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ハジマリの場、オワリの所  作者: 雨天紅雨
■2041年
92/790

10/17/01:15――小波翔花・生き残った妹

「――あ」

 渦巻く紅色の空気が魔力波動(シグナル)そのものであることに気付いた小波(さざなみ)(しょう)()は、隙間風のように室内に入り込む異物の感覚に胸元までせり上がって来た何かが吐き気だと思い口に手を当て、しかしそれは嗚咽となって瞳から涙が溢れ出した。

 気持ちが悪いからではない――苦しかったのだ。

 圧迫感ではなく、そもそも異物のように感じた魔力波動などではなく。

 姉が。

 姉たちが――居なくなったという事実が、かみ締めた奥歯の隙間から声を漏らさせてしまう。

「う、うー……っ」

 指先が畳の上を引っかき、左手は胸をぎゅっと握っている。既に顔は俯き、歪んだ視界を認めたくはないのか強く閉じられていた。

 わかっている。

 わかっていた。

 それが彼女たちの選択で、翔花はそれを受け入れた。生き残れるのは自分だけで、翔花だからこそ生き残れた。

 納得して、理解していた――が、けれど。

 身内が居なくなる事実がこれほどまでに苦しく抗いがたいのだと、失って初めて気付かされた。

「ふ、……姉さ、ん……!」

 もう、名を呼んでも応えてはくれない。それが居ないということだ。

 どこにもいない。

 届かない。

 何もかもが、ない。

 そんな事実がふと頭の中に浮かぶと、どうしようもなく胸が締め付けられる。己の中の暗闇に落ちて行くような感覚と共に、けれどしかし現実としての己を実感するこの矛盾を、悲しみと誰かは表現したか。

「――翔花?」

 男性の声に、翔花の意識が戻る。ここが野雨市にある雨天家の屋敷であり、己は居間にいて、雨天(うてん)(あかつき)が廊下からこちらを見て入ってきたのだと情況を理解――慌てたように目元を拭い、顔を上げて。

「は……」

 一声を放とうとしたが空気が漏れただけで、喉が詰まって言葉が出てこない。やがて歯は食いしばられ、強張った顔は表情を作れず、拭って間もないのに涙が出てきた。

 それでも。

 翔花は、暁が何を言うよりもまず。

「――だいじょぶ。なんでも、……ないから」

 それだけは伝えて、また俯いた。

 何があったのか暁は知らない。あるいは予想できていたかもしれないが、それを説明などできない――が、それでも大丈夫だと当人が言ったのだ、それを疑おうとも思わないし否定もできない。

 だからどうすべきかと天井を一度見て、腰の刀を引き抜いて床に置く。それから翔花の隣に腰を下ろし、肩を抱くようにして頭に手を当てた。

「――泣け」

「う、ふ……な、に?」

「泣けッて言ったンだ。悲しい、悔しい、嬉しい、理由なんぞ何だッていい。なァ翔花、我慢なんてする必要はねェぞ。泣けるンだッて事実を噛み締めて、――泣け。それが泣ける人間の特権だ」

「――」

「隣にゃ俺しかいねェから。顔も見ねェから」

 だから泣けなかったのに、と言おうとしたがもう我慢ができなかった。

 しなくてもいいと、泣いても良いのだと、そう認められて堰は外れ、翔花は暁の胸に顔を埋めて、それでも泣き声を少しでも小さくしようと服に顔を当てて泣いた。

 悲しかったから。

 悔しかったから。

 寂しかったから。

 悲哀を抱きしめ、後悔を受け止め、寂寥を秘めるために――今はただ、感情が赴くままに、ごちゃまぜの感情を吐き出すために泣いた。

 ――そうか。

 泣いている少女を見下ろした暁は苦笑に似た歪みを覚える。

 ――鷺ノ宮散花が亡くなったか。

 事情を直接聞いたことはない。だが、そのくらいのことはわかった。

 これからどうなるかは、知らないけれど。

「……ん?」

 翔花の頭を撫でながら、ふと意識が背後付近に向く。

「どうした(るい)(がん)

 己の天魔が何かを言う。そこにいるのだが、おそらく暁以外には声も姿も確認できまい。

「ん……ああ、そうか。誰もいなかったな。敷地内に這入ってくる異物を押し返す感じでやっといてくれ」

 ――それにしても。

 翔花がここまで己の感情を表に出すのは初めてだ。付き合いもまだそう長くはないが、一見は明るく見えるものの感情を押し殺し――いや、感情そのものを扱いきれていない様子が今まではあった。

 泣ける人間の特権かと、己の台詞を反芻すると自然に苦笑が浮かんでしまう。

 雨天暁は泣けない人間だ。それは自覚の有無を別にして、状況に直面した場合においてただ、悲しみを抱いても――あるいはそれが嬉しさであっても、表現する術を己の中に持たない。

 少なくともかつてはそうだった。

 己の母を介錯した時には、悲しみに暮れることすら――できなかった。

 すぐに敷地内に這入ってきていた紅色の空気が消える。どこか肉体ではなく、その内部へと圧迫していた空気がなくなり、嗚咽もまた小さくなっている。

 ――しかし、どういうことだ。

 紅色の空気が躰へと与える圧迫感もそうだけれど、暁はどこかでこんな雰囲気を受けた覚えがあると――知っていると、そんな確信が得られていた。

 忘れているのではない。知っているという確信があるのにも関わらず、それが何なのかが掴めないのだ。

 だが。

 ――わからねェな。

 引っかかりはあるのに、取っ掛かりがない。据わりが悪いとはこのことだろう。

「ん……」

 身じろぎに意識が、視線が落ちる。

「ごめん」

「どうした?」

「あ……じゃない、ありがと。も、いいから」

「そうか。翔花、ちと顔上げろ」

「ヤだ」

「いいから」

 抵抗したので顎に手を当てて持ち上げ、視線を合わせる。擦ったせいか少し赤くなった瞳に陰がないのを確認した暁はほっと息を落とす。

 それから、暁は己が安堵したのだと気付く。つまり今までは落ち着いていなかったのだと――。

 ふいに、唇が塞がれた。

 翔花の顔が間近にある。近づいてきていた。

 離れる。

「……あ、れ?」

 涙の味がした。

「あれ? なんであたし――」

「ま、落ち着いたなら良いぜ。それよりこの状況、お前から何か言うことはあるか?」

「え? あ、えっと……とりあえずはないけど」

「……そうか」

 ならば、この感覚の正体は己の手で掴むべきものだ。

 ――けど、手遅れになっちまうンじゃァいけねェな。

 どうしようもない危機感がある。これは放置しておけば致命傷にすらなるような――。

「あれえ?」

「ん?」

「えっと……いや、あれえ? なんでだろ」

「……? 翔花、しばらくはうちにいろ。俺もいる。勝手にどっか行くなよ」

「あ、うん。今まで通りそうするつもり。――とりあえず、ちょっち混乱してるからお風呂もう一回入ってくるね?」

「ああ。けどな翔花、いいか? 一人で泣くつもりなら、俺をちゃんと呼べよ」

「ありがと。その時はお願いね」

 翔花が部屋を出てから、立ち上がって刀を手にした暁はふと――視線を一度外へ向けて首を傾げる。

「おい涙眼、どうした。浮き足立ってンのか? えらく落ち着いてねェだろ」

 落ち着いていない? 浮き足立っている?

 ――違うな。

 違う。これは、おそらく。

「活性化してンのか――」

 遅く、気付いた。

 この空気は己が妖魔を討伐する時に感じる――厳密には、妖魔が発生した段階で感じる空気そのものである、と。

 その結果は。

 ――下手すりゃァ妖魔の大量発生ッてか。

 少し早足になって自室へ向かいながらも、けれど暁は野雨市内に妖魔が発生している感覚を掴んではいない。

 雨天は野雨市に腰を下ろして長く、今までずっと野雨市内の妖魔を闇に潜んで討伐してきた。それは野雨市を把握していることである――が、しかし、発生と同時に気配を掴んで行動したのでは遅い。だから暁は妖魔の発生を予見して動く。そして討伐する。

 けれど何故か、そんな気配は一切なかった。

 まるで、誰かの意志がそこに介入しているかのように。

 自室の戸を開いてまず見たのはちゃぶ台の上に置いてある携帯端末だ。

 古風な佇まいから勘違いされやすいのだが、暁たち武術家は決して世間に疎いわけでも離れているわけでもない。実際に一学年時進級試験を、暁はまともに授業を受けることなく突破している。これは一般教養、高校レベルでの学習内容を修めている証左でもあり、武術家が武術のみに拘泥しているわけではないことでもあった。

 ――着信はねェか。

 ならば暁は駒として動かされる状況ではない。ゆえに、自らの意志で勝手に行動すればいいだけのことだが、しかし。

 この状況下で、蒼凰蓮華から連絡がこないことが逆に緊急性を感じる。

 何が起きているのかを暁は知らない。だが蓮華が知っていて既に動いているという確信を抱いている。その上で暁へ連絡しない――その事実は、つまり連絡できないと換言できる。

 何故ならば、妖魔の討伐に武術家が出るよう、この状況下ではどこかで必ず妖魔が発生していると考えられるからだ。それでも暁が必要ないのならば、蓮華は別の部分で策を練っているはずだ――が、いや。

 違うか。

 可能性はもう一つある。

 これから暁の周囲で発生する何かによって、暁を招致できない理由があるから、か。

「……やれやれ。俺にとって先読みは問題だな」

 可能性を保持することも、その中から何かを導き出すことも難しい。蓮華はよくやるものだと心底から褒めたくなる。

 けれど、先読みをしないわけにはいかない。

 間違いであったとしても、場当たり的な行動だけで済ませられるほどに暁は向こう見ずではないし、そうはなれない。

 己にも、守るべきものができてしまったから。



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