午睡
「不知火。」
林道を歩いていた不知火に、白い鬼が声をかけた。
「…桐生。」
白銀の長い髪、真っ白の角、着物も白を基調とした質の良いあしらい。名を桐生と言った。不知火よりも見た目は幼く、まだ少年のようなあどけなさを残している。不知火を呼び止めた声もまだ凛と高い。
「何か用か。」
「最近よく出かけるね。」
「俺の勝手だろう。」
「また人間に肩入れしているの。」
「お前に関係ねぇ!!」
咆哮する不知火の迫力に、桐生は少し気圧されつつも視線は決して外さない。
「今度の相手には随分入れ込んでるんだね。人間と関わるのはそんなに面白い?」
不知火は今度は無言でその場を去ろうとした。
「あまり入れ込みすぎちゃダメだよ、不知火。人間なんてすぐ死んじゃうんだから。…前の子みたいにサ。」
ガッ!!
不知火の爪が空を切り、桐生の頬を掠めて彼の顔の横にあった木の幹を抉った。
「…黙れ。」
激昂する不知火の瞳を見つめていた桐生は嬉しそうに笑う。
「良いね。その眼、僕好きだよ。鬼らしくて、良い。」
チッと舌打ちをして不知火は歩き出した。
「忘れないでね不知火。僕たちは鬼なんだよ。人間とは決して交わることはできない。同じ時間を生きることも、同じ道を歩く事もないんだ。」
桐生の言葉を背に、不知火は山を降りていった。
*****
「毎日毎日、飽きもせずご苦労な事だな。」
もはや何度目か分からない不知火の訪問に、雅臣は感嘆の声を漏らす。
「良いだろ、別に。お前と話すのは落ち着くんだ。」
無遠慮に部屋に上り込んだ不知火は、いつも雅臣が向かっている文机の前に来て、机上の巻物や帳面に興味を示した。
「お前、いつも何書いてんだ?」
「店の帳簿だ。ここは代々呉服店を営んでいて、つい最近義兄が店を継いだばかりでな。私は蔵の管理を任されているから、義兄が買い付けてきた反物や買われていった着物をこうやって記録している。」
「こんな屋敷の奥に閉じ込めてかよ。」
「私が望んだ事だ。私が表に顔を出すのは店の評判を落とすことになるから。」
「…どういう事だよ。」
「・・・・・・・・・・・・」
雅臣は自嘲めいた微笑みで不知火を見つめた。
*****
義兄などと呼んではいるが、あの男は従兄にあたる。ここの先代、つまり、義兄の父親の妹が、私の母だ。
今から30年ほど前、母は隣町の地主の長男に嫁ぐ事が決まっていた。だが母にとっては家同士が勝手に決めた望まない婚姻。母はそれに反抗して、違う男の子どもを身ごもった。祖父は激怒し、母を勘当したそうだ。
母は数里離れた色町へ逃げ、そこで姉を産んだ。数年後、遊女に身を落とした母は再び子を身ごもり、私を産んだ。だが産後の肥立ちが思わしくなくずっと伏せっていたが、私が3つの時に亡くなった。
身よりをなくした私たち姉弟を引き取ってくれたのが母の兄であるここの先代だった。祖父は既に他界していたから、揉めることなく私たちを迎え入れる事が出来たのだろう。伯父も伯母も従兄も、とても良くしてくれた。特に従兄は、街の子どもたちの輪からはみ出した私たちをずっと守ってくれていた。私たちや母の事は町中が知っていたから、この家の外に私たち姉弟の居場所はなかったんだ。
やがて年月が流れ、姉と従兄が婚約した。その時、従兄は義兄になったわけだ。これで、この家の余所者は私だけになったが、皆変わりなく接してくれた。姉が亡くなった今でも、義兄は私を家に置いてくれている。少しでも恩返しがしたいと思い、店の仕事を手伝い始めたのだが、私が表に出ていると世間体が悪い。どこの馬の骨ともしれない男の子どもを2人も産んだ、売女の子だと、昔から蔑まれて来たからな。だから店から最も離れた離れに部屋を貰い、義兄を手伝っているのだ。
*****
「聞きたい事は仕舞いか?」
「お前はそれで満足なのか?」
「不満はない。元より無い命だ。これ以上望む事は何もない。」
「…馬鹿野郎。」
穏やか過ぎる口調に不知火は苛立つ。気まずい沈黙が二人を包んだ。
その空気を払うかのように、不知火が突然口を開いた。
「蛍。」
「…は?」
「蛍って、どこ行ったら見れんだ?」
「随分と唐突だな。」
「昔話を話したり聞いたりしたせいかな、紅子が言ってたことを思い出したんだ。あいつ、急に蛍が見たいと言い出しやがった。何でも町外れの川原で大量に蛍が見られる場所があるんだとよ。近くの小屋に風変わりなじいさんが住んでいて、蛍の幼虫育ててその川に放してるらしいぜ。」
「ああ、そこならば伯母に教えられて、姉と二人で見に行った事がある。見事だったよ。」
空気が穏やかになったのを感じ、二人は顔を見合わせ柔らかく微笑んだ。
「一緒に見に行こうぜ。案内しろよ。」
「…分かった。夏になったらな。」
雅臣は、自分が表を出歩く事を快く思っていなかったので店の遣いなど必要な場合を除いて、極力外出は控えていた。しかし不知火の気遣いに感謝を込めて、首を縦に振った。
また不知火も、雅臣が先程語った出生のために外に出ようとしない事に気付き、話を持ち出したのだ。出逢って間もない二人の間には、互いにが互いを思い合う信頼が芽生えていた。
*****
「雅臣。」
その夜、高政が雅臣の部屋を訪ねた。
「義兄さん?どうかしましたか?」
高政は部屋の中央にどっかと座り込み、雅臣に向き直った。
「このところ、調子はどうだ?」
「何も変わりはありません。穏やかで平穏な日々です。」
「そうか。それならば良い。いや、実は最近この近辺で鬼をよく見かけるという話を聞いてな。」
それを聞いた瞬間、雅臣の心臓はどきりと音を立てた。あくまで平静を装い、義兄の話を聞く。
「それも夜、闇に紛れてなどではない。真っ昼間から堂々と姿を現すらしいのだ。」
「鬼がどこへ行くのか、見た人はいないのですか?」
「皆、怖がって部屋に籠もってしまうらしく、鬼の行き先は誰も見ていないそうだ。」
「…そうですか。」
雅臣は心の中で安堵のため息をつく。懸念していた事だった。白昼堂々山から下りてくる不知火の姿は、やはり目撃されていたらしい。その行く先まで発覚していないのは幸いだ。
「何度も言うようだが、くれぐれも気をつけるのだぞ、雅臣。ここは母屋から離れている上に裏通りに面しているから人の気配がない。何かあってからでは遅いのだ。」
高政の最後の言葉は、どこか自分に向けて言っているようにも見えた。
「はい。充分に気をつけます。」
常日頃からめったな事では表情を崩さない雅臣の性格が功を奏し、心中の焦りは高政には伝わらなかったようだ。雅臣は物憂げなまま目を伏せ、続く高政の言葉は半分も耳に入ってこなかった。
海風によって運ばれる潮の香りに混じって、微かに雨の匂いがした。夜の内に降り出すかもしれない。そんな事を考えながら、雅臣は厚い雲に覆い隠された月に想いを馳せるのだった。