10/25/18:00――ベル・青色の来訪
その日は、珍しく。
あちこちに飛んで仕事をしていた全員が、施設に戻ってきていた。早い者でも、つまりフェイでも今日を含めて三日の休みがある。あれ以来、全員が集まることなどそうなかったので、多少は戸惑うかとも思ったが、大して問題もなく、当たり前のように施設で過ごしていたのだが、どういうわけか、非常に慌ただしいノックの音に顔を出せば、マーデが珍しく、非常に珍しく――つまり初めて見る焦ったような、苦苦しいような表情で、奥歯を噛みしめていた。
「……?」
廊下をちらりと見れば、やや遠くにアブとフェイの姿もあった。コンシスは室内にいる。
「どうした? 下剤が利きはじめたなら、トイレの場所を教えるが」
「いいか良く聞け、ボクはこれから逃げなくてはならない」
これもまた珍しい断言があったかと思うと、がりがりと頭を掻いて、廊下をうろうろし始めた。
「いや、表現が的確ではない、そう、ボクは逃げるのではなく、逃亡……いや、そう、撤退をしなくてはならんと、ふむ、なんだろうか、こう、珍しくボク自身の中から言葉が出てこないのは、つまり精神が安定していないことの証左でもあるのだがね、これは全く困った話だ。自分が自分でなくなる瞬間というのを夢見たところで、こうにも一時的とはいえ現実になると妙に冷めるどころか、腰の据わりが悪いというか、原因たらしめる者を殺してやりたいと思うのにも関わらず、手出しができないことを痛感させられるから、どうしようもなく――ああ、なんだね、そう、聞いているかねベル」
「要点をまとめれば、嫌な相手が来訪するから背を向けて逃げると言いたいんだろう」
「そうとも! ……いや、違う、そうではない。いいかね? 逃げるのではない、そう、ボクはここにいないのだよ。撤退だとも、ボクは断じて逃げてはいない。ここからいなくなるだけだ」
「おいマーデ、言い訳はいいから、何をどうすんのかを言えってンだよ」
「時間がないのだよ、わからんのかねアブ」
「だったら、とっとと言えよ! 言い訳が長いんだよ!」
「ふむ? 言い訳などしてはいないとも」
「エンジンがかかってきたようで何よりだけどね、しかし、どうしたんだ? 来客の予定を僕は聞いていないけれどね」
「そういう類の人物では――いかん、時間がないのだ諸君。つまりだね、これから不躾な来客があるから諸君で対応しろと、ボクは言いにきたのだよ。いいかね? あー、そう、そうとも、殺せるなら殺してしまっても構わない。ボクはそうすれば大手を振って歩けるが――いかんせん、殺せはしないだろう」
「そいつの目的はなんだ」
「ベル、なんだベル、そんなものはこれから確かめればいいではないのかね?」
つまり、知らないらしい。
「まったく、どうしてこんなタイミングであやつが姿を見せるのか、まったくもって考えたくもないほどに、これは嫌がらせだと断定したいほどに気に食わないが、しかし、この場にボクがいる以上は避けては通れぬ道ならば、逃げるしかほかあるまい。なあ?」
「いいから、もう行けよマーデ。そんな情けないお前を見たのは初めてだぜ」
「……つまりボクのか弱い一面を見て、ギャップが喜ばしいと、そういうことかね? ――まてフェイ、現実を直視したくない気持ちはわかるが、何故、フェイが銃を向けるのかね」
「同じ女として許せない何かが芽生えたのよ。いいから行きなさい」
「うむ。では頼んだ……が、おっと、忘れていた。最後に一つ、忠告をしておこう。いいかね? 諸君、死ぬなよ」
などと、長長と妙なことを口走った挙句に、置き土産とばかりにそんなことを言って、ふらりとマーデは姿を消した。
「……アブ、先に表に出るか」
「ん? ああ、そうだな。遅れんなよ、お前ら」
「さてね。呑気に観戦というのも悪くはないと、僕は思っているけれど?」
好きにしろと言って、外へ。軽く目配せをして屋内を探るが、狐や吹雪などの気配はない。
「最近、野雨でいろいろ動いてるみてえだな?」
外に出て煙草に火を点けたのはほぼ同時に、口を開いたのはアブだ。
「いくつか、情報が耳に入ってるぜ」
「間抜けを晒したつもりはないんだが……まあ、気付くか。少し興味があってな」
「何に」
「野雨という在り様に関してだ」
「……妙なことに興味を持つもんだな」
「自由行動が許されると、暇をどう潰すかでいろいろと考えるようになったからな」
「へえ。どのみち、お前の行動はわかりにくいけどな……いつの間にか、左腕も失ってやがるし」
「義体は二度目だ、慣れてる。お前だって腕の一本は失っただろ」
「最初にな。……ま、お前に関して疑問を抱いているのは俺だけじゃねえ」
「それでも、たぶん一番理解してるのはお前だろうな」
「ふん、どうだかな。で?」
「なんだアブ」
「来訪者については予想してんだろ」
「俺をなんだと思っているんだ……」
「ベルだろ」
「まあな。腹の探り合いは面倒だろ、アブ。もう来る」
「早いな」
そうして――彼らは逢うことになった。
山を抜けて、ここへたどり着いた、青色の中国服を着た男に。
「よォ――ッと、なんだ」
止まったのは十五歩の距離、彼は周囲を見渡してから、わざと頭について金色の髪飾りを、ちりんと音を立てるように揺らした。
「あの馬鹿は逃げたか……ま、苦手意識を持ってンのは、俺だけじゃねェッてことかよ」
登山をしてきたというのに、服には汚れが一切ない。もちろん、今のベルたちならば、造作もないことだが、観察としては一般的なものだろう。
ベルは知っている相手なのか否か、定かではない。ただアブは、フェイやマーデ、あるいはコンシスに感じる〝何か〟を、この男から感じていた。
「火をくれよ、そっちの小さいやつ」
「いいぜ」
小さいの、と呼ばれるのには慣れている。事実、ベルよりも少し背丈は小さいアブは、煙草を咥えた男の周囲に、術式が火を作った。
火――というより、火炎だ。火柱とも言えるそれは、薄暗い時間帯を赤く染め上げるほどの火力を持って作られたが、しかし。
燃やすことも、焦がすこともなく、相手は三歩だけ前へ出るようにして火柱から出てくると、火の点いた煙草を吸い、紫煙を空に吐き出した。
「さんきゅ。こいつも久しぶりだ、最近は同居人のこともあって、吸ってなかったからなァ」
何かしらの術式を発動させたとは思えず、眉を顰めながらアブは術式を解除する。
ただ、この男は、当たり前のように火の中から出てきた。料金を支払って、飲食店から出てくるかのように。
「ふうん? 俺のことは知らねェのかよ」
「知らないな」
「二ヶ月前にツラを見せたと言っても、確証にはならねェか? わかるよなァ、ベル。少なくともアブよりゃ、お前ェの方がわかるはずだぜ」
「――」
「俺のことはブルーでいい。まだ顔も見てねェどっかの誰かが、勝手にそう呼んでるらしいッて聞いてるからよ」
「へえ、俺らのことは調べ済みってか?」
「アブ、あんまり間抜けを晒すなよ。調べる必要なんかねェだろうがよ――お前ェらの仕事がどっから回ってくるのかを考えりゃァ、椅子に座っててもわかるじゃねェか」
「お前があの〝策士〟か」
「馬鹿、あれのどこが〝策〟だよ。上手い具合に回っただけだろ」
「上手い具合に回っただけで、天魔第一位を〝鎮めた〟とでも?」
「武術家連中の騒ぎに巻き込まれた俺が、一体何をしたッてンだよ。指揮を素直に受け取るタマか、連中がよ」
「あいにく、武術家の繋がりはなくてな」
「キツネがいるじゃねェかよ」
「……」
「――つーか、まあいいんだけどな。ブルー、あんた何しにきたんだ」
「ん? おゥ、それよな。ちょいとした質問だから気楽に答えてもらって構わねェが、おいアブ、お前ェ、先に駒だと言われて動くのと、全部終わってから駒だと気付くの、どっちがいい?」
「……は?」
「駒の自覚があるベルなら、こんなことは聞きやしねェよ。もっとも、動かされたことはねェと踏んでるのよな、これが」
「いや――なんだ、その二択……ちょっとまて、理解が」
追い付かない、当然だ。
そんなこと、考えたこともなかった。自分が駒であることなんて――いや、誰かに使われている自覚があったところで、それは決して、〝駒〟と同義ではないはずだ。
それを――この男は。
いやベルは、反論すらせず、受け入れている?
「ああ、それと、こいつも言おうと思ってたンだよ。――俺の身内に手ェ出したら、それがどんな状況であっても、お前ェら、死んで済まされる問題じゃねェから、気をつけとけよ? ああ、こいつは脅しじゃねェよ、単なる忠告。実際、お前ェらに回される依頼のほとんどが、〝俺たち〟を避けてるから、気付くだろうとは思ってるからよ」
「手段を選ばねえってことか、そりゃ」
「逆だよ、逆。こう見えて――俺が当たり前のようにこうしていられるのは、俺の身内がいるからだ。足かせだよ、束縛でもある。けど、その方がいいよな? 今すぐに世界が壊れちまうより、よっぽどマシだろ?」
「なんだそりゃ、どうしてそうなる」
「どうしてッて……たとえばお前ェ、アブが手ェだして、間違って殺しちまうだろ?」
「たとえば、だな。ああ、その方がわかりやすい。さっきから、意味がわかんねえんだよ、理解力を越えてる」
「はは、お前ェならすぐわかるようになるよ、そう焦るな。で、まず俺はアブを殺すよな」
「んなあっさりと……」
「できるできないは除外しとけよ、今のところはな。そしたら、アブを止められなかったベルを殺すだろ? アブの行動に気付かなかったフェイとコンシスを殺して、逃げるマーデを追うのが面倒だから、逃げ場を失くすためにほかを潰すだろ? この時点で世界の半分は壊れるだろうし、そもそも今の〝世界〟ッてのは、案外不安定だから、ちょっと蹴り飛ばせばぼろぼろと連鎖的に破壊されるしよ、俺が普通にこうしている理由がなくなっちまったら、まァいいよなと、そう思うわけよ」
「……」
「アブ、俺から一応言っておく。――ブルーは〝できる〟からな」
「マジかよ」
「ああ……足かせがあるなら、まだいい。それをしない理由も、お前が持つような〝志〟もある。それがなくなりゃ、俺らの命なんて紙屑より価値は低い」
「へいへい。つーか、それを〝知ってる〟か否かってのは重要じゃね? どうなんだブルー」
「そうだよなァ」
煙草を咥えながら、面白そうに青色は笑う。ため息はベルが。
「好きに使えばいい」
「お前ェはそう言うよな。今の会話の流れで、何をするかもだいたい察したし、実際に駒として動けば、俺の手を読んだ上で立ち回るんだろう。それが一番厄介な手駒だってことも、わかっていて頷いてンだから、性質も悪ィときた。――知ってたけどよ」
「……つまり、あれか。俺らを使って、ブルーの住んでいるところっつーか、それこそ日本や世界的に、ブルーの身内ってやつが誰で、手を出すとどうなるのかを、大大的に公表しようって算段でも立ててる――で、合ってるか?」
「おゥ、遅くてもそこにたどり着けば問題ねェよ」
「馬鹿だろ……」
「そうか?」
「いや、実現可能かどうかってのはいいとしても、それを〝やろう〟と思い至ること自体が、俺にはねえ思考だ。情報部を潰して、末端の兵士を助けるのとはわけが違うぜ」
「あー、ジィズとシェリルな。今はもうちょい数も増えたけどよ、あの仕事はなー、別口が絡んでるンだけど、知らねェか。ほら、軍部を間借りして新しい組織の立ち上げが動いてるのは、資金の流れで見えただろ?」
「ああ、確認してる。……俺は、だが」
「俺は知らねえ。そうなのかベル」
「知らなくて当然だ、ここ一ヶ月程度のことだからな。終わった仕事だが、それなりに情報は集めてる――が、集めていることを知られていたのは、ブルーがナンバリングラインの上位権限を持っているからか?」
「ありゃ〈鷹の目〉の……」
「それも俺の〝身内〟だ。――ま、あの女にゃ俺の保護は必要ねェよ。アレの〝匣〟に手を出す馬鹿は、ほんの一握り。俺も表舞台に立つまでは、匣の中にいたしよ」
「情報源として使っているわけでも、なさそうだ」
「まァな。情報なんてのは、集めなくても〝知る〟ことは、そう難しくはねェのよな、これが。人の選択も、想像を絶するものは、少ねェ」
乗せられているわけでもなく、会話を重ねるたびに、情報を小出しにされているのがわかる。察してみろと、推測してみろと、そんな挑戦状にすら感じた。
「まァそう難しく考えるなよ。俺としちゃ、単なる顔見せだ。そうそう逢うことはねェだろうが、日本にいる以上、俺のことを〝知らない〟じゃァ困るのよな、これが。いや――実際にゃ」
頭を掻く、面倒そうに。
「尻を叩かれて、表舞台に立ったなら、一度見ておいてくれと頼まれたッてのが、実情かもしれねェのよな、これが」
「――誰にだ」
「ん? 知りたいのか、アブ」
「上か?」
「上じゃねェよ――と、そう言っちまえばベルはすぐ理解しちまう。いいか、俺が俺として生きると決めた時に、まず出逢った相手がいるわけよ」
笑う。
やや睨むようにして、けれど嬉しそうに、笑う。
「それは箕鶴来狼牙であり、エグゼ・エミリオンであり、椿青葉で――そして、躑躅紅音だ。姫琴雪芽に関しては、これからだけどな。それがどういう意味なのか、知ってンのは俺に逢うのが嫌で逃げ出したマーデだけ。ま……あの女は知っていても教えられねェよ、嘘しかつけないパラドクスを日常にしてる」
さてと、そう言って青色は煙草を消した。
「ベル、お前ェ暇だよな? 明日――は、藤堂ンところに用事を入れちまったから、明後日から少し、俺に付き合えよ」
「装備は?」
「いらねェよ。用事があって、あちこち移動するから、足になってくれ。ついでに、移動中にでも俺の話し相手になってくれりゃ、それで充分なのよな、これが」
「ああ、どうせ仕事もないから、構わないが、野雨か?」
「そういうことだ。それと――明後日までに、設計図は完成させとけよ。手が遅いのは役所だけでいい」
「……」
「質問はあるかよ」
「なら俺から一つ」
「なんだアブ、いいぜ言えよ」
「なんだって山からきたんだ? 車で来れるように道があるだろ」
「――はは」
なかなか、良い質問だと青色は思う。的外れのようでいて、返事がなくても問題がないような、皮肉めいた問いだ。
だから、笑ってしまう。そういう相手は、答えを自分で見つけようと足掻く者が大半だから、嫌いではなかった。
「俺は、ここの〝職員〟でもなけりゃ、呼びつけの〝医師〟でもないんだよ」
それに。
「逃げ道を確保しておくなんてのは、当たり前だろ?」
自分のためではなくて。
誰かが逃げるための道を残しておき、あえて逃がしてやるのは、果たして優しさなのだろうか、どうなのか。
そんな、どうでもいいような思索を巡らすアブを横目に、片手をひらひらと振って山を下りる青色の姿を、ベルはため息と共に見送った。




