第三五話 不安と狂気
「海、きれいだね」
とユーフは振り返って、唐突にそう云った。ボクたちはいま、デルパエとエアポイスという孤島を往復する定期船に乗っていて、デッキから海上を眺めていた。真昼の運航ではあるけれども、人間はボクたち以外誰もいない。しかしそれは偶々だろう。ボクはなんて返答しようか考えはじめたところで、ユーフは続けて言葉を紡いだ。
「わたし、海好き」
「そうなんだ。ボクも嫌いじゃない」
「それは好きってこと?」
「否定はしないけど」
ボクがそう答えると、彼女は小さく笑った。
「どうして海は嫌いじゃないの?」
「青いから」
だから、嫌いじゃない。
嫌いに、なれない。
「シンプルな答えだね」
「好きな理由を複雑にしないといけない決まりもないしね」
「だけどその理由じゃ、あんまり海が好きな理由には聞こえないよね」
「あながち間違ってないけど」
「それじゃあほんとに青いから海が好きなの?」
「うん」
「じゃあ夕陽に染まった海は嫌いってこと?」
「好きだけど」
「そうなんだ」
と、ユーフはまた笑った。
ちょっとした会話だけど、こういったとりとめのない話をするのはずいぶん久しぶりに感じる。レリカとも多少会話は交えていたけれど、必要最低限のことしか話さなかったし、道程ではただ黙っていた時間の方が多かった。だけどそれはただボクたちが置かれていた状況がそうさせていただけであって、本来ならばもっと上手に話せていたかもしれない。そんなことを思う。ボクから話題を振るなんてことはないだろうけど、ボクとレリカの間には大きなレベル差があったけれど、レリカはそういった事柄に臆して下手にでるような性格をしていなかったから。
だから。
未知の敵に追われることなく。
最強の廃人と出会うこともなく。
こうして、ただのんびりと海岸沿いを歩くような、そんな余裕を感じる状況だったならば、ボクたちはもっと仲良くなれた。
そんな気がした。
だけど、それはもう叶わないことだと、ボクは知っている。
ボクとレリカが仲良くなることはもうないから。
そういった後悔が、こうした現状に繋がっているのかもしれない。
代替じゃないけれど。
レリカに対してできなかったことを、ユーフで補おうとしているのだろうか。
仮にそうだとして、それが良いことなのか悪いことなのかは分からないけれど。
少なくとも、このことはユーフに云うべきではないだろう。
ただ、あの時の感覚を。
レリカの体温を。
ボクは。
少しだけ、思いだしていた。
「あ、見て!」
と、ユーフは船体から大きくを身を乗り出した。
同時に渡船は波の影響を受け、傾いた。
ユーフの躰が手摺を乗り越える。
小柄なその躰が、海へと。
冷たい、
海の中へと……。
「ユーフ!」
ボクは手を伸ばし、彼女の腕を掴んだ。
それから両手で持ち直し、船外へと投げ出されたユーフをボクはゆっくりと引っ張り上げた。
「……ごめんなさい」
難を脱したユーフは開口するとともに頭を下げた。
ボクは顔を横に振って、いいよと云ったけれど、そのポーズは彼女には見えていない。
彼女はずっと頭を下げている。
だからボクは、ユーフの手をとった。
とって、つないだ。
危ないからとか、そんなことを云って。
代替行為。
そんな言葉がずっと脳裏に浮かんでいたけれど、ボクはただ海を眺め、ただ空虚に努めた。
船はエアポイスに着き、ボクとユーフは桟橋に降り立った。入れ替わりに船の到着を待っていた五人くらいのプレイヤーがタラップを上っていったけれど、その全員の表情はどこか浮かないものだった。
なにかあったんだろうか。
死人でも出してしまったのだろうか。
そんなことを考えたけれど、すぐに船内からは賑やかな声が聞こえはじめたから、たぶん、杞憂だ。
船舶から視線を転じ、ボクはユーフを眺める。
ユーフはいつの間にか魔剣士専用の大剣を手にして、素振りをしていた。狩りをするのは久しぶりなのだろうか。同じ動きを何度も入念に繰り返している。その間にボクはスカイに餌をあげて、道具の確認と、使用スキルの手順を頭のなかで整理した。
「そろそろ行こう」
ボクはユーフに声をかけると、彼女は「うん!」と笑顔を返した。
エアポイスは森林に覆われているため、ニルキリル同様視界が悪い。とはいえ、プレイヤーのためにつくられた道がいくつもあったし、敵が湧きやすいポイントは決まって開けた場所だったから、目標の敵はすぐに見つける事が出来た。
ウサギが二匹で、他は無し。
ボクとユーフは視線を交わし、頷く。
同時にボクは足を踏み出し、敵がこちらを認識するかどうかギリギリのラインから片方にパラライズショックを発動させた。低威力の小さな球状の雷は、ばちばちという音を鳴らしてラビットウォーリアの躰を包み込んだ。けれどそれだけ。麻痺は起こらず、攻撃を受けた一匹だけがボクをねめつけ、ぴょん、と跳ねた。ゆっくりとした動きではあるけれども、その跳躍幅はかなり大きい。ボクはアクティブになった敵から一定の距離を保ちながら、横軸に移動する。
ボクに狙いを定め、追いかけてくる兎。
その背後にはユーフ。
「…………ん!」
ゆらり、と。
ユーフは緩慢な動作から一転、電光石火とも呼べる剣戟を放った。
袈裟斬りに払われたその大剣は、一太刀で敵の躰まっぷたつにした。
綺麗だった。
ボクは走り、残った一匹の視線を集める。
それからまた、同じように一定の距離を保ったまま移動して、その背後を再びユーフが一撃でしとめた。
楽勝だった。
というか、魔剣士が強かった。
ひいてはユーフのステ振りが多分、凄かった。
攻撃特化。
そんな感じだった。
ボクのステータスではウサギを狩るのに最低でも二セットは必要なのに、ワンスキルで屠ることができるだなんて。
「すごいね」
ボクは素直な感想を述べた。
ユーフはえへへ、と照れて笑った。
それからボクたちは二人で狩りを続けた。
ボクはというと初めて行うパーティープレイにかなりのめり込んでいた。いままでボクは補助行為を自分に対してしか行ってきてなかったけれど、仲間の動きを予測して敵との間合いをつめたり魔法を選択するなんてことがこんなにも楽しいだなんて、知らなかった。ボクはいままで支援職は人とのつながりを重視する人が選択する職業だと思っていたけれど、その考えは改めなければならないと思った。一連の流れを予想し、その流れ通りにゲームメイクし終えた瞬間は得も言われぬ昂揚感があった。ちょっとシミュレーションゲームに似ていて、とっても爽快だった。
しかし、何度も戦闘を重ねるうちに、ボクのなかで微かな疑惑が芽生えていた。
なにかがおかしい。
そんな感覚が、頭を支配している。
ボクは考える。
それがどこから生じたものなのか。
考えて、そして一つの答えにたどり着いた。
順調すぎるんだ。
順調に、ボクたちは狩りを続けすぎている。
そのことに、ボクは一抹の不安を抱き始めた。
というかこれ、ボクいらなくない?
試しにボクは道具の確認したいから一人で狩っててとユーフに伝え、荷物を整理するふりをして彼女の戦闘を眺めていると、ユーフはなんなく敵を撃破していたので疑惑は確信へと変わった。
ボクはいらなかった。
彼女は一人でも難なく狩りができていた。
ボクは足手まといというか、
足手まといではないけれど、
不必要な感じだった。
「そ、そんなことないよ」
とユーフは云う。
しかし、どうかんがえてもこの場においてボクの存在価値というのがどうも希薄であることは否定しようのない事実である。とはいえ、そのことを何度も繰り返し主張しもボクがへそを曲げているかのような感じになりそうだったからやめた。代わりに、物は試しということでボクも一人で敵と戦えるかどうかやってみた。
ずばん、ばきん、どかん。
勝った。
楽勝だった。
とはいえ、ボクの場合はユーフと違って手数も多いし、消費MPも多かったから効率でいえばかなり劣るのだけど、それでも同じ敵を二人でやっつけるよりは各々で撃破したほうが全体としての狩り効率は上がる気がした。
そんなわけでボクはべつべつに狩ることをユーフに提案した。彼女はすぐに了承してくれると思ったのだけど、ちょっと間を置いてから「うん」と頷いた。
ボクたちは各自、狩りを再開する。
べつべつ、とはいってもあまり離れすぎるとパーティーボーナスの経験値がもらえなくなるらしいのでそこまで離れることはしなかったけれど、ボクとユーフはずっと一人で敵を殲滅し続けた。
途中、ボクは何度かラビットウォーリアからクリティカルを連打され、焦る場面もあったけれど、どういうわけかクリティカルダメージは前ほど痛いものではなくなっていたので大丈夫だった。
何時間ほど経っただろうか。
日が暮れて、景色が赤く染まり始めた頃にはもうMPもアイテムも枯渇していたので、ボクはスカイと仲良く座って自然回復をすることにした。
ボクはウィンドウを開き、ネクスト経験値を確認する。
あとちょっとで、レベルが62になりそうだった。
「……それにしてもすごいな」
そんなことを、ボクはひとりごちる。
ボクはいまこうして休んでいるけれど、パーティーを組んでいるユーフはまだ狩りを続けているみたいなので、いまなおボクには経験値が入り続けているのだけれど、その数字の上がり方が半端じゃない。狩り速度は恐らく、ボクの三、四倍はある。どうしたらそんな狩り速度がだせるのだろう? そんなことを考えながら、食い入るようにウィンドウを眺める。
「……?」
数値の上昇が急にとまった。
どうしたんだろう?
敵の湧き待ちだろうか?
一応、ボクは立ち上がって準備をする。
ユーフになにかあった可能性を、ボクは考える。
攻撃にステータスを振っているということは、防御力は紙に等しいのだろう。そんななかでクリティカルを連打されてしまったら、たぶん、即死だ。その場合、ボクは早くかけつけて、蘇生を行わなければならない。
パーティー狩りをしていた理由は、安全面を配慮していたことだったのに。
どうしてボクは、効率を求めてしまったんだろう。
愚か。
愚かすぎる。
とかくボクは立ち上がって、ユーフのもとへと駆け寄ろうとした。
なにかにぶつかった。
ユーフだった。
「痛い……」
彼女はそういって、鼻頭を押さえていた。
まあ、たしかに、そこは痛いよね。
ボクはごめんと謝った。
ユーフは大丈夫と云って、それからじゃーんという子どもらしい効果音を自分で口にして今日の拾得物をボクに見せてくれた。
大量だった。
「すごいね……」
「これだけあれば、報酬もけっこうもらえると思うの」
「それはその通りだとおもうけど、だけどこんなにはもらえない」
「遠慮しないで」
「遠慮させてよ」
ほんとに。
こんなことされても、ボクは何も返せない。
「返さなくてもいいよ。これは、日ごろの感謝なんだから」
「そう云われても、日ごろお世話になってるのはボクなんだけど」
どうすればいいんだろう?
もうしわけなさすぎて、この場で死ぬしか方法が見当たらなかった。
「物騒だよ」
「物騒かな?」
「物騒だよ……」
たしかに。
その通りだった。
いきなりもうしわけないからと目の前で死なれても、困る。
すくなくとも、ボクは戸惑う。
やっぱり、死ぬのはやめよう。
「お礼したいんだけど、何がいいかな?」
ボクがそう尋ねてみると、彼女は首を左右に振って拒否を示した。それでもボクはなにかしてあげたい気持ちだったので、もう一度だけ尋ねてみると、彼女はすこし悩んだ素振りをみせ、それから小さな声で頭を撫でてくださいと、そう云った。
嫌だった。
しかし、お礼として頼まれた以上遂行しなければならないので、ボクは窮余の策としてスカイをユーフに抱かせて、順番に頭を撫でてあげた。そうすればいくらかマシになるかと思ったけれど、やっぱり恥ずかしくなったからその作戦は失敗に終わった。
ユーフは屈託のない笑みを浮かべている。
それをみて、まあいいかと、ボクは思うことにした。
ボクたちは帰りの船に乗って、島を後にした。
船がデルパエへと向かう途中、ボクたちはまたデッキに立って海を眺めた。
夕陽が海を赤く染めていて、きらきらと輝いている。
「そういえば行きの時、なにを見ていたの?」
と、ボクは尋ねた。
ユーフはなんの話か少し考え、ああ、と頷いた。
「あの崖を眺めていたの」
「崖?」
「あ、ほら、ちょうどいまなら見えるよ」
と、ユーフは大陸の一部を指差した。
そこはとても背の高い崖だった。
たぶん、ここらで一番に高い場所かもしれない。
それくらい隆起している。
「海岸洞窟をクリアするとね、あそこに出るの」
ネタバレだった。
ボクはまだ海岸洞窟をクリアしていないので、その情報は知らなかったのに。
なにも知らずにクリアして、何も知らずにあそこから景色を眺められたら最高だったのに。
唐突に、ネタバレをくらった。
「だ、大丈夫? いきなり落ち込んだけど……」
「いや、べつに……」ちょっとショックだったけど、ボクは平静を装った。「それで、ボクにあの崖のなにを見て欲しかったの?」
「ううん、あの崖のどこかを見て欲しくて叫んだわけじゃないの」
「というと?」
「…………」
「ユーフ?」
「わたし、あそこに行きたい」
「行けばいいと思うけど」
「一緒に来てほしいの」
「ボクに?」
「うん」
「どうして?」
「えっと、それは……」と、ユーフは口ごもる。「月がみたいから、だと思う」
「月を?」
「うん。近くでみたいの」
なるほど、とボクは頷く。
たしかに、近くで月をみたいとならば、あの崖の上が一番に月に近づけるスポットな気がした。
とはいえ、この星から月までの実際に離れている距離から考えれば、崖にのぼったところでその差は極めて小さいけれど、
それでも。
近くで月を見たいというユーフの気持ちは、わからなくはなかった。
ボクも空には近づきたいと考えていたから。
むしろ、共感できた。
「あ」と、ユーフが口を開けた。「それと大事なことで、海岸洞窟をクリアするにはパーティーを組んでダンジョンボスを倒さないといけないの」
「もしかしてグループクエストってやつ?」
「そう」
「なるほどね」
そういえばそんなシステムがあったことをいまさらながらボクは思いだした。
まあ、ソロプレイヤーにとっては無価値なクエストだから、忘れていてもしょうがないけれど。
「ユーフはあの崖の頂上部には行ったことあるの?」
「むかしに一度だけど」
「……そっか」
なぜだろう。
すこし、悲しくなった。
だけどそれでも、グループクエストに誘われた嬉しさのほうが若干、勝っていた。
景色を一緒に見に行く予定。
それはなんだか、ほんとうに友達みたいな関係だと思った。
一緒に色んな光景を見て、感想を云って、それで今度は次の目的地なんかを決めて、眺めて、また、話し合って……。
それは、少しだけ憧れていたから。
ほんとうに。
すこしだけ、あこがれていた世界だったから。
「いいよ」
と、ボクは首肯した。
するとユーフは笑みを湛えて、ありがとうと云った。
とても嬉しそうな声だった。
どうしてだろう?
ふいに胸のあたがりが、じんと熱くなった。
同時に、わからないけど泣きそうになった。
どうして今、そんな気分になったのか、とても不思議だった。
思えばそれが予兆だったのかもしれないけれど、合図だったのかもしれないけれど、始まりだったのかもしれないけれど、終わりだったのかもしれないけれど、ボクはそれらの感情を押し殺し、ただ黙ることを努めた。
ボクは、ユーフを眺める。
彼女は空を仰いでいた。
もうすぐそこには月が昇るのだろう。
白銀の月。
ルナティック。
狂った月が、その貌を見せようとしていた。
「……嘘だろ」
そうとしか、云えなかった。
ボクはただ唖然として、立ちすくむしかなかった。
時刻は夜。場所は広場。そこには多くの露店が軒を連ね、多くのプレイヤーがひしめいでいた。
そんな中、ボクはアールヴブランドの値段を確認して、そして、絶句していた。
100M
剣の値段が上がっていた。
単純に、十倍だ。
どうしてそんなことが起きているのか。
理解不能だった。
ボクに対する嫌がらせなのだろうか。
そんな可能性さえ、考えるほどに、困惑していた。
馬鹿げている。
他の装備の値段は変わっていないのに、ボクが欲しているアールヴブランドだけが、高騰している。
意図的な吊り上げ。
それしか考えられなかった。
だれが。
どんな理由で。
なぜ。
なんで?
意味は?
それらが、まったくわからなかった。
どうしよう。
剣が買えない。
頭が真っ白になった。
だけどその日、一番にボクを困惑させた出来事はべつなことだった。
肩を叩かれた。
ボクは振り返る。
そこにはユーフがいて、その手には一本の剣が握られていた。
「はい、これ」
「……なにこれ?」
「確認してみて」
確認するまでもなかった。
ユーフから手渡されたもの。
それは、アールヴブランドだった。
「どうしたの? これ」
ボクは尋ねる。
するとユーフはいつも通りに。
普段通りに。
笑顔で。
照れた表情で。
優しい声で。
小さく。
微かに。
けれども明瞭に。
確かな声で云った。
「買ったの」
――500Mで。




