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ハジマリの場、オワリの所  作者: 雨天紅雨
■2041年
90/790

10/17/00:55――神鳳雪人・無力の忸怩

 胸騒ぎがする。いや、している。

 死に装束にも思える白の袴装束はしかし、袴の裾に一文字の紋様を描くことで身近な死を回避しているようにも思う。雨天とも都鳥とも違うその紋様は、彼が神鳳である証明だ。

 神鳳雪人(かみとりゆきと)は背筋が凍りそうな感覚を振り払うように走っていた。

 世界を移動できるのに、空間が移動できない己がこれほどまでに不便だと感じるのは、いつだとて己が走っている時だ。

 きっかけは定時連絡がなかったことだろう。

 護衛を生き様とする神鳳の中、雪人もまた同様の生き方を選択した。そして鷺ノ宮散花の護衛を、未だ高校生であり未熟な身なれど引き受けたのが二年前。それから帰宅時、睡眠時には必ず報告をしてきた。義務付けられたのは帰宅時だけで、それはお互いに話し合ったのだが、それでも寝る前に携帯端末へメールを送るのが散花の癖だった――が。

 こなかった。

 二年間続けられたそれがなかった。

 結局のところ雪人が走っているのは、ただそれだけのことだ。人によっては馬鹿馬鹿しいと思える行動も、鷺ノ宮の邸宅を前にしてならば放てないだろう――。

「――」

 禍禍しいとすら表現可能な空気の中、一歩を踏み出せたのは武術家として修羅場を潜ってきたからか、それとも二年という歳月で培ったお互いの関係か。

 誰もいない庭を突っ切って正面の玄関から入り、左右を見ながら停止する。誰かが侵入している気配どころか、生物特有の気配すら微塵も――いや。

 いや、ある。

 微かだが人の鼓動を感じ取った雪人はその方向へと廊下を移動し――歩みは遅く慎重だ――その扉が開いていることに気付いた。

 それから。

 武術家として馴染みの浅い、しかし己のものならば慣れ親しんだ匂いがある。

 ――血液の匂いだ。

 むせ返るほど、嗚咽しそうなほど、嘔吐をもよおすほどの生理的嫌悪を強引に押し殺し、けれど雪人はその部屋の中を。

「あ……そっか。きて、くれたんだ」

 中を、見て。

 変わり果てた鷺ノ宮散花を、発見した。

「な、――!」

「入らないで!」

 強い制止、それから吐血。いや出血と比較すれば吐血など、何の足しになろうか。

 その場には赤色と、黒色と、――死色しかないのに。

「駄目よ雪人くん……入らないで、這入らないで。来てくれたのは嬉しいけど、でも、……駄目よ」

「――鷺ノ宮散花」

 落ち着いた声色が少しだけ震えていて、そんな反応を見せてくれたことに散花は僅かに微笑んだ。

 沈着冷静を体現しているような人だったけれど。

 己の死に動揺してくれているのだと――そう受け取れたから。

 嬉しくて。

「これは、どういうことだ。私は」

「ううん、雪人くんの責任じゃないわよ? これは私が望んで引き寄せた、望んだ結果だから。雪人くん、私には妹がいるの」

 もう手の施しようがないのは雪人だとてわかる。だが認めたくはなかった、それを示すように拳が強く握られる。

 神鳳流柔術を受け継ぐ雪人は、拳を握って戦闘をしない。だからきっとその行為も、珍しい部類なのだろう。

「聞いて? 本当は妹もコレに巻き込まれるはずだった。でも、私は……私たちは妹を助けようとしたのよ。その結果がこれで、きっと妹は生き残った。だから、雪人くんの責任じゃないの」

「だが!」

 声を荒立たせ、現実を振り払うように――けれど深く、臭気を吸って落とす。

「……だが、私はお前を守ると言った。それが私の、神鳳の役目だ」

「うん。でも最初に言ったよね? 守るのもいいけれど、見届けて欲しいって」

「こうなることがわかっていたのならば、私は諾としなかった」

「ごめん……」

「謝罪は必要ない鷺ノ宮散花。――護衛は引き受けただろう。この結果が許しがたいと言っただけだ。これは私の感情でもある」

「うん。だから、ごめん。でも……雪人くんに看取られるなら、それも良いかなって」

 そう思ったからこそ、二年前に声をかけた。護衛を頼んだ。

「ひどい女よね」

「まったくだ」

「あは。でも雪人くん、責任は負わないでね? それは――私のものだから」

「軽くしてやることも私にはさせないと、そう言いたいのか」

「そうよ。だって私の身勝手だもの――雪人くんは巻き込まれただけ。世間は守りきれなかったなんて言うだろうけど」

「世間など、どうでもいい」

「でもね? 雪人くん、間違えないで。いい? 鷺ノ宮散花が神鳳雪人に言うわよ――雪人くんは最後まで、最期まで、ちゃんと私を守ってくれたわ」

「――」

 この地獄のような地獄の果てで、嘘偽りなく散花は感謝を示した。

「今まで、ありがとう」

 雪人は、その微笑みを表現する言葉を持たない。

「……、――これで、終わりなのか」

 声を絞り出す。

「また逢おうと、私には言えないのか。私が言うこともできないのか」

「……うん。ちゃんと看取って欲しいから。辛い役目を押し付けちゃう、かな?」

「いや……いや、良い。最期は私が看取ろう。約束だ」

「ありがと」

「鷺ノ宮散花、私に望みはあるか」

「それは――」

「何でもいい。何だっていい……看取るものへの手向けとして、どんな些細な望みでもいいから私に言ってくれ。――頼む、何か一つでも難題でもいい、私にくれないか」

 歯を食いしばって、躰の中から外に出ようとする何かを抑え込み、それでも雪人は視線を合わせて見届けようとする。

「お前にしてやれることを、私にくれ」

「ならさ、雪人くん」

 散花は、少し寂しそうに微笑んだ。

「私のこと、忘れてくれないかな?」

「――」

 頷け、と雪人は思う。強くかみ合わせた歯から言葉が出るよりも早く、態度でそれを示せと言い聞かせ――だが。

 けれど、でも。

 遅く。

「――できる、わけが」

 言葉が漏れてしまう。

「できるわけがないだろう!」

 それでも踏み出そうとする足だけは、全身全霊で抑え込んだ。

「私とお前との関係は仕事上のものだった。お前から触れられることはあっても、私が触れることはなかった――だが! それでも、お互いに過ごしたこの二年を――なかったものなどに、できるものか!」

「……そっか。大切に、してくれるんだ」

「当たり前のことを問うな鷺ノ宮散花。私は、それほどまでに冷血な人間ではない。……だが、それが望みならば、……――叶えよう」

 血反吐を搾り出すように、最後の言葉を口から放った。

「雪人くん――」

「勘違いするな、私は忘れなどしない。忘れられるものか。その代わりに――私は覚えたままで、現実から退こう。知っている者が一人いなくなれば結果的には忘れるのと同じだ。永遠にその状況が続くわけではない――それで、構わないか」

「うん。……ありがとう。ごめんね、何もかもを説明できればいいんだけど、時間がなくて」

 確かにもう時間はないのだろう。

 今、生きていることが不思議なのだから。

「もう、いいかな――」

 そして、その刻限を決めるのは散花本人でもある。

「私は、ちゃんとやり遂げたんだって、雪人くんは見届けてくれるかな」

「――ああ」

 腹腔から搾り出す声は、やはり震えていて。

 雪人はそれでも頷いた。

「私にはまだわからないが、それでもお前はやり遂げたんだろう。よく――がんばったな、鷺ノ宮散花」

「ありが、と」

「……いや」

「ううん、ありがと……雪人、くんがいたから、楽し、かったから……」

 散花は己の躰から力が抜けるのがわかる。強く保っていた意識が、己を認めてくれた一言で――もう良いのだと、認めてくれたから、途切れようとしている。

 終わりがやってくる。

「やっと……終われる……」

「ゆっくり休め鷺ノ宮散花。ご苦労だった」

「うん……」

 今までの十七年間を思い出す。いや、思い出すまでもないか――この場に妹がいないのならば、どうしたって今に至る十七年は輝かしいものにしかならないのだから。

 だから。

 ――泣かないで、ね?

 ――私のために、泣かないで?

 ごとりと、何かが床に落ちる音を耳にした頃、既に雪人はうつむいて己の足元を見ていた。

 瞳から光が消えたのだ、何が起きているかなど――いや、最期まで雪人は見ていた。見ていて、見届けたからこそようやくうつむいたのだ。

 きちんと、放たれなかったはずのその言葉を受け取って。

「泣いてなど、いない」

 室内だとて、雨が降っていても――いいだろう?

 こんな時くらい、いいではないか。

「――あ」

 両手で顔を覆い、何もかもを振り払うようにしながら天へと向けて咆哮が放たれた。それはきっと、どうしようもない感情の流れが雪人に叫びを上げさせたのだ。

 何もできなかった、とは思わない。けれどでも、もっと何かできたのではと思えてしまう。

 それこそが悔やみだ。

 死者の未練よりも、生者の後悔の方がよほど多いのだと、雪人は初めて知った。

「……約束を、守ろう」

 咆哮が消えた頃、雪人は己に言い聞かせるようぽつりと呟いて背を向ける。さよならの言葉もなく、一歩を踏み出した床が湖面のように波打ち、二歩目で波紋が更に広がった。

 ――その日、神鳳雪人は現在から消失した。

 何もかもを己の内に秘めたままで。



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