表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ハジマリの場、オワリの所  作者: 雨天紅雨
■2041年
99/790

10/17/07:15――中原陽炎・朝の来訪者

 朝方に走るのは中原(なかはら)陽炎(かげろう)の日課だ。

 去年から実家を離れ一人暮らしをしながらも、しかし中原流薙刀術を未だに継承しきっていない未熟な陽炎は、兄にその立場を預けつつ鍛錬だけは欠かさぬよう心がけていた。その一つが朝の走り込みだ。

 マンションから出て三キロ先にある貯水池を中心にした公園の外周を二十分ほど走り、休憩をおいて自宅まで走るのが普段の流れだった。

 のだが。

「……さて、帰るか」

「ちょっとちょっと! 完璧に無視ってどうなの!?」

 どうしてかベンチで寝転がる同級生を発見し、事情はともかくどうすべきか考えつつ公園を走り、そのベンチを横切るたびに視線を反らしていたのだが、しかし最終的に見なかったことにしようと決めた途端に彼女は。

 橘七はそう言って起き上がった。

「うーん、俺としてはどう考えても厄介だなと結論に至ってさ」

「か弱い――」

「かどうかは置いといて」

「少女が」

「可愛いかどうかは前置きしないんだ?」

「……あたし、嫌われてる?」

「そうじゃないけど、なんとなく。それでどうしたの橘さん――じゃなく、七さんって呼んだ方がよかったっけ?」

「うん、名前で呼んで」

「どうしたの。俺としてはダンボールか新聞紙をそっと差し出すくらいの気遣いが妥当かなと思ってるんだけど」

「ひどいなあ。陽炎ってそんなんだったっけ」

「さあ、俺は俺だから」

「えっとね、昨夜にね、実家が炎上しちゃってさ」

「さようなら」

 背を向けて走り逃げるよりも前に、襟首を後ろから掴まれた。

「なんで逃げるかなあ」

「なんで捕まえるかなあ……嫌な予感しかしないんだけど」

「とりあえずシャワーくらい浴びたいのね?」

「そこの貯水池にたくさんあるよ」

「陽炎んとこ行っていい?」

「俺、私生活に他人を招き入れるほど度胸ないんだけどなあ」

 そうくると思ったから逃げようとしたのに、と思いながら視線を合わせる――いや、這わせる。寝巻きとは少し違うようだがワンピース姿は似合っていなくもない。やや小柄で顔立ちもよく、やや丸顔か。手荷物はないようだし、炎上が事実かどうかはともかく、シャワーが浴びたいのは本音か。

「な、なに? 直視されると結構照れる……」

「ふうん……条件あるけど、まあ仕方ないね。どうせ俺を待ってたんだろうし」

「あ、バレた」

「わかりやす過ぎだよ。距離があるから走るけど?」

「ついてく。でもあんま早く走らないでよね」

「そうか」

 頷き、一歩目から全力疾走した。

「ちょっ、今うんって頷いたじゃん! この嘘吐き!」

 急停止、振り返って急発進して戻る。

「俺は嘘などついていない! 肯定の意味合いではなくただ相槌として首を縦に振って見せただけだ!」

「え、あ、うん、――わお。どしたの」

「あ……ああ、ごめん。でも俺は嘘吐きじゃない。いいね?」

「……うん。いや、勢いで言っただけだし過敏に反応されても……なんかヤな思い出とかあるの?」

「嘘吐きと言われたくないだけだよ。アレと一緒にされると自殺したくなる。……しょうがない、軽く走るから」

「おっけ。逃げないならそれでいいよ」

 とはいえ、普段のペースで走っても七は追いついてきた。息切れもしていない――さすがは橘だ、と陽炎は思う。

 そもそも橘七との関係はあくまでもVV-iP学園で同室である程度のものだ。会話はそれなりに行うし、お互いに暗殺代行者の橘と武術家の中原との面識はあるのだが、それ以上も以下もない。

 実家を離れていても最低限武術家としての日常を過ごしていると話したこともないし、暗殺を生業にしてはいないと聞いたこともなかった。

「――到着」

「わお、ここが陽炎の家?」

「マンションの一室だよ。三○三号室になるのかな」

 エントランスに入るのに認証があり、エレベータで更に違う認証がある。それら手続きを済ませて三階の三号室にて、二種類の認証を済ませて中に入った――と。

「七さん、どうしたの?」

「えーっと……」

 中に入ろうとせずに立ち止まった七を振り返ると、どこか困ったように視線を逸らされた。それを見て気付き、ああと頷く。

「そうだね。――どうぞ、いらっしゃい」

「あ、どうも。お招きありがとう」

 ただの礼儀、ではない。ここに陽炎が住んでいる以上、この場所は中原の領土だ。故に部外者が立ち入ろうとするのならば、手順を踏む必要がある。そのもっとも簡単なのが、当人に招き入れてもらうことだ。

 これは特に異質な相手に使う。一般人ならばどうということはないのだが、おそらく念のためだろう。

「シャワーはそっち。朝食はまだだよね?」

「お構いなく」

「いや俺も食べるから。簡単なものだけどね。珈琲は大丈夫だった?」

「ありがとー」

 本気でシャワーを浴びたかったのか、七はバスルームに直行してしまう。ため息を落とした陽炎はひとまず自室へ戻り、ジャージから普段着の和服へと袖を通す。袴装束もあるのだが、どうしてか走りこみはジャージで鍛錬時にしか着なくなってしまった。

 浴室に入った七を確認して脱ぎ捨ててあった衣類を洗濯機へ投げ込み、代わりの寝巻きを置いておく。サイズが大きいが寝巻きなので着れないこともないだろうとの判断だ。それからキッチンへは向かわず――七の入浴時間がわからなかったためだ――趣味の部屋へ足を踏み入れた。

 一面が鏡張りで、しかも壁という壁がクローゼットになっている、いわゆる文字通りの化粧室――いや化粧部屋か。やろうと思えば散髪もできたりするが、さておき。

「姉貴の服……しかないよなあサイズが」

 陽炎は基本的に身内しか部屋に上げない。頻度が最も高いのは小薙刀を扱う姉だ。あれはどうも、陽炎のことをメイク係くらいにしか考えていない節があり、余所行きをする時は必ず寄る。まあ趣味なので望むところなのだが。

 着物は後で吟味するとして、とりあえず下着くらいはと傍の箪笥から取り出す。新品のストックがあったので良しとしよう、色は白だが陽炎の趣味ではなく無難だからだ。それに先ほど洗濯機に入れた七の下着も白だった。

 浴室に戻り、それらを置いて。

「――七さん、何か足りないものとかある? 適当に使っていいから」

「あ、はあい。だいじょぶ」

「それと時間はかかる?」

「え? あー十五分くらいを目安にしといてー」

「わかったよ。ごゆっくり」

 ならばそう気遣いせずとも良さそうだとキッチンに足を踏み入れた陽炎はまず珈琲を落とすことにする。朝食はどうせトーストとスクランブルエッグにサラダだけだ。昨夜の残りもののパスタとトマトでも添えて。

 ――鷺ノ宮の関係かな?

 豆を手で回して挽きながら思う。比較的早い段階で実家から変異化が少なくとも二箇所で発生していることに関しては連絡が入り、決して手を出すなとも言われた。鷺ノ宮の崩壊に関しても、望まぬ形で情報が入ってきてしまったのだが、それとも陽炎の日常が劇的に変わるほどではなかったため、走りこみに出た。けれども、劇的ではないにせよ、これもまた影響の一つなのだろうか。

 いずれにせよ、何かしらの理由があったのだろうと思う。けれど陽炎には己を選択した七の理由を推測できない。それは付き合いの短さと浅さを証明している。

 ――都合が良かったんだろうけど。

 だったらこちらの都合を少しくらい押し付けても構いはしない。七の事情がなんであれ、だ。

 ただ立ち位置を考えたくなる。

 己にとって橘七を、どの位置に配するかによって対応も変わるからだ。

「おっと」

 考えに没頭し過ぎてもいけないなと気付いたのは珈琲を落とし終えるまでの作業を流れで行った後で、浴室の気配を察してからパンをトースターに入れておく。その時間でスクランブルエッグを作り、キャベツとハムを混ぜた簡単なサラダと彩りも含めて赤色のトマトを二切れ。その横にミートソースで和えたパスタを置けばできあがりだ。

 一人暮らしをする以前より台所に立つ機会の多かった陽炎は和洋中のどれも適度に作ることができる。食事に文句があるなら自分で作れ、が家訓であるため味付けも特に拘りなどない。それに加えて好き嫌いも多くなかった。

 ただし、どうしてか魚介類の卵系と固形ではない、たとえばトマトスープなどは駄目だ。好き嫌い以前に食べれない。気持ちが悪くなって吐き出してしまう。あと苦手なのはらっきょうなどの強い酢の物か。寿司や他の漬物ならば別段食べれないほどではないので、やはり苦手という表現がしっくりくる。

 テーブルに並べた頃合、浴室の扉が僅かに開いた。

「……ねえ陽炎」

「ん? なにかあった?」

「いや……あのさ、着替え、これしかないの?」

「サイズはそれしかないかな」

「じゃなく……ああもうっ」

 覚悟を決めて出てきた七は牛だった。いや、牛を模した寝巻きだ。

「……猫の方が良かった?」

「そーじゃなくさあ」

「犬は真冬用だし、時期からして牛かなあと。まあサイズがちょっと大きいのは――待て」

 とぼとぼと歩いてきた七を静止し、やや睨むよう目を細める。

「――七さん、髪をちゃんと乾かしてないよね」

「その内に乾くから、いつもこんなだし」

「駄目だ。俺の前でそれは許さない。――とりあえずそこ座ってて」

 浴室に行ってドライヤーを片手に戻る。食卓に座った七の背後からフードを取って風を送り、柔らかい髪に触れた。

「キューティクルが痛んでるじゃないか。……手入れしてなさそう」

「げ、わかるの?」

「そりゃわかるよ、枝毛があるし。肩にかからない程度のショートだけど、これ、もしかして自分で切った?」

「うん。適当な長さになると邪魔だから、後ろで束ねてナイフでさくっと」

 それはなんだろうか。断髪式か何かか。

「あ、と」

 流れ出したメロディは唯一の所持品なのだろうテーブルに置いた七の携帯端末だ。

「どうぞ」

「ごめんね。……あ、バイト先からだ。はあい、おはようございます」

『おはよう。大丈夫かな?』

「うん。どしたの?」

『今日を含めて三日ばかり、店を休むことにしたよ。臨時休業だ。悪いけれど承服してくれるかな?』

「諒解。なんかあった? 店内の模様替えならそれなりに手伝うよ?」

『――もしかして、まだ知らないのかな。世間ではもう煩いくらいにこの話題しかないのだけれど』

「ん?」

『鷺ノ宮家が崩壊した』

「――え」

『加えて三重県射手市と北海道札幌市が混乱に陥っていてね。直接的な影響はないけれど、思うところもあるのは確かだ。まあ、そういうわけで頼むよ』

「あ……うん、わかった」

 傍耳を立てずとも聞こえてきた会話だったが、陽炎は知らぬ振りをする。ドライヤーの音もあったし、聞こえなかったと言っても通じるだろう。

 ――知らなかったのか。

 その上でここへきたのならば、やはり状況から流されたわけではないのだろうか。

「と、冷めるね。この程度乾けば大丈夫だ」

「ん、ありがと」

 ドライヤーはきちんと浴室に戻し、七の対面に座って陽炎はいつものように軽く両手を合わせた。

「いただきます」

「いただきまーす」

 軽く平らげた後、珈琲をカップへ移す。七も無糖を希望したため、手間がなくて良い。食後の珈琲を置いてからすぐに洗い物を済ませた。こちらもそう時間を取らない。

「ふう、ご馳走様」

「お粗末さま。悪いね、朝はいつも軽いんだ。俺の場合は十時とかに食べる時もあるから」

「いやいや、ありがとね。……ねえ陽炎はさ、鷺ノ宮のこと知ってる?」

「知ってるって……どうかな。事件として報道されてるのは朝方に知ったけど、それ以上は詳しくないよ」

「そうなの?」

「だって俺は武術家だけど学生だよ? 社会人じゃないからね……仕事も、武術家としてはそれなりにやってて金銭も貰ってるけど、それだけだし継承もまだだ」

「あ、そっか。野雨って確か雨天の管轄だったもんね」

「そう。だから雨天から回された仕事ってことになるのかな。七さんは?」

「あたしは……ないかな。ないんだけど、んじゃどうしてあたしの家が炎上するのかなあ」

「――炎上ってさっきも言ってたけど、炎上なの?」

「うん、大炎上。燃えカスしか残ってなかった。どうしよ……」

「どうしようって俺に言われてもなあ。一応は橘の邸宅なんでしょ? よく手出しされたね」

「怨恨じゃないみたいなんだけど、理由がわからなくてさ。誰かが依頼して狩人がきてたんだけど」

「へえ……狩人って本当に何でもやるんだ。ってことは七さんはその狩人と顔を合わせたの?」

「そう。っていうか見た目は子供だったけど」

「子供ねえ……認定証は見た?」

「や、見てないけど――なんていうか、たぶん、あの子は狩人で間違いないと思う。勘だけど」

「勘、か」

「当てにならない?」

「逆だよ。勘ほど性質が悪いものはないんだ」

 あるいは雨天ならば、勘と直感を区別した上で言うかもしれない。外れる直感は既に別のものだ――と。

 勘は少し違うが、それでも当たる場合が多い。

「服が乾くまでまだ時間があるね。学園はどうする?」

「んー、陽炎は?」

「僕は一応行くつもりでいるよ」

「んじゃ行こうかな」

「わかったよ。とりあえずこっちへ」

「ん? どこ?」

 こっちだと誘うは化粧部屋。中に閉じ込めて――鍵はないが――さてと、陽炎は頷く。

「とりあえずそこ座って」

「……なに、ここ」

「俺の趣味部屋。あ、フードは外して。服装に好みはある?」

「えっと……ない、けど」

「動きにくそうなものでも?」

「仕事するわけじゃないんだし」

「色は?」

「頓着しないよ」

「多少は拘りがあった方がいいんだけどね」

「……あのさ陽炎。さっきからちょっと、なんていうか、怖いんだけど?」

「ん?」

「なんかこう、にやにやしながらこっち見てるし」

「そりゃまあ――前から狙ってたし、機会が巡ってきたと思えばテンションも自然と上がるよ。さてと、ちょいと失礼」

 右手が頬に触れる。やや硬い掌が当たり躰が跳ねるように硬直するが、すぐに肩の力を抜いた。

 そう考えれば、こうして他人に触れられるのはいつぶりだろうか。

「手入れしてる様子はないけど、さすが若い肌。弾力性は申し分ないね。うん、良い素材だ」

「悪い素材なんてあんの?」

「まあ悪いって言い方はしないけど、個人的に俺は隠すものがあるってのが嫌いなんだ。化粧は素材を隠すんじゃなく、自然に浮かばせるものだと思ってるから」

 とはいえ、姉の化粧をする時は隠すものも存外にあるのだが。

「乗りが良さそうだなあ……よし」

 手を離し、腰に手を当てて頷いてからすぐ背を向けてクローゼットを開く。

「暖色系でまとめるけど、いい?」

「お任せだけど……陽炎ってこんな趣味持ってたんだ」

「人を着飾るのが好きなだけだよ。ちなみに男のメイクもできるね」

「じゃ、陽炎もしてる?」

「いや俺はしてない。普段は和装でしょ? 己を着飾る趣味じゃないんだ」

 黒のフリルつきスカートと白の長袖を出し、状態を見る意味もこめて床に並べる。あまり黒白が強調され過ぎて対比されるのも厄介なので、上着はラインの模様が袖口に入っているものにした。続けてハンガーごと取り出したのは赤を基調にした柔らかい質のワンピースだ。

 紅色よりも赤色に近い。ただし原色ではないそれは半そでになっており、上に置くと袖やフリルが下から見えるようになる。

「……ん、これならサイズも合いそうかな」

「ね、ねえ陽炎、ちなみにその服ってさ……」

「俺の趣味――と言いたいところだけど、大抵は姉貴が置いて行ったものだね。趣味とは言ったけど、これも姉貴にやれと言われて始めたことなんだよ。だからまあ、俺が気に入って購入したのも中にはあるかな」

「ふうん……」

 七の座っている位置の近くにある化粧棚からいくつか取り出す。

「こっち向いて」

「あ、うん」

「大丈夫、時間はとらせないよ。軽くで済むから……やっぱ素材が良いとやることないなあ。ま、逆に腕の見せ所か。本当は髪も切りたいんだけど、時間もないししょうがない。ちなみに化粧の経験は?」

「えーっと……基本的にはない、かな」

「そっか。まずは化粧水かな――普通は塗ってから少し時間を置くといいんだけど、まあ品物によるからね。これは比較的大丈夫。それからベースにファンデね」

「んにゅ」

 顔を撫でるようにつけていくと、奇妙な声が上がる。姉で慣れている陽炎は気にもしない。

「あ、一応日焼け止め効果もあるから。ファンデはパウダーかなやっぱり」

「うあー」

「ちょっと目を伏せて。軽く触れるよ? ……ん、目を開けて。そうこっち見て……瞬き一つ、うん。眉は手入れしなくても良いね。生まれつき手入れなしの眉は強く存在感がある。人の顔の一部でも、やっぱり眉は重要だ。だからこそ手を入れない方がいいってことを、少しは考えた方がいいんだけどなあ他の人も。横向いて」

 全体的な印象は整っていて、目立たない。けれどすれ違ってはっと振り向きたくなるアクセントを。

 粉をはたいて仕上げに――それから。

「ちょっと顔上げて。あ、まあいいか」

 顎に手を当てて上を向かせながらその朱唇にグロスを。

「――よしと。ちょっと後ろ向いて」

「ん……あー、なされるがままってこういうことかー」

「何を言ってるんだか」

 髪に触れた陽炎は梳かしながら、やっぱり時間はないなと思う。細かい部分で髪に合わせて顔も作ったけれど、本当ならば毛先を切りつつ少し髪の量を少なくしたい。

 しょうがない、だ。

「ん、こっち向いて。ヘアピンは大丈夫?」

「へいき」

 返答があったので髪留めを二つ、正面から見て左側の髪だけを横で留める。小さく紅と黄の花をあしらったものだ。

「さて、どう?」

「……」

 横に並ぶよう鏡に向き合うと、七は硬直したような強張った顔をした。

「どうって言われても……」

「や、印象。嫌いな部分があるかなと思って」

「よくわかんない。陽炎は満足?」

「満ち足りたらそこで終わりだよ」

 その台詞は、昨夜に聞いたきがした。

「やりたいことは山ほどある。でも完成はするものだからね。俺としては、時間も含めてまあとりあえずは大丈夫かなと思うよ」

「うん。なら、良いと思う」

「……ふうん。ま、すぐに評価は出るしいいか。じゃあ俺はリビングに戻ってるから、着替えどうぞ」

「あ、うんわかった」

 さすがに着替えを手伝うわけにはいかないと部屋を後にした陽炎は残りの珈琲を飲み干し、二つのカップを洗う。

 ――あっさりと触らせたな。

 人に触れられる、という機会は普通に生活していても少なく、また陽炎たちのような職業ならなお更だろう。けれど嫌悪も拒絶もなく、七はそれを受け入れた。

 だから、だろうか。

 ここに来る理由はあっても、ここへ来た理由はないのではと思えたのは。

 来ることが目的であって、来てからどうするかは考えていない。七の行動や反応からは今のところそう感じる。

 ふと、窓に映る水滴から小雨が降っていることに気付く。肌寒いようならストールでも出せばいいかと考えて。

「――あ」

 この家には傘が一つしかないことに気付いた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ