第一話 ムーン・イクリプス
いつの日かを境に、ボクはこの世界に閉じ込められた。その時、最初にとった行動はたしか、腕を大きく動かすこと。腕は、なにかに接触することなく本当に、ただ空を切った。ボクの部屋はデッドスペースすらデッドさせるくらいに物が溢れているというのに、この腕が感じたものは澄んだ大気だった。
ボクは今度、右手を左から素早く払って、落した。それはエグジットメニューを表示するためのジェスチャコマンドだったけれど、いつまでも経ってもキーボードは表示されなかった。
センサーがいかれているのかと思った。
ヘッドマウントディスプレイを外そうと思って、ボクは両手を頭に近づける。触れたのは温かい肌と、柔らかな髪の毛。触り慣れた心地をボクは感じた。
どうしよう。
ログアウトをとる手段が見つからない。
それどころか、現実と虚構の区別がついていない。
自分が危うく思えた。
発声してみる。
ぼそぼそしていて、気持ちの悪い声が頭のなかに響いた。
電子機器から発せられる音声ではなく、肉声の様だった。
ボクはもう一度あたりを見渡す。
そこは一面草原で、美しい自然が広がっていた。
「スカイ」
ボクが呼ぶと、スカイは鳴いて近づいてきた。
躰に触れると、ボクと同じで温かかった。
脈打って、心臓から血液が全身へと送られている様子がわかった。
ボクはスカイを抱きしめる。
「捕まえた」
そういうと、スカイはきゃらきゃらと笑った。
ボクは、この目の前に存在するスカイが本当に生きているのかどうか考える。だけど、そもそもで生きているかどうかなんてことは、ボク自身にも云える問題でもある。本当の意味で、この躰は生命活動を行っているのだろうか? そもそもで、本当の意味での生命活動というのはどういうことなんだろう?
現実と虚構の差異が、なんだかよくわからなくなってきた。
だけど、それもすぐにどうでもよくなった。
とどのつまり、この肉体がどんな物質で組成されているのであれ、ボクがボクであることは変わりないことだから、あまり気にするような問題じゃないだろう。
どうしてこうなってしまったのか、それはわからないけれど、ボクは怠惰なプレイヤーの一人で、ただのちっぽけな人間であることに変わりはない。
やることは同じ。
ボクにはこの世界しかなくて、ボクにはこの人生しかないのだから。
だから、気にしないことにした。
しかし、そうはいってもとボクは思考する。だって、もしかするとこの世界はボクがゲームのやりすぎで死んでしまったことで生まれた世界なのかもしれないからだ。
つまり、死後の世界。
理屈で考えたとき、その可能性が一番高いと思った。
だけど、その理屈は後日、すぐに撤回することになった。
ボクの他にも、この世界に閉じ込められたプレイヤーが数多くいるということを知ったからだ。
まあ、そのプレイヤーさえもボクの生み出した虚構なのかもしれないけれど、それは小さな町に寄った際に、広場に集まっている人々の会話内容を訊いていて虚構説ではどうも説明できない事柄多くあったから、すぐに否定できた。
ボクの知識では知りえない情報が飛び交っている。
ムーン・イクリプスに関する情報はもちろん、現実世界での情報でまったく知らない分野の会話が行われていた。
一つだけじゃない。
多種多様な会話が町では飛び交っていた。
一度、町で声をかけられて、情報を交換するためにプレイヤーと会話を交えたのだけど、彼らはどうもボクの中には存在しえない人格に思えた。
そもそもで、この目に映った総てのプレイヤーの行動を、ボクが決定しているとは考えられない。
ボクの頭に、そこまでの演算能力はない。
しつこくギルドに勧誘されることが増えて、それを苛々しながら断り続けている自分に気づいたとき、ボクの中で虚構説は完全にありえないものだと考えるようになった。
この世界には大勢のプレイヤーが存在している。
だけどそれは、割とどうでもいいことだった。
ボクは、スカイと共にいられればそれだけで幸せなのだから。
他の人間のことなんて、どうでもよかった。