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一話

 ぼくの記憶の棚の中、一番奥を探ってみたら見つかったのは別れの場面。

 繋いでいた手を離して、女の人が小太りの男にぼくを引き渡す。その代わり女の人が受け取ったのが、ぼくの価値を数字にしたもの。――さようなら。顔も声もぬくもりも、何も覚えていないぼくの母、さようなら。

 ぼくの記憶の棚の中、次に探ってみたら見つけたのは、痩せこけた小さな手が床を一心不乱に磨いている、ただそれだけの場面。他にも何かないのかと棚の中を探っても、どれも似たり寄ったりで、何となくでしか順番がわからない。

 でも、最後にしまった記憶は、それらと混ざらないように大事に大事にしまっておいた。時々開けては眺め見る――それは記憶と言うにはあまりに足らず鮮明で、彼女といたその全てが「今」だった。


   *   *


 ぼくが仲介の男を経て売られていったのはどのくらい前のことだろう。ぼくは、ぼくを買った男のことを「店長」と呼んでいた。自宅だけでなくお店でも使われていたし、そう呼べと言われたから。

 店長は気性が荒かった。ぼくのヘマはもちろんのこと、ぼくの他で起こった不機嫌でも罵声が飛び、手や足が出た。そのたびに、ぼくは思った。どうして怒鳴られるんだろう。どうして殴られるんだろう。どうしていつもこき使われているんだろう……。

 いつも決まって「どうして」から始まり、「おかしい」にたどりつく。でも、たどりついただけでそこから動かない。

 ぼくは、ぼくと同じ境遇の人たちがいることを知っていた。表の掃除や、窓を拭いている時にたまに見かけていた、ぼろぼろの汚れた服を着た男――ジェイ。ある日、彼と目が合って。またある日、声をかけられ。店長の隙を見ては彼と話をした。

 ジェイはいつも不満と恨みと希望とを語った。

「いつまでもこんなところにいてられねえ。おれ、おまえ以外にもナカマがいるんだ。そいつらと、ジユウになるためにもっとナカマを集めて、いまサクセンを立ててるんだ。おまえもおれたちのナカマに入れてやるよ」

 ジェイの誘いは、ぼくのたどりついた「おかしい」という答えから次へと進む道だっただろうと思う。

 独りで店長に立ち向かったところで、非力なぼくじゃどうなるのかなんて容易に想像がつく。だけど、ジェイの仲間になって結託して事に当たったら、この理不尽な生活が変わるかもしれない。

 ――そう、でも。

 ぼくはそれをしなかった。やる気が無かった。大勢集まっても勝てないだろうなァ、って。あっという間に鎮圧される予想も簡単にできた。それでも、行動を起こせば多くの人にぼくたちの境遇や事情を知らしめることができるかもしれない。何年かかるのかわからないけど、この生活からは抜け出せるかもしれない。今すぐには無理でも後世のムケンセキシャたちの頃になれば何かしら改善されるかもしれない。

 ……いや、やっぱヤダ。それじゃあ意味がないよ。

 今よりもっと酷い目にあうのも、死ぬのが早まるのも充分ありえるし、それに、今どうにかなって欲しいのに時間がかかるなんて興醒きょうざめ。自分の行動の結果が自分に返ってこないならやらない。他人のためなんて、そんな理由じゃぼくは動かないよ。

 ぼくは自分のことしか考えない。

 だから、他にどうすればいいのか考えた。考えて、考えて、考えて……。

 考えるのをやめた。このままでもいっか。最近は毎日暴力を振るわれてるわけでもないし、ご飯――と言うにはあまりにお粗末なものだけど――にもありつける。寝床だってある。それにこの暮らしでもなんとかこうして生きてこられたじゃないか。

 ――ぼくは、そう決着をつけた。


 お店の一番奥にある、店長の部屋。

 その日も窓や棚やテーブルを拭いてぼくは掃除していた。特別なことじゃない、いつもやっていることだ。黒光りしたソファに悠々と座って語らう店長と店長の女に目もくれず、自分の仕事を淡々と。

 そこに、店員が店長を呼びに来た。客の一人が無銭飲食したとのこと。すぐに不機嫌な顔をして店長は部屋を出て行った。

 ねえ、と声をかけられ振り向くと、店長の女は手に持っていたグラスをゆっくりと傾けた。中に入っていた薄い黄色のお酒がキラキラと光りながら流れ落ちた。

「お酒がこぼれちゃった。ここもキレイにしといてくれない?」

 女はにやついた顔で言う。ぼくの仕事を増やしておもしろがっているのだ。

 ぼくのご主人は店長だから従うつもりはなかったけど、床が汚れているのはいけないし、前に何度かこの女のいう事を聞かなかったとき店長に怒られてしまったから、ぼくは女の足元にひざまずいて、拭いた。

 すると、女がぼくのあごを手で、ついと上に向けた。

「アンタって、よく見るとなかなかカワイイ顔してるわよね」

 女の手がぼくの頬に触れる。

「アンタもボーイとして表に出ればいいのに。フフッ、きっとあの人、アンタに女の子たち取られると思ってんじゃないかしら」

 手が、頬から首をすべり、よれよれの襟の下から入って肩をなでる。

「バカよねェ。アンタでも小遣い程度には稼げそうなのに」

 首もとに顔をうずめながら女はぼくの両肩を後ろへ押しやり、体重をかけてきた。大きな胸がぼくの身体にあたってつぶれる。

 なんだろう、このヒトは。いきなりそんなこと言ってきて、のしかかってきて。なにがしたいの?

「そうじができないから、どいて」

 言ってぼくは女を押し退けた。そうしたら女は一瞬間驚いた顔を見せたのち、ぼくの手をひっつかまえた。女の装飾を施した長い爪が手に食い込む。

「いっ――いた……っ」

 小さな弧の形に血がにじみ出た。

 女はわなわなと震えながらぼくを睨みつけて、捕まえているのとは反対の手で、元々露出の多い格好だったが、その自分の衣服を自分で剥ぎ下ろし、いっそう露わになると、次には悲鳴を上げた。

 わけがわからず目を白黒させているうちに店長が駆けつけてきた。

「テメー、何してんだ!」

 言って店長はぼくの胸倉を掴んで左の頬を殴りつける。

 何もしていないのに。ぼくはただ掃除をしていただけなのに。どうして、何がいけなかったの?

「オレの女にさわんじゃねぇ!」

 二、三発顔を殴られて床に伏せると、今度は身体を蹴られた。頭を踏みつけられて痛かったから腕で防いでも、代わりに腕が痛くてどうしようもない。と、思っていたら腹に蹴りが入ってむせた。

 ――そっか。触っちゃったのがいけなかったのか。そんな決まりもあったんだね……。

 いつもよりも多めの折檻せっかんをうけている中、ぼくは目にした。かたわららで腕を組んでぼくを見下ろしている女の、真っ赤な厚ぼったい唇が満足気に卑しい笑みを浮かべているのを。

 途端、全身に寒気が走った。殺される――そう直感した。

「あっ! ――待ちやがれ!」

 後ろの方で店長の怒鳴る声がした。そう、ぼくの身体はいつのまにか外へと逃げ出していた。考えるより先に。


   *   *


 知らない路地をいくつも通り抜けて、目的もないままぼくはただ歩き続けた。

 どうすればいいんだろう。どこに行けばいいんだろう。店長のところに戻るべきなんだろうか。それとも、ジェイのところに行ってみようかな。ああ、でも、ここはドコ? 道がわからないや。

 どこを歩いてもツバやタバコを踏みにじった跡、血の跡で汚れた地面、ほうられたゴミ、黄ばんだり黒くすすけたり、けばけばしく飾ったりした建物、虚ろな目をした人間、淀んだ気持ちの悪い空気……。

 ここはまだエリア8なの? エリア8ってどこまであるの? もしかして、ぼくは勘違いをしていたのかも、他のエリアはエリア8とは違うって。道も街並みもキレイで暴力も暴言もはかない優しい人たちがいるだなんて、そんなのただのジェイの作り話だったのだろう。

 悩んで、迷い、店長に捕まってしまわないかとビクビクしながらも、そんななかぼくは夜がくるのが楽しみだった。キラキラと光るものが空にあってキレイだったから。

 夜はいつも店の開店時間で屋内にいたし、寝るときも倉庫で窓ひとつなかったからそんなキレイなものがあったなんて知らなかった。道ばたで寝ると夜空をずっと見ていられて嬉しいけれど、時々そこらに転がった小石のように理由もなく蹴飛ばされたり、踏みつけられたり、はてにはのしかかってくるヤツもいて邪魔されることもあった。

 そうして朝と夜とがいくらか過ぎた頃、何でか息苦しくなってきて、呼吸をするたびにピーピーと胸が鳴って咳が出るようになった。それでもぼくは歩みを止めなかった。少しづつでも足を出した。右に曲がり、左に曲がり、――いったいぼくのどこにそんな体力が、気力があったというのだろうか。行くべき場所も帰るべき場所もないのだから、いっそ座り込んでしまえばいい。飢え、くたびれたこの身体なら楽になるのもすぐなのに。

 でも、ぼくはそうしなかった。いや、できなかった。何かが――何かがぼくの身体を引っぱっていて。こっち、こっちだよ、という声こそ聞こえないものの、そう言われているようで。どこへともわからないのに行かなくちゃという気になった。

 一歩、一歩、歩いて、歩いて……ゼイゼイと身体のうちで鳴る雑音が胸や背中をむずがゆらせ、息をしようと吸っても喉の途中までしか空気が入らない。そのくせ咳だけがたくさん出ていく。

 とうとうぼくは歩くのを止めて、ぼやけた丸い光を発する街灯の下に座り込んだ。

 もう動けない。動きたくない。

 苦しくて苦しくて、どうしようもない。膝をかかえて、縮こまって、顔も伏せて目を閉じる。

 真っ暗だ。

 星も、何も見えやしない。ぼくはここで死んじゃうのかな。――どうして? 店長から逃げたから? ねえ、店長、店長の女、ジェイ、ぼく死にそうなんだよ。知ってる? 知らないでしょ? ぼくがこんなに苦しんでいるのも、知らないよね。みんなの中にぼくっていないよね。

 ひとりですらない、いない存在……。

 突然――

「これで咳が少しはマシになるわ。ここに置いておくから飲みなさい」

 かけられた言葉。ぼくに、かけられたコトバ。キラキラと降ってきた。

 小さな星がキラキラと。地面にぶつかって跳ねたら、そこからまた小さな星がはじけ飛ぶ。

 声なのに、そう見えたんだ。

 なんでだろう、涙がこぼれそうになった。

 ――見つけた? あいたかった?

 ――うん、そう。ぼくはこの人に引っぱられてきたんだよ、そうだよ、絶対に。だってそう感じてるんだから。

 この人にあうために、ぼくはここまで来たんだ。

 こういうのを運命って言うんでしょ?


 ぼくを拾ってくれたサトルは、ぼくを見てくれた。ぼくを想ってくれた。

 会話ができて嬉しかった。ほわほわした気分。

 ――ところで、あなた名前は?

 彼女はそう訊いてきた。

 ぼくの名前はたぶん「ケイ」だと思う。そう呼ばれた昔の記憶があるから。でも、

 ――おい、お前、クズ、ムケンセキシャ……。

 呼ばれない名前。「ケイ」はいらないね。必要ないね。

 バイバイした「ケイ」。訊かれた時にぼくに名前があったら、きっとサトルは呼んでくれただろうにね。

 でも、いいよ。そのおかげでサトルから「ショウ」って名前をもらったから。

 ぼくを表す「ショウ」。他の人は呼ばれても気にも留めない。ぼくだけを指す。

 ぼくがいる記号。

 ぼくがサトルの中にいる記号。


 サトルの家はエリア10にあって、十二階建てのマンションの上から三番目。暗くした部屋の中から窓の外を眺めると、空がぐんと近くて星がよく見えた。夜空にただ光ってあるだけの星に、人は物語を見て、名前をつけた。だからかな、燦然と輝いて見えるのは。少し羨ましい。

サトルにもらったペン型の検索辞書をズボンのポケットから取り出して電源を入れた。薄っぺらな画面が出てきて、それから音声入力に切り替えた。

「ほし」

 たった一言で大量のリストが表示される。

「空の」

 少しだけ絞られた。

「キラキラ」

 また少し減った。

「まだ見ていないもの」

 リストアップされた六項目。

 二番目の音符マークが気になったからそれを選んだら、流れ出した音楽。

 ――ド・ド・ソ・ソ・ラ・ラ・ソ

 ――ファ・ファ・ミ・ミ・レ・レ・ド

 その時、ただいま、とサトルが帰ってきた。急いで部屋の明かりをつけて玄関に出迎えに走った。

「おかえり。いつもより早いね。今日の夕ご飯そんなに待ち遠しかった?」

「ハズレ。仕事がたまたま早く片付いただけよ。そのかわり来週からは遅くなるわ。先輩達の研究がうちの班にも回ってくるから、当分忙しくなりそう」

 サトルが自室で着替えて居間に戻ってくる間に、ぼくは夕食をテーブルに並べて整える。それから二人でいっしょに席につく。

 そんな一連の流れが、今や自然なものとなっていた。ぼくがサトルの家に来て、もうすぐ半年が経とうとしていた。

「これ、本当に作ったの?」

 夕飯を見て、サトルが目を丸くして言った。

「うん。いちからぜ~んぶ。サトルが絶対に作れっこないってリクエストしたのに作れちゃいましたー。アハハ」

 サトルは口をとがらせてスネたように、

「色んな種類が入ってて、材料とか工程とかあんなにいっぱいあったのに……」

「そんなの全然大変じゃなかったよ。レシピ見ながらやったし、材料と道具もそろえられたからね。あ、無かったのは他ので代用したけど。昨日の夜から準備してたんだ。だからホラ、煮物もちゃんと味がしみてるでしょ」

「夜って……じゃあ、あの後から準備してたの?」

 そうだよ、と答えるとサトルは軽く息を吐いた。

「すごいわね」

「すごい?」

「うん、すごい。ショウって本当に料理が得意なのね」

 ……褒められた。うん。褒められた。けなされるか、無視されるかのぼくの行動が。サトルだけが認めてくれた。サトルの言葉は店長の「やればできるじゃねーか」とは何かが違う。なんでだろうね。

「――ねえ、これ何?」

「それはねぇ、伊達巻っていうやつだよ。卵焼きみたいなもの」

「……甘い。これ好き」

「じゃあ、こっちも食べてみてよ。タレが甘いからきっとサトル好きだよ」

「えっ……それ、飾りじゃなかったの?」

「エビだよ」

「嘘でしょ……? エビってこんな姿してたの? ちょっと足多すぎない?」

「アハハ。殻むいてあげるよ。――はい」

 受け取ったエビをまじまじと見つめ、それからサトルは恐る恐る口へともっていった。

「……おいしい、かも。ほんと、タレが甘い」

 残りのエビをタレにつけなおす彼女は、笑っている。口が笑っている。目が笑っている。ちょっとだけうつむいて小首をかしげて、小さく、優しく、はにかんでいるように。

 ゲラゲラと声もあげないし、片方の口の端だけをあげても笑わない。静かに淡く、けれども楽しさや嬉しさが伝わってくる彼女の笑みが、ぼくには心地よかった。

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