二話
「そういえばサトル、オセチって国の名前じゃなかったよ」
「本当? でもオセチ料理とか聞かない? 中華料理とかインド料理とかみたいに」
サトルは自分が興味をもったもののこと以外はまるで知らない。生活のことは特に。料理も洗濯も掃除もぼくより知らない。でもそれはサトルに限ったことじゃないのかもしれない。このエリアの人たちはそういった家事ができなくても支障が無い暮らしをしているからなのかも。
それにぼくだってもといたエリアのことすら充分に知らないのだから、サトルのこと言えた立場じゃないけどね。
ぼくが見ている空はただの天井で、地上は床で、世界だと思っていたのは人の手で作られた乗り物で……。それを初めて彼女に言われたときは何のことだかさっぱりわからなかった。
ぼくたちはドーム形の乗り物――空中都市に乗って地球という星の空に住んでいるんだってさ。
まるで名前どおりのバビロンの空中庭園みたいだ。
「オセチは、お正月? に食べるおめでたい料理をつめ合わせたものだってさ」
「ああ、そっか。セチ――節ね。嫌だ、今頃ピンときたわ。恥ずかしい」
「サトル顔あかーい」
「うるさいわね、いちいち言わないでよ。赤くなっちゃ悪い? 霄は黙って昆布でも食べてなさい」
言ってサトルはぼくの皿に次々に昆布をのせていく。
「あー、またサトル好き嫌いー」
「それがどうかなさって、霄さん? 食事は楽しむものですよ」
「お上品ぶってもダメー」
「あら、お上品ぶっているだなんてとんでもない。わたくしは真に品行方正な人間ですのよ?」
「もー! わかったよ、ぼくが食べるよ。サトルに昆布はあきらめマス!」
「あらそう、ご免あそばせ」
彼女がまた笑った。その時。
ぼくの顔の前でパァンと手が叩かれた気がして、はっとした。
星空の見える大きな窓、明るく照らされた室内、シミひとつない真っ白な壁、主張しすぎない家具、椅子に腰掛けている自分、清潔な皿にのった手作りの料理、ぼくの向かいに座っているサトル――。
昨日も一昨日も、そのまた前も同じ光景だったはずなのに、突然それらが真新しく、鮮明に見えて、ぼくに話しかけてきたみたいだった。
胸のあたりが、きゅうってなる。
……何だろう、この気持ち。どうしたんだろう、ぼく。
悲しいのかな。嬉しいのかな。それとも、切ないのかな。
「霄? どうしたの?」
サトルが心配そうに顔をのぞきこむ。
「ううん、何でもない。だいじょうぶ。あくびを我慢したら、涙だけ出ちゃったんだ」
――この気持ちは。
――幸せ……?
* *
サトルはぼくだった。
だって、自分のことしか考えないぼくが、サトルのことばかり。
そうしてサトルを通して自分のことを考えている。
彼女無しではぼくは成り立たない。彼女がぼくの一部になったのか、ぼくが彼女の一部になったのか。ぼくの存在は彼女と融化していた。
だから、サトルが何を思っているのか、感じているのか伝わってくる。わかるよ。
――あまり、外に出ないで……。外は、誰も、あなたのことなんて想ってなんかいないのだから。
不機嫌に言い放った彼女の言葉。
他人がぼくの事を想ってくれなくても、そんなのぼくにはどうでもよかった。でも彼女にとっては不満だった。
何でなのか、その理由を彼女はきっと自分に問うこともしないで、気付かずにいたんだろうな。
――許されてるの。人体実験が。
――対象はね、囚人や無権籍者。
そう言って彼女は横目でちらりとぼくを見た。
サトルは暗にぼくに倫理を訊いてきたんだ。何か言って欲しかったんだよね。非人道的だよ、とか。将来そのおかげで大勢の人が助かるんだから大義にもとる行いだよ、とか。
でも、答えてあげない。つまらないもの。
「サトルが、ぼくを想ってくれるだけで、ぼくはいいよ」
そう、ぼくは本当にそれだけで充分なんだよ。ぼくの存在が彼女の仕事の邪魔になっていることも、不安がらせていることもわかってる。だけど、ぼくのことを心配してくれるのがすごく嬉しかった。
でも、ひどいなァ、サトル。他の人を見てぼくを思い起こしたりしないで。一緒にしないでよ。
ぼくは、ぼく。ぼくは、霄。
ぼくが無権籍者だからって、別に他の無権籍者に仲間意識を持ってるわけじゃないよ。
そりゃあ昔はちょっとだけあったけど、その時だけ。
……だから、思い起こさないで、お願いだから。辛い顔なんてさせたくない。
サトルはぼく。
ぼくはサトル。
ほら、キミがぼくに触れた手からわかるでしょ?
ぼくが「いる」って。
* *
その日は久々に散歩に出た。夕方の四時半。まだ空は明るい。
サトルも最近落ち着いてきて、また少し元気になってきたみたいだから、そろそろ外に出ても大丈夫かなって。
どうしても散歩をしなくちゃいけない訳はないけど、外の世界のことを知りたかったし、実感することもできたから。自由なんだと。
いつもは目的地を決めずに気の向くままぶらぶらと歩くだけ。ポケットに検索辞書を入れていくから、帰りも迷わずに家に帰れる。
行ってみようかな――。逃げ出したあの日以来初めてそう思って、目的地を決めた。サトルの口から出た「無権籍者」が印象に残って思い起こす、自分が無権籍者であったときのことを。今も権利や戸籍は無いけれど、サトルのおかげでぼくは無権籍者でなくなる。サトルと対等の人間でいられた。
エリア8からサトルの家があるエリア10は意外と近かった。徒歩で一時間と少し。
空中都市は円形で、真ん中にエリア1があり、その周りにエリア2、3、4。エリア2の外側にエリア5、6。エリア3の外側にエリア10、11、12。エリア4の外側にエリア9があり、そしてエリア10と11の外側にエリア7、エリア12の外側にエリア8がある。
もとはエリア9までしかなかったが、治安の悪さから区域縮小が行われ、エリア10、11、12がエリア3とエリア7、8の間に入れられたらしい。
行って外から見てみるだけ――それだけでも緊張で顔が強張り、足取りも重かった。けれども、ぼくは立ち止まることも引き返すこともしなかったから、十字路に辿り着いた。エリア11、7、12、8の境だ。
エリア11からエリア12側に渡って、立ち止まった。道一本挟んだ向こう側がもうエリア8だ。
外から眺め見るエリア8は閑散としていて、建物のひび割れた壁や窓、道端に捨てられたぼろぼろの家具など、寂れた風景は廃墟のようであった。暮れはじめた空のオレンジ色が、エリア8を覚ます朝日のように見えた。――そうだ。エリア8はこれから動き出す……。
長い間住んでいた場所なのに、懐かしさも親しさも愛しさもわいてこなかった。エリア8から流れてくる異様で不気味な空気に悪寒がし、もう二度とあの地には足を踏み入れたくないと思った。
……帰ろう。サトルのところへ。ここにいたらあの街に喰われそう。
踵を返そうとした時、エリア7と8の間の縦の道から一台の車が走ってくるのが見えた。
真っ赤な車(……あれは)。ナンバーは、1928(……の)DZ(……!)
その車はスピードを落として目の前を通り過ぎた。ドライバーが首をひねってぼくのほうを窺っていた。
……ウソでしょ?
手足が硬直して動けなくなった。
どうしよう。どうしよう、どうしよう――!
車が停まって、乗っていた人が降りて近づいてくる。
「よぉ、驚いたな。てめェ、生きてやがったのか」
嫌なほどよく見知った顔。
「こんな所でなにしてやがる。ずいぶんと小奇麗なナリしてからに」
返事をしないで黙っていたら、足を蹴られた。
「おい、訊いてんだよ」
「……散歩、してた」
「散歩だァ? 相変わらず変なヤツだな。まあいい、さっさと乗れ。勝手に逃げやがって、このクソが」
店長はぼくの胸倉をつかんで強引に引っ張り、車に乗せようとする。
「――嫌だ! 乗らない! ぼくはもうあなたの所へは帰らない。ぼくの帰りたい場所はあそこじゃない」
「何ふざけたことゴチャゴチャぬかしてんだ。テメーの都合なんざ訊いてねェんだよ。テメーは俺が買ったんだ、俺の言われた通りにだけしてろや」
「ぼくは充分働いたよ。あなたが支払った分以上に」
ハッ、と店長は笑った。
「そんなの当たり前じゃねーか。バカかテメーは。どこに金払った分だけ働かせて捨てるヤツがいんだよ。一生、買ったヤツのもんなんだよ」
「でもぼくは、その売買に同意してない。だからいつまでもあなたのもとにいなくて言いはずだ。不当な扱いを受けてるなんて、ぼくだって昔からわかってたんだから」
「ナマイキ言ってんじゃねェよ、無権籍者が! だったらどうだってんだよ、ああ? テメーらにゃ何の権利も与えられちゃいねーんだ。この空中都市に要らない人間なんだよ、居ない人間なんだよ!」
……居ない。やっぱりぼく、居ないのかな? いるよね、サトル?
「そんなこと……ぼくには関係ないよ。ぼくが今言っているのは、あなたの所にはもう帰らないってこと」
店長が、チッと舌打ちをして、「いい加減、しつけーぞ」と言った声はいっそう低く、怒りが増しているのがありありと知れた。でも、だからってぼくもここで負けるわけにはいかない。ぼくは帰りたい。会いたい、サトルに。
「……ぼくにだって、覚悟がある。どうしてもダメなら警察に連絡をいれるよ。――ぼくは、違法だ。ぼくの存在は違法だ。ぼくを買った時点であなたも罪を犯している」
「どこでつけたか知らんが、余計な知恵を……」
「ぼくだって、ただじゃすまないだろうけど、あなたを道連れくらいにはできる」
……これで退いてよ、店長。お願い。ぼくに覚悟なんて無いよ。はったりなんだから。ぼくはまだサトルといたいんだ。だから、退いてくれ……!
店長は上着の内ポケットから折りたたみ式のナイフを取り出して、パチンと音を鳴らし、その刃を外の空気に触れさせた。
「おい、あんま調子にのってんじゃねーぞ。人がおとなしくしてりゃあつけあがりやがって。テメーがとるべき態度、わかってるよなァ?」
冷たい刃でぼくの頬をペチペチと叩く。
この人はこんな物でしか、ぼくにいう事をきかせられない。支配できない。
見てよ、サトル。ぼくより憐れだ。
「ふ……ふふふ、――アッハッハッ」
「……何が、可笑しい」
「ぼくはどうやったって、あなたの命令には従わない。ぼくの全てはあの人のもとにある。たとえ屍となっても、あなたのもとへ行くことはないよ」
店長の目がすわった。本当にキレると、この人は表情が消える。
「じゃあ、シネヨ」
…………。
アハハ。ごめんサトル。
どうやらサヨナラみたい。
…………。
ぼくがこのまま死んだら、きっとキミはぼくのことだけを想ってくれる。泣いて悲しんでくれる。無権籍者だから、この身体も誰かがサトルのもとに運んでいってくれるかな。そしたらいっそう、いつもいつもぼくだけのことを……。
――なんて、考えるのはやっぱりやめよう。
自分のことばかり考えるのは、もう終わり。
サトルがぼくに自由をくれたように、ぼくもキミを縛りたくない。
ねえ、サトル。
だから、ぼくのこと忘れていいよ。
ぼくがちゃんと憶えているから。
…………。
最期に考えるのは、想うのは、何がいいかな。
そんなの、――キミのことしか、ないよね。