから一向に出てこない彼女を後目に、ぼくはひたすらにカーテンを取り換えていた。二人でならば、きっと楽しい作業だったに違いない。カーテンだけでなく、いろんな家具を見てまわる。そんな些細な幸せさえ、ぼくには高望みに思われる。


 リビングの照明を半分点け、ネクタイを解き、冷蔵庫を覗く。昨日、一昨日と変わらずほとんど空っぽの状態だ。彼女は一体何を食べ生きているのだろう。プリンにも、ヨーグルトにも手をつけず、水と薬だけで過ごしているのだろうか、と心配になる。また吐き出したのでは、とゴミ箱を漁る。ほっとする。嘔吐はやってないらしい。彼女が嘔吐するとき、トイレではなくキッチンの生ゴミ用の袋の中に吐いていた。

 それはぼくに、自分の生存を教えてくれているようで、彼女なりの“前向きさ”だとぼくは信じていた。

 一息つこうと、ポットの残量がないことを確認し、やかんを火にかける。ワイシャツを脱ぎ洗面所へ向かい、洗面台の鏡の前で、襟の部分にしみができている部分を見つけ、軽く爪で擦る。

 あと一日やり過ごせば、二連休が待っている。洗濯機の中はぼくのシャツとズボンだけで、彼女のシャツやブラもいくつか放り込まれてはいたが、ショーツや靴下をいれるためのランドリーバスケットには彼女のショーツは一枚しかない。彼女のショーツを洗濯したのが五日前、それから今日までの四日間彼女は風呂にも入らず、ベッドで眠り続けていたのだろう。

 この結婚はうまくいっているはずだ――

 明日会社に着ていくワイシャツがなかったので、二日連続でも、と考えたが、女子社員のことを思い出し、洗濯機の中から、色違いのを掴み、浴槽の追い炊きをするついでに、手洗いでワイシャツの、襟と手首に触れる、しみのできやすいところを重点的に擦る。女子社員の目は鋭いから、こんなことで変なうわさでも立てられては困る。

 追い炊きしている浴槽の水も、何日も入れ換えていない。明日の洗濯にでも使ってしまおう。

やかんが騒がしくなってきた。沸点に達する前に火を止める。彼女が起きやしないかと不安になる。

 彼女に必要なのは安息だと担当医に念をおされていた。騒がしくしないようにと、ポットにお湯を注ぎ、また手洗いに戻る。洗い終わりに固く絞った後、洗面台の前でドライヤーにかける。脱水にかけてもよかったのだが、あいにく家の洗濯機はバカにうるさい。こんな夜遅くでは近所迷惑になるし、なにより彼女を起こしてはいけないという思いから、そんなめんどうくさい作業をしていた。夏のボーナスで静音性の高いものに買い換えるつもりでいたから、それまでの辛抱だ、と自分に言い聞かせていた。

 ドライヤーのパワーを半分に抑えていたのでなかなか乾いてはくれない。仕事疲れの脱力感から、生乾きでも、明日の朝までには大丈夫だろう、と途中で手を止め、ワイシャツをハンガーにかけその場に干す。身に付けていたものを全て脱ぎ、洗濯機へまとめて放り込み浴槽の湯加減を確かめる。まだ好みの熱さではなかったが、かまわないと足をつけ、ぬるま湯に浸かり、湯舟に深く沈んでいく。

 彼女との結婚を反対した全ての人達に、間違いではなかったと証明してやりたい。こんなことは、結婚前から分かっていたことだ。つらくない。ぼくらはうまくいっている――

 ぬるい浴槽はぼくを包み込むよう眠りに誘う。自分の体を両腕で抱きしめる。彼女と比べ肉付きの良い体だと、きつく力を込める。

 最後に抱いた彼女の体は、あばらが浮き出ていて、女性らしい丸みは感じられず、小柄な少年でも抱いているような感覚しかなかった。彼女の拒食はあの頃よりも進んでいたから、いま抱いても性欲は湧かないはずだ。それでも彼女を愛していけるはずだ。

 彼女の病状に障るからと、ぼくはセックスに対し受け身になっていた。そのタイミングもつかめない。こんな状態では子作りもままならない。なにかきっかけがほしかった。

 浴槽から上がり、髪を乾かしていると、彼女がいつか何気に呟いた言葉を思い出した。

「猫が飼いたいな……」

 猫を飼うことにはぼくは賛成だ。ぼくも動物は好きだから、犬でも猫でも彼女の望むものを飼えばいい。それで、少しでも彼女とのつながりが見出せるのなら。

 猫を飼うならスコティッシュフォールドが良い。彼の、のんびりとした、楽観的なその性格は、彼女だけでなく、ぼくにも安らぎを与えてくれそうだ。折れ耳のなんと愛くるしいことか。垂れ気味のまんまるとした目の、ぼってりとした体つきのを探そう。そのほうが抱き心地が良さそうだ。えさは朝夕ぼくがあげて、排泄物の処理もしてあげよう。猫用の爪切りも必要だ。爪とぎも用意しよう。彼女の皮膚に傷をつけさせてはいけない。人懐っこい彼のための遊び道具も買わなければ。自分のことで手一杯の彼女には、温厚な彼の世話でも難しいだろうから、ぼくががんばらなければ。幸せなんだから。ぼくは好きでやっているのだから。

 毛玉症を防ぐため、こまめにブラッシングをしてあげなければいけない。無用心な性格の彼だから、うっかり窓を開け放しておいたら、足を滑らせベランダから落っこちてしまうかもしれない。危なかしくってひとりにしてはおけない。

 ぼくが彼のしつけ、食事の支度や、排泄物の隠された砂の処理をする間、彼はぼくの代わりに彼女に抱かれていれば良い。厚みのある肉の感触に彼女が微笑み、ぼくのブラッシングにより、シルクにまで高められた短毛の滑らかな手触りに性的な恍惚でも覚え、彼女が艶やかさを取り戻してくれればそれでいい。肉体の触れ合いは彼に任そう。それ以外のことをぼくが行えばいいのだ。

 ベッドの内で優しく彼女に抱かれる彼を想像すると妬みが起こる。彼女を抱いていいのはぼくだけの特権だったはずだ。彼女はぼくに肌恋しさを感じてはいないのだろうか。ぼくと肉体の触れ合いをしたいとは思わないのだろうか。性欲を失ってしまったのだろうか。

 ぼくは彼女を抱きしめたい。肉のない、骨と薄皮だけの体でもいいから、あばらが折れてしまうくらいに抱きしめ、強い彼女への愛を示したかった。毛並みの良さを確かめるようぼくの髪に触れてほしい。喉を鳴らし喜びを表すような彼女の声を聴くために、ぼくは彼女の首すじに舌を這わせたい。そこから這い上がっていって唇を舐め、喉元深くキスをしたい。

 そんなじゃれあいの最中に洩れる喘ぎ声でもいいから、彼女の声を聴きたいと思った。労いなんか必要ない。これが夫婦なのだから。支え合って生きているはずだから、特別な言葉なんて彼女からかけてもらう理由なんてない。

 それでも、励ましの言葉がほしかった。たった一言でもいいから、彼女の励ましがあれば、明日一日分の活力が湧いてくるはずだ。きっと明日一日を乗り越えられるはずだから。今が限界だなんて弱音を吐かずに済むから。彼女の声が聴きたい。

 この結婚は間違いではなかったし、失敗してもいない。ぼくは幸せなんだから。ぼくは良くやっている、と彼女に言ってもらいたかった。猫なんかには渡さない。彼女を愛せるのはぼくひとりだ。猫を飼うのはやっぱりよそう。

 風呂上りにコーヒーを飲む。一杯分のカフェインではこの眠気は治まらない。

カーテンを半間ほど開いて、隣のマンションの明かりの点いている部屋がいくつあるかを数え、その数の分だけ幸せがあるのだろうか、と考えてみる。

 ぼくだけが苦しんでいるのではない。彼女は怠けているのではない。彼女は戦っているのだ。ぼくは彼女の支えになっている、理解のある良い夫なんだ。うまくいっている。彼女をきっと幸せにできているはずだ。猫なんかには与えられないくらいの大きな幸せを、ぼくは彼女に与えているはずだ。誰にも間違いだなんて言わせない。

 コーヒーの匂いで彼女を覚醒させてはいけないと思い、念入りにうがいをし、寝室のドアを静かに開き、慎重に彼女の寝顔が覗ける位置まで近づいていく。

 細く寝息をたてている穏やかな寝顔はぼくの心の支えだと確信できる。言葉なんていらない。その寝顔だけで充分だ。それだけでやっていけるはすだ。

 掛け布団からはみだした、筋の浮かび上がった、彼女の細い腕をそっと掴み、君はもっと肉をつけてもいいんじゃないか、とぼくは彼女に語りかける。 

 名は体を表すというのなら、ぼくは密かに彼女の“あだな”をつけることにしよう。おやすみなさい、スージー。

 いつの日か、彼のようなしなやかな動きでぼくの体をまさぐり、ふっくらとした肉付きの良い抱き心地を、彼女がぼくに与えてくれますように、と願いを込めて。


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― 新着の感想 ―
[一言]  ども、近藤です。  またプロ級だ。どうなってるんだこの国は。近藤の書くものがなくなるじゃないか。  あ。評価有難うございました。おかげで緊張感みなぎる文章に出会うことが出来ました。ええとほ…
2008/05/14 22:22 退会済み
管理
[一言] 見た目、文字がぎっしり詰まっていて、ちょっと読みたい人にとっては、それだけでパスしてしまいそうな感じです。 ある程度、文章が終わったところ(例えば、“。”で終わったところ)で改行した方が、読…
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