第二三話 月明かりの下で
「見つけ次第、報告しろだとよ」
そんな声が、ボクの耳に入った。
いま、ボクは、人家の外壁に沿うようにへばりついている。近くには大きな樽があって、それがボクとスカイを三人の視界から遮断していた。しかし、体勢が体勢だから、この状態でもし見つかるようなことがあれば尋問は避けて通れないだろう。咄嗟のこととはいえ、ボクは平静を装ってすれ違ったほうが良かったかもしれない、と後悔した。
「めんどくせー。内規だから、内規だからって、あいついつもそればっかりだな」
「口癖になってんじゃね?」
「てか、なんであんなに偉そうなの?」
「それは、まあ、しかたないじゃん」
「今から捜索って。まじでめんどくせー」
「お前もそれ、口癖になってね?」
「うるせえよ」
そんな会話が聞こえた。
たぶん、多くの人はこれを普通の会話と認識するかもしれないけれど、ボクはこういう話し方に怖さを覚える。
近くにいるだけで、躰が硬直する。
三人は入口の前で、会話を続けていた。
会話が終わった後は、どこかに歩きだすのだろう。
その時、こっち側に来たら、まず間違いなくボクの存在に気づく。
そういった位置に、ボクはいる。
「んじゃそろそろ行こうぜ」
だれかがそういった。
動悸が激しくになる。
あいつらに見つかったら、ボクはどうなるんだろう?
ぼこぼこにされる?
ぼこぼこにされた時のこと考えて、呼吸が荒くなった。
それを必死に抑えこもうとして、余計に呼吸が荒くなる。
それでも必死に、耳をそばだてる。
音に、集中する。
足音は、あっちに向かっている。
こっちには来ない。
こっちには来ない……。
ボクは安堵する。
どんどんと、意識がクリアになる。
どんどんと、意識がクリアになる……。
「ギャフー!!!!」
スカイが、叫んだ。
三人組は立ちどまって、振り返った。
ボクは完全に油断していて、軽度のパニック状態に陥った。
視界がぱちぱちして、気づけばスカイの首根っこを掴んで走っていた。
「だれだ!」
と、聞こえた。
心臓が飛び出たかと思った。
なにがなんだか、よくわからない。
ただ背後から迫ってきている。
そんな気配がした。
逃げろ。
とにかく。
ガシャン、と何かにぶつかって、大きな音がなった。
ボクは派手に転倒した。
ごめんなさいと繰り返し、呟いた。
呟きながら、また、走り出した。
手足の感覚がない。
ただ走る。
苦しい。
だけど、後ろの気配の方がもっと怖い。
すこしでもスピードを落とすと、捕まえられて、ぐちゃぐちゃにされる。
その恐怖感が、苦しみに勝っていた。
それでも次第に、躰はいうことを聞かなくなって、ボクは両膝を地面についた。
過呼吸気味で、気持ち悪い呼吸方法だと思いながらも、ボクは汚く息をする。
咳き込んだ。
地面に倒れて、仰向けになった。
色んな人間が踏み歩いた地面であることを考えると、すぐにでも起き上がりたかったけど、ボクはそのまま、しばらくの間倒れていた。
どれくらいかして、ボクはボクをとり戻した。
むくりと起き上がる。
ここは、どこだろう?
町の建物はすべて同一の建築様式だったから、よくわからなかった。
周りに、人はいない。
スカイだけだ。
どうやらボクは、ワルリスの三人から逃げられたようだった。
……逃げられた?
どうして、逃げる必要があったんだろう?
今になって、そんなことを考える。
あの三人の中に、メグミンやイグニス皇帝はいなかったみたいだし、べつに逃げることはなかったんじゃないだろうか。そもそもで、隠れることすらも不必要だったんじゃないだろうか。
だけど。
最初に聞こえた言葉は、なんだったんだろう?
見つけ次第、報告とかなんとか……。
やっぱり、ボクは指名手配でもされているのだろうか?
イグニス皇帝なんかと、いざこざを起こしてしまったから……。
そう思ったけれど、なんだか自意識過剰という気もする。
あんなことで、ここまで捜索されるだろうか?
まあ、されるか。
ニュースとか見てると、本当に、つまらない理由で人はよく、殺される。
それなら、つまらない理由で暴行されるなんてことは、日常茶飯事なんだろう。
どちらが正しいかどうかではなく。
どちらが強いか偉いかで動く世界は、確かに存在しているのだから。
……だけど、やっぱりどこか腑に落ちない。
思えば、ボクがこの町に来ていることを知る人間は、どれくらいいるのだろうか。たとえばカールさんなんかは道中ですれ違ったわけだからボクがこの町にいることを知っていてもおかしくはないけど、通信手段が限られている今、そんな簡単にボクの情報が出回るとも思えなかった。
捜索されているのは、べつの誰か?
そう考えることは、逃避的なものなのだろうか。
一種の楽観思考的な。
当事者であるボクに、その判断はつかない。
「……ともかく、逃げよう」
汗で衣類が気持ち悪いけど、とりあえず、町から離れよう。
幸い、回復アイテムだけは補充してあるから、ボクはそのまま町を離れることにした。目的地は、デザイアーリ海岸。とくに何かする予定もないし、それならさっさとクエストを達成しに行ったほうがいいだろう。そう思ったけれど、今はまだ午後の七時過ぎ。この時間だと、まだ外をうろついているプレイヤーは多い。本格的に人が少なくなるのは、視界確保が必要となる午後九時以降だから、それまでどこかで時間を潰そう。
最初、海辺に行こうかと思ったけれど、そういえば、荷物が沢山あったことを思いだして、ボクはもう一度町に戻った。念のため、身を隠すためにマントを羽織り、メインストリートを歩く。流石に人が沢山溢れていて、あまり、好きな雰囲気じゃなかったけれど、これだけ人がいるとなると、逆にボクの存在は希薄になる。木を隠すには、というやつだ。しかし、それでもボクはギルドに入っていなかったから、また沢山、声をかけられるかもしれない。そういう恐れはあった。だけど皆は三々五々にグループを形成していて会話を楽しんでいるみたいだったから、ボク自体を視認することは余りなかった。
ボクはそそくさと銀行に入って、レリカが装備していた髪留め以外の拾得物を全部預けた。もちろん、ソティスの指輪も預けた。大分、スリム化に成功して、アイテム欄はスカスカになって、ボク好みの感じになった。心に余裕のないボクだから、なにかしら余裕のある状態を維持することは、とても気分のいいことだった。
ボクは銀行を後にして、それから今度こそ町を離れた。
時刻は八時。
ボクは海辺から、淡く光るデルパエを眺める。
急に温泉に入りたくなって、代替案として海に潜ろうと思って、止めた。
というより、視界の確保できない海に潜ることは、本当に死に直結する行為だから、止めた。
仮想世界でも、夜の海は少し、不気味だった。
ボクはスカイに寄り添って、仮眠をとった。
夜は少し冷えたから、スカイの体温が気持ちよかった。
それからどれほど眠ったのだろう。
目が覚めて時計を確認すると、深夜の一時だった。
単純計算で、五時間ほど寝ていたことになるから、仮眠じゃなくてガチ寝になった。
ボクは眠い目を擦って、起き上がる。
スカイも目覚めたようで、小さな欠伸をして、ボクのことを凝っと見ていた。
ボクは立ち上がって、辺りを見渡す。
なんだか、いやに明るい。
夜空を仰ぐと、大きな月が浮かんでいた。
月明かりの夜。
それはとても幻想的で、美しい。
だけど同時に、月は狂気を孕んでいることを思いだす。
なぜ、そんなことを云われるようになったのか、そういうのはちょっと、わからない。
ボクはただ、オスカー・ワイルドのサロメなんかを思いだして、あれ、なんか月と関係してたっけ、とそんなことをぼやっとした頭で考える。
それから装備や道具を確認しなおして、スカイの頭をぽんと叩いた。
ボクは云う。
「さあ、そろそろ行こうか」
しかし、スカイは何も答えず、ただ月を眺めていた。




