第七四話 さよならを告げて
ボクにはその理由がわからない。どうしてこいつに固執するのか。たしかに仲間が殺されている以上、逃げるという選択肢はできないのかもしれないけれど、この人たちの感覚はそれとは別。ちがうような気がする。もともと歪なかたちで繋がっている絆なのだから、仲間意識なんてない。それなのにどうして逃げないんだろう? よもやボクの身を案じているわけでもなしに、原因はやっぱり不明。百歩譲って、その理由がボクに判らないというのは当然なんだろうけれど、エナでさえ困惑している様子を見るに、ボクたちの知らない何かが彼らの足に根を生やし、この場にとどめさせているのだろうか?
「人質だよ」ラビは云う。「僕はアダムズアップルのボスを人質に取っている。だから逃げられないんだ」
「人質に……? どういう、こと?」
「そのままの意味だ。お前たちが逃げたら僕は『サティール』を殺す。躊躇なく『殺して』みせる」
「…………」
意味がわからなかった。
だれを、殺すだって?
もういちど彼の言葉を反芻してみる。
けれども、やはり何を云っているのか不明。
杳として知れない。
「どういう、ことですか……?」今度はエナは足を止めて尋ねた。「サティールは……だけど、サティールはもう……」
「生きている」
「え……?」
「彼女は、『生きて』いる」
ラビが放ったその言葉に、エナの瞳孔が開いた。
あからさまな動揺。
それこそ、ボクにはわからない。
どうしてそんな動揺をする必要があるのか。
ボクには理解できない。
わからない。
「騙されるな! ボクたちは、見たはずだろう? サティールの死体を。両腕をもがれ、胸を穿たれ、コインを埋められていたあれは、見間違いなんかじゃない。きちんと確認だってした。でたらめなんだ! そいつの云っている言葉は、全部、嘘だ!」
「ですがお師匠さま、エナにはこの人が根拠のない発言をするような人には見えません。到底、思えません……!」
「根拠のない……? いま、してるだろう! よく考えてよ。生死の根拠は、どっちが持っている? ボクたちと、そいつと、そのどっちが持っている?」
「…………」
「エナ?」
「サティールは、生きているのでしょうか……?」
「そんなことない! ありえない!」
「…………」
「考えるな!」
「ごめんなさい」
「え?」
「お師匠さまの云う事はきっと、間違っていないと思います。正しいんだと思います。でも、エナは信じられません」
「……」
「たぶん、本当」
「本当……?」
「はい。サティールは、生きています。生きているんです。お師匠さま……!」
ああ。
そうか。
わかった。
エナにボクの呼びかけは通じない。
本当に信じている。
あいつの話を。
信じようとしている。
会話の途中でボクの意見が間違っていないだとか、正しいのだろうとか云っていたけど、結局は最後、エナはサティールが生きていると断言した。
断定口調になっていた。
だから、わかった。
どうしてこんな状況に陥っているのか。
こいつら全員、狂っている。
幻影に踊らされている。
その根幹。
そこにはサティールがいる。
サティールが生んだ恐怖支配が、残っているんだ。
絶対的な洗脳。
それが素地にあるから、動けない。
万一、本当にサティールが生きていたら。
生きて人質にされているのに、そこから自分一人が逃げたと知れたら、どんな報いを受けるのか。
たぶん、そういったこと。
そういったことを考えて、動けなくなっている。
だからこそ、言葉尻が変わった。
疑念から確信に。
きっとそうだ、そうに違いないとそう思い込むことによって、軽減している。
自分が悪いだとか、責任はこっちにあるとか云って予防線を張るように、辛いことがさも当然であると思い込まなければ生きていけないほど、こいつらは皆、精神を壊されている。
蹂躙されている。
心が、もう、潰されているんだ。
ひどい。
本当に、ひどい。
こんなことが、あっていいのか……?
許されることなのか……?
エナの自傷行為。
思えば、あれがそうだ。
人をあんな行為に走らせるほどのストレスをエナは抱えていた。
たぶん、こいつらも。
似たような苦痛を抱いて生きてきた。
それが、この一瞬でわかった。
洗脳。
洗脳って、こんなにひどいものなのか?
知識としてはあったけど、こんなにも理不尽なものなのか?
……だけど、
だからといって、同情はしない。
それでもこいつらが悪党であることは変わりはないのだから。
同情なんて、するもんか。
絶対に。
してはいけない。
そうは思うけれど、なんだ、この感覚。
巨悪は別。
心のどこかで、最大の悪はサティールなのであって、こいつらはもしかすると悪くないのかもしれないと思う気持ちが芽生えている。
ボクまで狂いそうになる。
感覚が。
きっとこれは一時的なもの。
犯罪被害者が加害者に対して同情するような類のもの。
流れるな。
だから、流されるな。
思考を、とにかく戻せ。
事の真相、実態はともかくとして、銀髪の男、ラビは間違いなくこうなることを判ってやっている。
そういった話術を使用している。
こいつの目的はただ悪を討つこと。
こいつの口車に乗れば、戦うしかなくなる。
どちらかが壊れるまで。
崩れ散るまで。
だけど、ボクになにができる?
アダムズ連中を説得することも、ましてやこのラビを倒すこともできないボクに。
ボクは、どうしたい?
ねえ、君は。
ユーフ。
この呪いは、どこに着地点を求めている?
「精霊よ――」
その詠唱は、エナによるものだった。
呼びかけに応じるは四人の精霊。
火、大気、水、土。
四元素の理。
小さな命。
芽生え。
淡淡と輝くそれはエナの周りを浮遊する。
天胤私士唯一の優位スキル。
精霊召喚。
四つの中から二種を組み合わせて発動させる応変型の能力。
彼女は選択する。
大気と土の精霊を短刀に宿し、宣言する。
「エナが倒します。エナが貴方を倒せば、すべて解決するんです。そうすればエナはみんなに謝れる。罪を、償えるんです……!」
「罪を、償える? お前が僕を倒して救えるのはそこに雁首並べる悪人共だけ。それがどういうことか、判っているのか?」
「わかりません。だけど」
「だけどじゃない! そいつらを救ってどうなる? 改心するとでも思うか? あり得ない。皆無だ。またそいつらは悪事を働くことになるだろう。それが、そんなことが罪を贖うことに繋がる? お前は、それが正義だと思っているのか? 本気で、そんなことをのたまっているのか?!」
「ですが、だからといって、貴方に人を殺してもいい権利なんてないはずです。あるわけがないんです!」
「ある」
「……え?」
「僕には、悪を裁く権利がある」
「どうして、云いきれるんですか?」
「それを、君がいうのか? 君が、本当にアダムズアップルの一員だったのならば、その理由は判るだろう? 否、判らない等とは云わせない。お前達が何をしてきたのか、ここまで悪名を轟かせていて、その云い草はなんだ! 自身に問え、訊いてみろ! それでも猶、自分が裁かれないと思うのならば、今すぐに殺すぞ! この銃で、穢れた脳髄をぶち撒けてやる!」
「…………」
「答えろ! 罪人!」
「そう、ですね」
頷き、エナは武器を手離した。
かたん、と金属音が虚しく響く。
「間違えました。そうです、その通りでした。エナは、また、間違えてしまいました。ああ、もう、何回目。何度、間違えればいいんでしょう。ごめんなさい。ごめんなさい……。わざとじゃないんです。本意ではないんです。エナは、そういったことから逃げようとしていたのに、どうして、どうして……」
エナは放心し、両の手を組み合わせて膝をついた。
その行動の意味がわからない。
ただボクは、見ている。
眺めている。
「エナを、殺してください」
驚き、声を上げたのはボクだけだった。
だらりとエナは頭を垂らし、無謀な姿を晒している。
ラビはただ無言で手帳を取り出し、開く。
一心にページをめくり、そして、はたとその動きを止める。
「エナアス……なるほど、君が云っていたことは確かに本当のようだ」
ラビは呼吸を挟み、瞳を一度閉じた。
それから薄目を開けて、そして手帳の頁を読み上げる。
それは、エナが行ってきた悪行。
悪いことの数々だった。
「これらの情報は正しいか?」ラビが尋ねる。
「はい」エナが答える。
「偽りは?」
「ありません」
「酷く惨い行いをしたものだな」
「本当に、そう思います」
「裁かれる覚悟は?」
「いま、すぐにでも」
「待って」ボクは、云う。「ねえ、待って。話が、急すぎる。わかった、たしかに、エナが本当に、ひどいことをしたことはわかった。正直、耳を疑いたくなった。そういうことを、エナはしてきたんだと思う。だけど、ねえ、忘れてない? それは、サティールに脅されてというか、支配されていて……」
「関係ない」
「関係はあるだろう! エナだって、本当はそんなことしたくなかった。苦しんでいるみたいなんだ、今もまだ。罪の意識が抜けていない……その証拠に――って、腕に傷跡は残っていないけど、だけど何度も刃を手首にあてがって、自殺しようとしていて、だから」
「だから赦せと云うのか?」
「そうだ。討つべく悪はもう、死んでいる。お前が、殺している!」
「讒言を抜かせ」
「第一にさっき、はぐらかしたよね? エナが云った事、お前に裁く権利はないってところ。対して君は、悪いのだから裁かれてもしょうがないって。そんなの、答えになっていない。エナたちが罪人だとして、どうして君が刑を決めるの? それを、執行しようと思うの? そうしようとするならば、正しく行おうとするならば、個人的な見解なんていらない。正当な理由を訊かせてよ!」
「神だ」
「神?」
「神が、そう告げている」
「だから、君が殺すのか? 神に代わって?」
「そうだ」
「馬鹿げている。神、神? そんなの、いるわけない! ……ううん、いるかもしれないけれど、だけど、結局、同じ。君のなかにいる神と、ボクのなかにいる神が同一でない以上、神の代弁者を騙るのは無意味だ。そんな理由で、身勝手に人を殺していいものか!」
「何を云っている」
「え?」
「神は、存在している」
「君はまた……」
「そうではない。僕が云いたいのはそんなまやかしめいたものではなく、存在している。この世界に、厳として存在しているんだ。つまりは同一、僕らの神は同じなんだ」
「ふざけるな。いいからエナを……!」
「いいんです」必死に説得を続けるボクを止めたのはエナだった。「いいんです、お師匠さま。その、もう、いいんです」
「もういい……?」
「エナを、止めないでください」
「どうして!」
「逆に問います。その、間違っていますか……? ラビさんが云う事に、なにか間違っている部分はありますか?」
「それは……」
「そうなんです。ないんです。だからエナは殺されて当然。むしろ、そうされないといけないんです」
「だけど」
「エナ、わかってしまったんです」
「わかった? なにを?」
「エナは、善人にはなれないということをです」
「そんなことない。ボクから見れば、エナはもう、善人なんだ」
「いいえ、違います。お師匠さまと出会って、そして、マヒトツさんたちを見て、わかったんです。本当の善人というか、こう、悪人ではないという人がどんな人なのか。エナはもう、よく理解できました。少しお話させていただきましたが、随所に気を配っているんです。こっちが不快にならないようにと手振り身振り。頭も良いですし、知識もある。ユーモアだってありました。そしてなにより、ギルドマスターとして慕われていた。優しいんです。それなのに自分を顧みず、困った人をみたら損得勘定なしに助けようとするんですよね? というより、助けていたんですよね……。エナは。じゃあ、エナは。対してエナは、ゼロ。いえ、それどころかマイナス。マイナスからいま必死にゼロになろうと頑張っているんですよ。それって、なんか、バカらしくないですか? なんだろう。エナって、なんのために存在しているのか、もう、わからないんです。意味、ないですよね? 悪いことさんざんしておいて、むしろどうしてゼロになろうとしているんだろう? 挽回なんかしようとしているのでしょうか……。悪い。悪いと本当に思っているなら、はやく死ねばよかったんです。ああだこうだ云ってないで。あまつさえ、赦しを請おうとして。最悪。最低、最悪。なんで、気づかなかったんでしょう。さっき、云われるまで忘れてました。ほんと、意味がわかりません。もう、意味わからないんです。ですから、殺してください……! はやく、エナを殺してください!!!」
エナの叫びに答えるように、ラビは手に持つ銃の撃鉄を起こした。
殺される。
エナが、殺されてしまう。
それはダメだ。
呪いが、暴発する。
なら握れ。
この空気を。
状況を変えたいのならば、剣を強く握れ!
ボクが、やるしかない。
戦うしかないんだ。
かたん。
剣が手から落ちた。
音で、それに気づいた。
もう握っているのかさえもわからない。
手の感覚がいかれいる。
狂っている。
「待って」
引き金に指がかかる。
指が、引かれる。
「待ってってば!」
ボクは叫び、ラビに飛びつく。
けど、ラビは冷静にそれを対処する。
ボクの右足に二発、左足に三発撃ち込んだ。
体勢を崩し、ボクは無様に地を転ぶ。
ラビは銃口をエナの額に押し付け、何かを唱える。
銃が輝き、呻りを上げた。
これから食い殺す得物に向けて。
まるで祈りを求めるように。
強いるように。
「お師匠さま」
「ばいばい」
エナがそう云った。
笑って。
笑って、そう云った。
ふざけるな。
そんなのは、許さない。
ボクは手を伸ばす。
精一杯に。
救いを、求めるように。
刹那に、
嫌な音がした。
被服を裂く音。
肉を抉る音。
鋭利な突起。
鉄製の穂先。
後方から――
その背後から。
白髪の少女。
大庇帽を被るウィザード。
ベルが、エナの心臓を貫いた。




