薄日
鬼ってやつは人間なんぞに比べてずっと長生きだ。お前も見た通り、運動能力も回復力も人間のそれとは比べものにならねぇ。俺もお前なんかよりだいぶ長く生きてる。その分、色んなヤツらと出会ったよ。
言っとくが、俺だって最初から人間が気に入ってた訳じゃねぇ。始めは里の仲間と同じように人間なんて食料か慰みものに使うくらいにしか考えてなかった。人間共の討伐とやらで仲間も随分殺された。弱いくせに、徒党を組んで刃向かってくると厄介だし、姿を見かけりゃ喧しく悲鳴を上げる。面倒くせえ生き物だとしか思ってなかった。
でもな、ある時一人の女に会ったんだ。
そいつは川原で独りっきりで立ってやがった。辺りももう薄暗くなってるってのに、何をするでなくただじっと立ってんだ。腹は減ってなかったから放っといても良かったんだが、ちょっと脅かしてやろうと思って俺はそいつに声を掛けた。俺の姿を見れば大声上げて腰を抜かすだろうと思った。なのに、そいつは俺の声に振り返っても悲鳴ひとつ上げずに平然とこんばんは、なんて言いやがる。
目が見えなかったんだ。
何してんだ、と俺は聞いた。そしたらそいつは水の音を聴いています、と言った。俺はそいつに興味を持った。
年の頃は十二、三。どこにでも居そうな、素朴な娘だった。名をきぬと言った。
「この町の人ではないですね?初めて聞く声です。旅の方ですか?」
「ああ、まあな。」
「良いなあ。私、生まれつき目が見えないから羨ましい。たくさんの綺麗な風景を貴方は見てきたんですね。」
「綺麗なばかりじゃねえぜ。見ない方が良い事もたくさんある。」
きぬは黙って微笑んだ。そしてそのまま、色んな事を話した。幼くして身よりを亡くしたこと、町の奴らは優しくしてくれるが、大した手伝いも出来ないから世話になってる家に恩を何も返せずにもどかしいこと。町の奴らには話せないことを聞いてくれる相手が欲しかったんだろうな。俺が名を教えると変わった名前だ、と言って笑った。穏やかな娘で、傍にいると不思議と心が落ち着いた。
だが、そうしている所を村の連中に見られたらしく、きぬは俺の正体を知っちまった。次の日に川原で会った時、きぬと一緒に町の奴らが待ち伏せて居やがった。きぬは激しく俺を罵った。
「お前たちのせいで父さんや母さんは死んだんだ!!」
きぬの両親を殺したのは俺の同胞だったらしい。・・・・・・言葉も出なかった。きぬの目からは次から次へと涙が零れる。昨日の穏やかな口調からは想像出来ないほど、声を荒げて泣きじゃくっていた。
「…悪い。」
俺がそう言うと、きぬはひどく傷ついた顔をした。自分の言葉が俺を傷つけたと思ったんだろうな。
俺はあの時、謝っちゃいけなかったんだ。俺は鬼らしく振る舞うべきだった。俺が傷ついちゃいけなかった。俺は謝る事で、きぬの憎みを封じてしまった。
…きぬは、何か言いたそうにして、そのまま走って去って行った。何人かがその後を追っていったから、その隙に俺も逃げた。
人間ってぇのは、複雑に出来てんな。手前がボロボロに傷ついてんのに、他人の心配をしやがる。それからだ。俺が人間を知りてぇって思うようになったのは。
仲間にバレねぇようにこっそりと色んなヤツを見てきた。そうすると、たまに俺に興味を示すヤツがいるんだ。こっちが声かけてみても、逃げねえヤツ。最初は怖がってるのかもしれねえが、慣れてくりゃ話ができるヤツ。まあ、そう言うヤツらは、「変わり者」なんだろうな。
俺をなぜだか兄のように慕ってきたガキ。せい太と言って、野犬に襲われているのを助けて以来、俺の後をくっ付いてまわってた。犬っころみてぇに俺の言うこと何でも信じて。
「不知火は良い鬼なんだろう?だって他の鬼と違って優しいもの。」
「俺は優しくなんかねぇ。」
「目を見れば分かるよ。不知火は優しい。母ちゃんは鬼は悪いヤツばっかだって言うけど、不知火は違うよ。不知火は、良い鬼だ」
そう言って屈託なく笑いやがる。だがコイツは、流行病であっけなく死んじまった。人間て弱ぇなって、そん時改めて思ったぜ。
そして誰より風変わりだったのが紅子っつう女だ。庄屋のひとり娘だけあって、派手でわがままな女だった。美人だがやたら気位が高くて偉そうだし、他人の注目を集めるのが仕事だと思ってるような、だけどそれを魅力に変えちまうような華やかな女だったよ。
紅子はやたらと俺に構いたがった。珍しいものが好きな女だったから、俺に興味がわいたんだろう。俺を見かける度にこっそり話かけて、気を引こうとしやがる。
「ねえ、不知火。鬼の血を飲めば鬼の力が手に入るって本当?」
「どこからそんな話聞いて来やがった。」
「おばあ様は物知りなのよ。ねえ、本当?」
「知るか。」
「それがもし本当なら、不知火。私を鬼にしてくれる?」
「バカを言うな。んな事、一族じゃ最大の禁忌だ。できる訳ねぇだろ。」
「なによ、つまらない。禁忌だの掟だのって。鬼も案外お堅いのね。」
「鬼になりてぇのか。」
「そうよ。」
「何故。」
「人間なんてつまらない。掟だとか慣習だとか、古臭い考えで固められてて。それを護る事しか考えていないの。そんなカビのはえそうな考えじゃあ新しい世界は築けないわ。」
そう言って花のように紅子は笑った。どこまでも自由な女だった。
だが紅子も死んだ。快活で意志の強い女だったが、あっけなく死んだよ。
山の麓で血まみれになってる紅子。その横で、そいつは笑った。
『これで君をつけ回す五月蝿い女はいなくなったよ。』
*****
「どうかしたか?」
「え?」
不知火がはっと我に返ると雅臣がじっと見ていた。書き物の手を止め、不知火の話を聞いていたようだ。
「急に黙り込んだが…。」
いつの間にか不知火は己の回想に思考を奪われていたらしい。不知火は少々ばつが悪そうに笑った。
「悪ぃ。どこまで話したっけ。」
「…紅子さんが亡くなったと話した瞬間に黙り込んだ。」
「そうだったかな。」
「紅子さんは、何故亡くなったんだ?病か?」
「まあ、そんなトコだ。…紅子が死んだ時、俺は悲しいのか悔しいのかよく分かんねぇ、変な気分になった。怒りでもねぇ。憐れみでもねぇ。…ただ、人間と鬼は、相容れねぇ存在なんだって、身に染みた。それだけだった。」
雅臣は、切なげに空を見つめる不知火の瞳に鈍い光を見た。
「何故、私にそんな事を話す。同情でも引きたいのか。」
「違ぇよ。お前が聞いたんだろ。何で自分に構うのかって。だから話した。悪ぃか?」
何の悪びれもなく言い切る不知火を見て、雅臣は妙に得心がいった。
「なるほどな。」
「…何が。」
「分かった気がする。なぜお前を助けたのか。」
「へぇ。」
この、あまりに人間的過ぎる鬼に、雅臣は自分に近しいものを感じていた。
「お前は私と同じ目をしている。その、全てを諦めた瞳。生きることも、死ぬ事すらも諦めた瞳。死なせたくない。そう、思った。」
そして、自分にはない、孤独を湛えながらも何かを求める一筋の光。それを見た瞬間、そんな瞳をした敵に興味を持ったのだろう。
彼が話した悲しい出逢いと別れの数々。それが不知火の孤独を生み出したのなら、彼は何を求めているのか。何を信じようとしているのか。
そんな事を考えている間に、雅臣は完全に不知火の事を信用している自分に気付き、苦笑する。
「何笑ってんだよ。」
「いや、何でもない。」
「似てる…か。そうかもな。あの晩、お前を殺す気になれなかったのは、そのせいかもしれねぇ。」
不知火もまたあの雨の夜、雅臣の寂しげな瞳を見て何かを感じていた。傷は負っていても不知火は鬼。その爪と牙は容易く雅臣の命を奪えたはずだった。それでもそれをしなかったのは、その「何か」を感じたから。
その後二人はぽつりぽつりと話をした。二人の間のぎこちない空気はいつの間にか消え去り、穏やかな、古くからの付き合いのような親しい空気が覆っていた。