渇望、その手に掴むもの
エナは悪い子だ。どれくらいに悪いのかといえば、それはもうとんでもないくらいに――そう、具体的にいえば、頭や、運動神経はもちろんのこと、意気地だって、気味だって、とにかく、なんだって悪いんです。センスだって悪いからキャラメイクも失敗したし、運も悪いものだから選択した職業も一年前のアップデートで最弱職になってしまいました。だから、いつも戦闘では足手まとい。だけど、それだけならまだ救いは残されているんです。べつに、オンラインゲームでは職業やプレイングに問題があろうが、人間としての魅力が備わっているのであればそれだけでも十分なんです。十二分に楽しくこの世界を謳歌することができるんです。だけどエナはどうも積極性にかけるというのか、その、あんまり表にでるような性格じゃなかったので、いつもはじっこにいるんです。はじっこが、お似合いの子なんです。エナは。その癖、一人になるのがとても怖くて、だから常に人の傍にいるように行動してきました。エナは一人ぼっちにならないためになら、誰かと、一緒にいるためになら、それが当然であるかのように、息を吐くかのように、へらへらと笑いました。
何度だって。
バカみたいに、笑いました。
道化を演じた回数は、エナの指では数えきれないくらい。たぶん、地球外知的生命体でも無理。不可能。というよりも、人生比率でいえば道化でいる時間の方が多分な気がするので、これは道化を演じているというよりもエナは道化そのものだと称した方がいいのかもしれません。だけどそれは、べつに、悲しいことじゃなかったといいますか、その、よくあることだと思うんです。だから、いくら気持ち悪くとも、滑稽であったとしても、バカでも、救いようがなくても、まだまだ大丈夫だと思うんです。そこに愛嬌があれば。素直であれば、本当に、全然、大丈夫だって思っています。けれども、エナは愛嬌もなければ素直でもありません。そう、エナの一番に悪い部分というのは、この性格――
ひいては、所業。
エナは、犯してはならないことをしでかしたんです。
人として、行ってはいけないことをしてきたんです。
悪いことを。
犯してきたんです。
悪いっていうのは、人にとって。
他者にとって、都合が悪いことを。
例えば悲しいこと、悔しいこと、苦しいこと、不快なこと、怒らせるようなこと。
そういった諸々のことを、エナはしてきました。
だけど、いま、冷静に振りかえってみても、それはしょうがないと思う気持ちはあります。
決して、自己の正当化ではなく。
罪の意識は、感じていません。
誰だって、そうなんだから。
皆、やってることなんだから。
普通。
当然。
べつに、悪いことではないと、そう思っていました。
それなのに眠る時、いつまでも、いつまでも後悔が手足に纏わりつくんです。
纏わりついて、徐々にエナの首を絞めあげるんです。
だからその度にエナは剣を突き立てました。
自分の躰にです。
手足に剣を突き立てると、ちくりとした痛みが全身を駆けて、脳が少し痺れました。
それがとても気持ち良かったんです。
嫌な思いで苛むくらいなら、こうして痛みで思考を飛ばしていたほうが楽でした。
どうせ、回復すれば傷はもとに戻るのだし。
これは、自傷行為とは遠いところにある、ただの処置。
エナは、安定を求めました。
とても不安定だったから、だから、毎日のように剣でざくざくと手足を刺しました。
もう、よくわからない。
エナは、どうして存在しているのかも。
これから、どうなるのかも。
わからないんです。
この行為がすこし、悪いことかもしれないと思い始めているけど。
けど、止められなかったんです。
破壊衝動というのか、自滅衝動というのか。
恐らくは、そういった感情。
情動。
悲しくなった。
だけど、泣きはしなかった。
苦悶で、貌が歪んだ。
だけど、泣きはしなかった。
心が潰れそうだった。
だけど、泣きはしなかった。
泣かなかった。
零れなかった。
涙は、流れなかった。
エナは、いつかの日の夜に、森へと出かけました。
最初はすこしの傷で満足できていたのに。
今は、この躰を乱暴に扱いたい。
叫びながら、切り刻みたい。
そういった感情が抑えきれなくなってきて、とてもギルドメンバーのいる部屋では思うように動けなくなってきたんです。
どうしようもないなあ。
うん。
そんなことは、わかっているんです。
自分だからこそ、わかっているんです。
だけど、本当にどうしようもないです。
よくわからない感情に突き動かされるようにエナは森を――昏く、静かな夜を、あてどもなく、ただ靴の音を響かせながら、突き進んでいました。
そんな折に、見たんです。
死屍累々と堆く盛られた肉叢の上で、天を仰ぐ人を。
祈るように空を見上げる、あの人を。
エナは、すぐにピンときました。
ああ。
この人が例の人なんだって。
あの、狂気の人なんだって。
噂には聞いていたけれど、エナが実際にその光景に立ち会った時、畏怖するでもなく、ましてや不気味に思うなんてことは、決してありませんでした。
エナは、ただ純粋に目を奪われてしまったんです。
ひいては心を。
一瞬のうちに奪われてしまったんです。
だって、その人の瞳が、
とても、
そう、
夜空のようにと、
澄んでいたから。
瞬いていたから――。
化け物だと、思ったんです。




