第二六話 有明の月
あ、と思うと同時、ボクは換装用のテトラムーンに武器を切り替えて、サンダーボルトを唱えた。暗雲がクリスタルタートルの頭上に形成されて、一瞬、びかりと白く瞬く。クリスタルタートルの躰が一度大きく跳ねて、ボクのことをぎろりとねめつけた。だけどそのまま、クリスタルタートルは地面に突っ伏し、動きを、息の根を停止した。
辺りを確認する。
周りに敵は……いない。
それを確認してから、ボクは真っ二つに折れた剣を拾った。
耐久力が減っていたのだろう。
そういえば、そういった管理をボクは怠っていたことに気づいた。
「…………」
それにしても、なんだろう。
なにか、違和感がある。
違和感というか、掻痒感?
いや、違う。
ボクは何を、考えているんだろう?
なにか、クリスタルタートルを攻撃した時に脳裏を掠めたんだけど……。
「うーん……」
少し考えてみたけれど、とくになにも思いつかなかったから、ボクは壊れた剣をぽいと捨てた。
後ろ首を手で二、三回ほど擦る。
「……困ったな」
このままテトラムーンを装備してダンジョンを突き進んでもいいけど、この剣は物理攻撃力がかなり低いから、これからは魔法を主体にして敵と戦わなければならないだろう。そのこと自体には問題はないけど、ここの敵は雑魚と云い切れるほど弱いわけでもないから、戦闘には魔法をたくさん使用することになる。そうなると当然、MP回復薬であるブルーポーションを大量に使用するはめになるから、今、ボクの所持しているアイテムストック量じゃ全然足りなさそうだった。ここを探索するにはもっと、アイテムを買い込む必要があるだろう。
ボクは一分ほど思考を巡らせてから、つぶやいた。
「もどろうか」
せっかく、ここまできたけど。
まあ、今日のところは下見に来たとでも思えばいいのかな。
「ギャフ、ギャフ!」
「どうしたの?」
「ギャフー!」
「あっちを見ろ?」
なんでだろう?
とりあえず、スカイが促す通りにボクはクリスタルタートルの亡骸にもう一度視線を転じた。
……あ。
レアドロップだ。
ボクはとたとたとクリスタルタートルの側まで走ると、そこに落ちてある盾を手に取った。
「これは、タートルシールドだね」
タートルシールドは亀の甲羅を象った盾で、レベル四二用の防具だ。クリスタルタートルがドロップすることで有名な装備品で、盾にはきらきらする結晶が散りばめられている。その結晶には反魔法効果があるらしく、ステータスを見てみると物理防御力よりも魔法防御力の方が優れているが確認できた。
「高く売れそうだな」
このゲームでは同じ品物でも、村や町によって売却値が変わる仕様になっている。デルパエでは防具の買取価格が基準値よりも低いのか高いのか、それはちょっと忘れちゃったけれど……ともかく、こんなふうに装飾の優れたドロップ品はそのレベル帯の装備品よりもワンランク上くらいの値段で買い取ってくれるケースが多いから、安価で買いたたかれたとしてもそこそこの値段にはなってくれるだろう。ボクはタートルシールドの売却費用を剣の購入費用のたしにすることに決めて、くるりと反転。スカイを頭に乗せて、そのまま、洞窟の入口へと走り出した。
入り口に至るまでの道程にはいくつかの分岐路があったけれど、そこまで複雑なものでもないから、記憶はとても楽だった。ボクはがしがしとMPを消費し、敵を蹴散らしながら迷う事なく帰路を進む。MPやSPなどの消費制限を考えなければ、ここらの敵はニルキリルの敵と同じくらい弱い。そういった感想をボクは抱いた。
走ること、約十分。
ボクとスカイは無事に洞窟から出ると、空はかすかに白んでいるのがわかった。
時間を確認すると、午前の四時過ぎ。
空にはまだ月が薄らと見えているけれど、もう朝といっていいだろう。
とても清々しい空気だった。
夜、たっぷりと寝たのに、なんだか少し、眠気を感じた。
このままの足で町へと向かい、拾得物の売買を済ませたら大体朝の七時頃だろうか。それまでにはどこか休むに適当な場所を見つけて、そこで温かいココアでも飲んで、それから一、二時間くらい仮眠を取ろうかな。それで九時には起きて、それからどうしよう? あまり、日中は町を歩きたくないから、近場でレベル上げできる場所を探そうかな。うん、それがなんだか良さそうだった。それでちょっと、観光気分に海辺を眺めながら、夜を待とう。
そんなことを考えていると、とても爽やかな気分になった。
観光地に宿泊した日の朝、早起きをして、一人で散歩しているみたいな、そんな気分。
やっぱり、ボクはこの時間が大好き。
夜と朝の境目。
この時間の、この世界が一番に綺麗だ。
ファジーで儚い。
ボクとスカイは、砂浜を歩く。
太陽が昇って、町の輪郭が明瞭としていく様子を想像して、わくわくした。
「もうすぐ、着くよ」
ボクはスカイにそう云った。
その声は少し、弾んでいた。
もう、敵の出現エリアは超えて、セーフティエリアに入った。
昨晩、ボクとスカイが共に過ごした海辺だ。
潮騒が大きく聞こえる。
太陽が顔を覗かせ、海面を輝かせている。
穏やかな光景だった。
世界の始まり。
そんな感じ。
それはとても美しくて、神秘的に感じた。
げし。
足に、何か感触があった。
視線を落としてみると、一人の少女がいた。
外国のお人形さんみたいに、金髪の少女だった。
どうやらボクは、この子を蹴ってしまったらしい。子どもを足蹴するなんて、ひどいやつだな、とボクはボクをなじる。
それにしても、こんな時間に海辺で何をしているんだろう? この子も、昨晩のボクたちと同じように砂浜で寝ていたのだろうか。それにしては全身ずぶ濡れのようだけど、海水浴でもしていたんだろうか? でも、よくよく考えるとどうもおかしい。この子が着ている服は至って普通の服だ。水着なんかじゃ決してない。
スカイがボクを見つめている。
助けてあげて、と云っているようだった。
しょうがないのでボクはため息交じりに片膝をついて、少女の上半身を起こした。
少女の躰は小刻みに震えていた。
やっぱり、少女は海水浴をしていたみたいだった。
きちんとした装備や対策もなしに海に長時間潜っていると、状態異常として低体温症にかかる。低体温症を治すにはこのゲームの場合、アイテムを使用しなくても暖かい陸地で十分くらい放置すれば自然に治るから、まあ、そこまで問題視することじゃないだろう。
「うあ、あう、あ」
少女が言葉にならない声を発している。
顔に血の気がなく、真っ青だった。
とても苦しそうで、目の焦点があっていない。
少女は、ボクを見つめている。
……いや、ボクの後ろに浮かぶ月を見ようとしてるか?
まあ、どっちでも関係ないか。
この子が月を眺めようとも、そうじゃなくとも。
ボクには、関係のないことだ。
ボクは万能薬を取り出して、少女に差しだした。
それなのに少女は万能薬を受け取らなかった。
受け取る余裕がない、という感じだ。
低体温症にかかると、かなり意識が朦朧とするのだろうか?
そういえば、と状態異常にかかった場合、実際にどんな影響を受けるのかチェックをしていないことを思いだした。いつかは実験しておかないと、咄嗟の時に困ることになるから、ボクは実験予定を記憶として脳裏に強く刻みこんだ。
ともかくとして、ボクはアイテムを彼女に渡して、その手に握らせた。そしてそのまま彼女の手をボクが動かして、万能薬を消費させる。
彼女の表情に血の気がもどっていった。
やがて、少女の瞳に光が宿った。
少女は目を薄く開けてボクを一瞥すると、よろよろと立ち上がった。ボクはバッグからタオルを取り出して、少女に手渡した。
「…………」
無反応だった。
キャラの見た目は完全に子どもの様だったし、きょとんとしている姿もどこか子ども染みていたから、ボクが代わりにタオルで少女の頭を拭いた。
「あいうあー、いーうえ。とー。とー」
「???」
なんだ。
なにを、話しているんだろう?
唐突に少女は話した言葉の内容が、よく、聞き取れなかった。聞き取れなかった、というよりは、別の言語を聞いているみたいな感じだ。
……いや、というよりも、なにもゲームをプレイしているのは日本人だけだと決まっていたわけじゃない。つまり、外国の人だってこの世界に閉じ込められている可能性があるのだ。それをボクは、失念していた。というか、もしかして海外サーバーもろとも閉じ込められているのか? 日本のサーバーだけじゃなく、全世界のムーンイクリプスプレイヤーが閉じ込められているのだろうか。
仮にそうだとしたら、この子は一体、何処の国の人なんだろう?
そういえば名前もどこか、外国人っぽいけど……。
さっきのは何語なんだろうか? 英語か? たぶん、英語のような気がする。
どうしよう。ボクは英語が本当に苦手で、be動詞で全てが止まっていて、そのbe動詞すらもとても危うい。というか曜日だって、水曜日と金曜日のスペルが書けないくらいに死んでる。いや、ちがう。金曜日は書けた。間違えた。火曜日と水曜日だった。ちがう! 火曜日と木曜日だ! それすらも明瞭と思いだせないくらいに終わってる。死んでる。
「えっと、えっと……」
何を云えばいいんだ?
とにかく、ボクに悪意がないことを伝えればいいのか?
じゃあとりあえず、ボクはあなたを助けたい……ってことにして……。
「I wish……wish……」
wish? あれ、違う気がする。
あ。
違う、違う。ボクが使いたいのはwillだった。
「I will you……save!」
「……」
無反応だ。
あれ、こんな短文で間違えたのか?
考えてみる。
間違ってた。
私はあなたをする……助ける! になっている。
だけど多少単語の順序が間違っていても、現地じゃ意味は通じるって訊いたことがあるんだけど、どうなんだろう。国内どころか自室に引きこもっているボクにはそれが真実なのかどうか判断できない。もしかすると発音が下手すぎたのかもしれない。理由を考えれば色々と浮かんだ。というか、これだけ話しかけているのにいくらなんでも無反応はないんじゃないだろうか。
相手の態度を貶して、自分の無能さを帳消しにしようとしている。
頭だけじゃなく心まで死んでいた。
惨めだ。
本当に死にたくなってきた。
死にたい。
死にたい、死にたい。
そんな感情を別の可能性が抑止した。
もしかして、この子も英語がわからないんじゃないだろうか。
だから英単語にすらも反応せず、ずっと黙っているんじゃないだろうか。
じゃあこの子が話せる言語はなんだろう?
ボクは考える。
拙い知識を総動員して、考える。
「あ、わかった」その結果を、ボクは口にした。「君は、フランス人だね?」




