10/17/00:45――躑躅紅音・これで良かったのか?
北西の風が吹き出した夜の街は、風の音色が存在するが故に静寂と呼べるほどに落ち着いてはおらず、静謐とは呼べないほどに騒がしかった。
浮かれているのかと少年は思う。
茶色のハーフパンツに紺色のパーカーといった格好の少年は、躑躅紅音と云う名を持ちながらも基本的には少年であり、以上でも以下でもない。そもそも少年の存在自体が番外のようなもので、物語の表層に浮かんでくること自体が珍しかったりもするのだが、さておき。
少年が浮かれているわけではない。
こうして外を出歩くのはいつ以来だろうかと考えて、ざっと三十年前の東京壊滅時期を思い出す辺りは如何ともしがたい。普段は喫茶SnowLightにいるのだが、しかし居ない時は出歩いているのかと問われればそうでもなく――ただ、居ないだけだとしか少年は答えようがなかった。
だからといって、足取りは重くもなく、軽くもない。憂鬱でもなければ楽観しているわけでもなく――ただ、少年は依頼を果たすために目的地に移動しているだけのことで、感情の変化がそこに現れるはずがない。
もちろん少年は感情を、一応なりとも持ち合わせているのだから、きっと目的地に到着してからは、何かしらの変化があるかもしれないが。
行く先は野雨市の中央やや南に位置する鷺ノ宮邸である。
「嵐の前の静けさかな」
街の気配をどう表現するか考えた結果、まだ声変わり前の少年らしい一言がぽつりと漏れた。
ざわめいている感覚はまだ遠いが、それでも予兆のように風が吹き抜ける。そのくせに底冷えしている気配がなく、どこか熱気に包まれたこの状況を浮かれていると感じたのだ。ならば、いやだからこそ、それは嵐の前の静けさに似ている。
台風に目があるように。
嵐の中心もまた、静かなものだ。
「真理だね」
人気のない道を歩く少年の姿は明確であり、影に潜むこともなく堂堂たる歩みであるにも関わらず、きっとその場に誰かがいたとしても発見には至らないだろう。きっとと前置きして、あの蒼凰蓮華ですら発見することは適うまい。
少年の存在とは即ち、そうなのである。
居ることは確実なのに、どこにも居ないのと同一。
だからこそ少年は出歩かないし、出歩こうとはしなかったのだが、しかし友人の頼みで今があるように、動けないわけではなかった。
ぎい、と鉄格子が小さく鳴る。いやそれは鷺ノ宮邸の入り口にある門が鳴ったのだ。電子錠がかかっていないのか、あるいは錠前をつけていないのか、どちらにせよ手間が省けたとばかりに少年は無造作に立ち入る。
常時監視カメラが稼動していたところで、問題はない。映ることなど、決してないのだから。
広い庭をまっすぐに。玄関もまた開いていたため中に這入る。広いエントランスがあるのかと思えば、やや広いものの閉塞感を感じる通路が伸びていた。
どこへ、とは思わない。その足は止まることを知らない。
いや――ここまできたのだ、どこへ行けばいいのかなど肌で感じ取って理解しているし、何よりもここが中心であり、そしてとうに終えているのだと少年は確信を得ていた。
嵐はこれから起こるのに。
もう全ては終えているだなんて。
――その部屋は。
「……」
その部屋のカーペットは赤く、壁の張り紙までもを赤くし、天井すら赤色で染め上げている。
ある種の芸術のように、そこには赤色しかなかった。
調度品もなく、何も――いや。
いや、絵画に中心が存在するように。
右腕を付け根から失って、左足首から先を失った赤色の女性がぽつんと赤色の海の中で存在している。
かろうじて、存在していた。
一歩を踏み出すまでもなく、赤色の悉くが血で染められていることに気付く。何よりも鼻腔を刺す臭いによってそれは明らかで――ただ、少年は思う。
この赤色の、文字通りの海は、一体何人のものだろうかと。
「……だれ」
鋭く、強く投げられた視線と女性の声に、少年はようやく芸術の中から現実味を感じ、そこから己を含めた現在を引き寄せる。
硬直していたなど、悟られないように吐息を落とした。
「素晴らしいな」
褒め言葉ではないだろう。少年は疲れたように首を振り、廊下から中に這入ろうともしない。
「破壊することに関して、どういう因果か僕は専門家なんだよ。何をどうやれば効率よく、いや効率悪く破壊できるかも知っている。けれど――在ったはずの調度品を含め複数の人体をここまで、ここまで執拗に破壊する術を僕は……いや、持っていても、できないだろう。できるわけがない」
少年は人が好きだ。この地獄の中で、この凄惨の具現の最中で、強い意志を持つ死に体の女性のよう気高さに、どうしようもなく好感を持ってしまう。
けれど、でも。
――ああ、そうだね。
問わなくてはならない。それが彼から受けた依頼だからだ――が、そうでなくとも少年がこの場にいて彼から依頼を受けていなくとも、その問いは口から漏れていただろう。
「君は」
言う。そして返答を貰わなくてはならない。
「君は、これで良かったのかい?」
いつか言葉を少年が貰った時、面倒なものだと思った。けれどいつか必要になるさと彼女は言っていたが――ああ。
ああ頷こう。確かにその通りだと認めよう。
今、三十年が過ぎた今この時になって初めて、少年は己が言葉を話せることに対して感謝した。必要だと心底から思った。
「僕は君のことを少なからず知っている。僕が友人と呼べる人間は少ないけれど、きっとその中でも君と直接の関わりがあるのは既に亡き彼女だけだろう。いや、彼女だとて君本人ではなく鷺ノ宮と呼ばれる仕組みそのものへの関係だ。それでも知っているんだぜ、これは君の特異性を示しているとも云えよう」
彼女は動かない。既に死してもおかしくない出血だろう、その痛みたるや想像を絶する。けれど生者よりもよほど強い眼光は、まだ生きているのだと――ここに居るのだと、在るのだと主張していた。
破壊の体現者である少年が、失くしたくないと思うほどに美しく。
「君は彼女を守りきった」
少年は言う。
「他に方法があったかもしれない? そんな愚考を僕は提示しない。きっと君が選択したこの状況から察するに、最善でなくとも結果は出るんだろう。けれど――羽ばたいた彼女は、これでもう一人きりだ。君は確かに守りきった、しかし今までだ。これから彼女は守られない。どんな危機に陥ろうとも、そこに君はいない」
ここにいる女性はもう終わっている。精神力だけで生き残っている、いわば残滓に限りなく近い。
だからだ。
同じ問いを繰り返す。
「君は、本当にこれで良かったのかい?」
「――良し悪しなんて、ない」
血反吐を捨て、気高い女狼は震える声で謳う。
「そんなもののために命を賭けたわけじゃない」
答えになってはいないと、その言葉を否定するのは簡単だ。良かったのかと問うているのだから、是非で答えは欲しい――けれど、でも。
そんな当たり前のことを、死の際にいる彼女に向かって投げるのは、まさに暴言だ。
「命は等価だ。誰の命も平等であり、故に己の命を差し出せなければ他者の命を奪うな」
それでも少年は返答を戴きたい。そうでなくては戻れない。
「誰の言葉だったかな――けれど僕に言わせれば違う。命の価値は等しくない。結局のところそれは、個人が持つ感覚に依存してしまうんだ。つまり、己ならば何に対して命を賭けられるか、それが命の価値さ。そして君は命を対価にして、結果を求めた。――その結果はまだ出ていないけれど、ね」
「出ているわ」
彼女は否定する。
少年の言葉を否定する。
「もう、出ている」
「――君は」
よせと、誰かが止める。いや誰でもない、少年が一度口を噤むことで、安易な問いを止めたのだ。制止したのは少年自身である。
「……十一紳宮が一つ、鷺ノ宮。いやそもそも十一を並べるまでもなく、鷺ノ宮はかつてより魔術師の家名だ。魔術師協会に与えられた二つ名は〈刻詠〉――けれど、それは未来予知ではない。ただ世界と呼ばれる器が指し示す〝世界の意志〟を読み取ることにあった」
「この状況が〝世界の意志〟かと問いたいの?」
「――そうだね、でもきっとその答えは肯定のはずだ。唯一、世界の意志を受け取れた託宣を担う君たちが、だからこそ潰されなくてはならなかった――それが、世界の意志なんだろう。ここにいる、いや居た者が悉く鷺ノ宮に連なる……血縁だったんだろうさ」
何故と、言葉を続けた少年は僅かな沈黙を作った。
「……それはきっと人が、僕たちが行ってきた遅延行為に対しての制裁なんだろう。世界の意志が読み取れたからこそ、かつて僕たちは世界の進行を誤魔化した。あたかも意志に順じた結果を見せながらも、根本的な進行を食い止めた……いや、一時停止させたんだ。そう、あの東京事変の時に」
「あんたは――」
「いいんだ。僕のことはどうだっていい」
それこそ必要のないことだ。
知られようが、わからないでいようが、どうでもいい。問題は少年が彼女のことをどこまで知るか――だ。
「結果として、世界は自由意志を手に入れる。後は進行するだけだ。もっとも三十年という時間が人に経験を与え、だからこそ遅延は続くだろう。そうした因子を、僕ではないが友人たちが振りまいてきた――否、いつかくるだろう世界崩壊の話をしても仕方がない。少し逸れたけれど、君は」
二つ目の問いを投げる。
「君は、知っていたのかい?」
それは依頼ではなく、ただ少年が問いたかっただけの言葉だ。
「結果が出ていると、君は言った。策士が結果を出すために奔走するのならば――奔走せずに結果が出ていると口にした君は、鷺ノ宮が本来は隠れ蓑として使っていた未来予知などという具象を――手にしていたのかい?」
「――だから、どうした」
怒りにも似た感情を浮かばせ、赤色の袖口で口の紅を拭う。
「既知が結果に依存するものだろうと、もう私は終わってるわ。あとはあの子が選ぶだけよ」
「一人を生かすために、ここにいる連中は犠牲になったわけか」
「違うわ」
やはり、彼女は否定する。
「ここの皆が、あの子を生かすと決めたのよ。彼らの命の価値を下げないで」
犠牲の場合は命を奪ったことになる。けれど彼女が言うように――誰もが一人を生かすために命を賭したのならば、それは犠牲ではない。
献身だ。
「けれど彼女は」
「あの子も説得したわよ」
生かされた一人は重荷を負うことになる――そう言おうとした。
だから彼女は言う。
確かに一人を生かすと決めたのだと。けれど、その一人も生きようとしたのだと。
「でも」
ここにきて初めて、彼女は視線を僅かに反らした。
「ここからは、……任せるしかないわ」
「危殆に瀕した状況からは脱せられる――いや、既に脱しているんだろうさ。君が何を見ているのかはともかく、彼女は制裁を受けなかった。ここに居ない、それが何よりの証拠なんだろう。全ては」
少年は言葉を切り、深く息を吸う。
「全ては終わっている。そして、……これから始まるんだろうね。まったく関係のないとは断言しないけれど、核心からはまるで違う影響のみが伝播した物語が。むしろそちらの方が大きくなる」
「そこに私は居ないわ」
ああ、そうだろう。少年が口にした通りに。
吐息が落ちる。いつもの少年からは考えられない態度も、初見である彼女にとっては――いや、そもそも、どうでもいいのか。
「あの日、僕は問うた。君は満足だったのかい……と」
「返答は」
「――なかったよ。僕がその問いを投げかけられた時はもう末期で、どうしようもなく終わりで、――届かなかったんだ。だから僕は、訊こう」
三度目、同じ問いを繰り返す。
「君は、これで良かったのかい?」
「――ええ、満足よ」
彼女は応えた。
「私の全てを賭して結果を得られる……いえ、得たわ。成功も失敗もいらない、望んだ結果がここに在る。――私は、己の価値のぶんだけの命を果たした」
「そして、いなくなる」
「居なくならないと、いけないのよ。それが私の結果なのだから」
返答は得た。ならばもう、これ以上に問う必要は――ない。
「時間のようだ」
少年は言う。
「仮初の始まりは、現実の始まりに喰われてしまう。それもまた真理だ。……さようなら現行の鷺ノ宮。ああそうだ、最後にこれだけは聞いておこう」
きっと返答はわかりきっているだろうけれど。
「僕に何か望みはあるかい?」
「ないわ」
それでいい、と思って少年は身を翻した。扉は閉めない。
外に出ると既に小雨が降っていた。まだ傘が必要なほどの強さではないが、そもそも天候など少年にはあまり関係がない。風が吹いても衣類は揺れず、ましてや雨に濡れるなど考えられないほどに、少年は現実に居ないからだ。
――おや?
庭の途中で誰かとすれ違った。現実の人間が少年に気付かないことは当然だが、しかし誰なのだろうかと考えて首を振る。
誰だとて同じだ。看取る者がやってきたに過ぎない。
けれど最後に、少年は一度だけ屋敷を振り返った。壊れ、終わり、形骸と化した鷺ノ宮邸を。
「さようなら」
かつて彼女に問いかけた言葉は空に消えたけれど、違う彼女である今回は返答をきちんと受け取れた。まるで依頼主がその辺りを想定して寄越したとも思えるが――否、だ。
――なるほど。確かに僕でなければ、ね。
死の際での問いを、誰が投げかけるか――現実の人間では、駄目なのだ。痕跡が残るし、彼女が望んだ結果に泥が落ちる。
外の空気は既に熱く、時期を感じさせない騒がしさは海鳴りに近い。
夜明けには嵐、だ。
それは自然現象ではないけれど。
「――おや?」
しかし、何故だろうと今さらながらに少年は腕を組んで首を捻った。
そもそも少年と会話ができる人物が少ない。その境界線はひどく曖昧であるため、少年自身も把握しようとはしないけれど、少ないのは確かだ。現実に先ほどすれ違った人物は少年に気付かなかった。
一対一での会話ができるのは限られる。その場において第三者が立ち会えば、きっと会話にもなるだろうけれど――何故だろうか。
彼女と会話ができてしまったのは。
「……まあ、いいか」
ひとまずは置いておこう。どうせこれからきっと、考えることなど山のように増えるだろうから。
少年は歩いて戻る。
喫茶SnowLightまでの距離を、悠然と。




