曙 -明けの明星ー
最終話です。
夢を見ていた。長い長い夢を見ていた。そんな気がする。
二人が我に返った時、襖の外から足音が近づいてくる。瞬時に二人は理解した。あの白昼夢は、いずれ来るかもしれない未来。望めば手に入る甘美な夢なのだと。
今、互いの手を取りいずこかへ逃げ果せたならば、この夢の続きも見られるだろう。
しかし雅臣が言った生きろ、という言葉は、その願いは、全てを捨てる事ではないはずだ。他の繋がりを全て棄て、互いを縁にする事で得られる幸せではない。
二人は視線を交わした。
その刹那、二人は互いの想いを共有したのだ。不知火は力強く微笑んだ。
不知火はひらりと身を返すと塀を飛び越え、篝山の方へと走り去った。それと同時に襖が開き、高政や家の者が各々武器を手に飛び込んでくる。
「雅臣!無事か!?」
肩で息をしながら高政が大股で雅臣に近寄る。
「鬼は!?」
「私が声をあげると逃げていきました。西に向かったので篝山には帰らず、どこかに身を隠すつもりなのでしょう。」
「そうか。皆!鬼は西へ逃げた!!西の警備を強めろ!!」
周りの人間に指示を出すと、高政はポン、と雅臣の肩に手を置いた。
「よく知らせてくれたな、雅臣。お前に怪我がなくて良かった。」
肩に置かれた高政のどっしりとした大きな手を、熱く重く感じながら雅臣は篝山に意識を投じた。
篝山の方角である東の警備は手薄になるだろう。そうなれば不知火が逃げおおせる確立は高くなる。生きてさえくれれば良い。それは、最後に視線を交し合ったあの刹那に強く感じた願いだった。共に見たあの夢とは違う生き方を。
不知火を見送る雅臣の瞳には生きる意志が宿っていた。人生を諦め、生きる事が曖昧だった頼り無げな瞳はもう無い。それは不知火も同じだった。何をしても虚無感しか得られず、生きる事を諦めただ惰性にのみ従って命を長らえ、それでもなお縋れる何かを探し求めていた孤独な輝きは、不知火の瞳に存在しなかった。
雨は止んだのだ。
*****
「義兄さん、少し出かけてきます。」
「ああ、気をつけろよ。」
あれから数年の時が経ち、少しずつだが色んなことが変わった。雅臣は蔵だけでなく、店の帳簿もつけるようになり店に顔を出すようになった。散歩や店の使いで以前より外出も増えた。初めは難色を示していた町の人々も、勤勉に働く雅臣の姿を見てその態度を改めるようになった。これまでとは異なり、雅臣自身が積極的に町の人々に関わろうと努力した事も大きいだろう。
人から優しくされ慣れていない雅臣は、戸惑っているのか少し困ったように、しかしよく微笑うようになった。少し伸びた襟足を一つに束ねた雅臣の笑顔は、それでもどこか少し寂しげだった。
篝山でもまた寂しげに微笑む者がいた。不知火だ。ある日、もうじき梅雨が明けようかという夕暮れ、木の上で枝に身を委ねながら昼寝をしていた不知火は、眼下からの声で起こされた。
「不知火!!」
まどろんでいた意識を現実に引き戻された不知火は、少々不機嫌に木の上から飛び降りた。
「何の用だ、桐生。」
そこにいたのは若干の幼さは残るものの、以前よりも逞しさを増した桐生だった。若頭としての貫禄もつき始め、その目には自信が溢れている。
「もう日も落ちるのに何処に行ったのかと思って。もうじき夏とはいえ、風も冷たいよ。」
そう言う桐生にくるりと背を向け、歩き出した。
「不知火?何処へ行くの!?」
「散歩だ馬鹿。心配してんじゃねぇ。」
そう言って、不知火は優しく笑う。不知火は今、鬼の若衆の幹部になり桐生の補佐をしていた。あの日、雅臣の所から山へ帰った時に決めた事だ。
鬼の血を受入れ、鬼として生まれた自分を受け入れる。それが、「生きる」ことだと思った。鬼を憎み、鬼である自分を憎み、過去に縋って縛られて屍のように生きる事は、雅臣が願う生き方ではないと思った。
雅臣にも、そんな生き方をして欲しくないと思ったから。どれほど辛い境遇であろうとも自分自身を受け入れ、前を向いて進む。それがあの日二人が無言の内に交わした誓いだった。
不知火が眠気覚ましに山を歩いていると、麓近くの小さな小川に出た。久しぶりに昔の夢を見た所為か、何となく気分が晴れない不知火は、冷たい水でもかぶろうと着物が濡れるのも気にせずに川の中へ入っていった。踝が浸かる程度の浅い川だったが、指の間を攫っていく水が心地よかった。
不知火が川に入ると同時に、足元から小さく光るものが無数に浮かんできた。淡い黄色の光。蛍だった。不知火の気配に驚き、飛び出したのだろう。まだ暗くなる前だったが、その光は充分に美しかった。
『姉と二人で見に行った事がある。見事だったよ。』
雅臣の声が蘇る。
(ああ。確かに見事だな。)
「蛍って、こんなにも美しかったんだな。知らなかったよ。・・・・・・・一緒に、見たかったな。なぁ?雅臣?」
不知火は、この心に染みる風景を噛み締めながら、そっと呟きを風に混ぜた。
一方、町では、雅臣が高政に断って外出していた。表通りを歩くのはまだ抵抗があるのか、人通りの少ない道を選んではいるが、すれ違う人と挨拶を交わすなど幾分外出にも慣れたようだった。
今日の外出には目的があった。果たされなかった約束を果たすと言う目的が。
雅臣は、町の外れにある小さな川へと辿り着いた。幼い日に姉と来た場所。不知火と、共に来ようと約束した場所。
誰もいない川のほとりで、雅臣は一艘の小船を浮かべた。その上に灯篭を乗せそっと火をつける。本来は盆の時期に流すものだが、蛍を見ようと約束したこの時期が相応しいと雅臣は考えた。そもそも何を流すのか、曖昧であった。それは静の魂であり、紅子であり、きぬであり、不知火が出会った人々であり、不知火が背負ってきた悲しみであり、生きながらにして死んでいた、昔の自分であった。
色んな想いを小さな灯に託して、この約束の場所から海へ送ろうと雅臣は思ったのだ。むろん捨てるつもりは毛頭ない。抱え続ける為に。忘れないために。雅臣は小船をそっと、川の流れに預けた。
その刹那、つむじ風が舞った。すると、草の陰からふわりと、蛍が数匹飛んだ。ぼんやりとした光の粒が風に揺られて浮き上がる。それに釣られる様にして何匹もの淡い光が雅臣を取り囲むように行き交う。驚いたようにその光を見つめていると、風に乗って不知火の声が聞こえた気がした。
『一緒に、見たかったな。なぁ?雅臣?』
その声にハッとして辺りを見回すが、当然のように誰もいなかった。果たされなかった約束。しかし、果たされなかったからこそ、この約束を胸に抱えいつまでも生きていける気がした。雅臣は小さくなった灯篭を眺める。
あの炎はいつか海に辿り着き、有明の海に浮かぶ漁火に同化できるだろうか。夜の海を照らす漁火の、七色に輝く陰のような光に溶ける事が出来るだろうか。
できればそうであって欲しい。近づくほどに遠ざかる彼と同じ名の光と共に、いつまでもこの想いがあるように。
同じ想いを秘めながら二人は、同じ空の下同じ風に吹かれながら、東の空に浮かんだ同じ月を眺めるのだった。
読んで頂きありがとうございました。
周りから見れば不幸なんだけど、本人達は幸せ。あるいはその反対のラストを最近は
「メリーバッドエンド」と言うそうですね。
今回もそれになるのでしょうか。
ちょっぴり不幸で、でも自分で選んだ未来なのだから悔いはない、と言う話にしたかったのですが。
何はともあれ、無事完結できて良かったです。
反省点はたくさんありますが、次回に活かせたら良いなと思います。
この話はこれで完結ですが、番外編を二つほど考えておりますので
書き上がりましたら投稿したいと思います。
その際またご覧頂けると幸いです。
ちなみに「虹翳」は造語です。
火の周りにコロナのように浮かぶ、何色とも言えない蜃気楼のような淡い光をイメージしてます。