10/25/11:00――蒼凰蓮華・学園の理事長
十月も下旬に入り、早朝は既に涼しくなった時期。ようやく身動きできるようになった蒼凰蓮華が八時前にVV-iP学園の理事長室を訪ねると、紺のスーツを着て事務机に座っていた五木忍は驚いたように立ち上がり、笑みを浮かべて招いた。
「――いらっしゃい蓮華、こうして顔を合わせるのは二ヶ月ぶりになりますね」
「よォ」
嬉しさを隠そうともせずに差し出された手に、蓮華は苦笑しながら握手で応じる。電話連絡こそしなかったものの、メールなどで少し用件は伝えていたのだが、ほぼ音沙汰のない状態だった上、忍にしてみれば友人の一人がこうして来てくれたことに、誤魔化す感情は一切なかった。
「どうぞソファへ。何を飲みますか?」
「ここは喫茶店じゃねェだろ。珈琲でいいよ」
部屋の隅にある珈琲メーカーに落としてある黒い液体が見えたため、蓮華はそう言って応接用ソファに腰を下ろす。忍はすぐにカップを取り、珈琲を移してから対面に腰を下ろした。
「良かった。蓮華がこうして顔を見せてくれただけで、随分と肩の荷が下りたような気がします。もう躰の方は完治なされたのですか?」
「見ての通りだよ――つーか、二ノ葉から聞いてンじゃねェのかよ」
「ええ、それとなくは聞いていますが、それも瀬菜さんからの又聞きです。私も周辺整理で忙しく、見舞いに行くこともできませんでしたから、やはり心配していました。暁も随分と酷い有様でしたから」
「ん――つーことは、暁が戻った時はまだ雨天家にいたッてことかよ」
「その翌日に、この学園へ来るつもりでした。もっとも暁の場合はほぼ一日寝込んだだけで、すぐ身動きできるようになりましたよ」
「はッ、あの野郎のことだ水風呂にでも叩き込めば三分で復活するだろうよ」
「ご存知なのですか?」
「おいおい、マジで水に沈めたのかよ」
「いえ――自室で寝込んでいましたが、物凄い水気でした。それこそ九尾……いえ、玉藻様の金気に等しいほどの」
戻ってきてすぐ、少しの挨拶と言葉を交わした雨天暁はそのまま着替えを行い、何か手当てをするのでもなく、しばらく寝ると言って自室に引きこもった。さすがにその中に入ることはしなかったが――それでも、部屋の前を横切ることはある。何しろ忍たちも傷が完治するまで、この場に落ち着くまでは雨天宅にて世話になっていたのだ。
「その場にいるだけで、それこそ溺れるかと思いました」
「はあン……獣が傷を癒すためにじっとしてるのと同じよなァ。暁にとって水気は揺りかごだ、躰に流れてる水と同調でもさせて超回復を狙ったンだろうよ。で、他の連中はどうだ? 涼や咲真は問題ねェだろうけど」
「私は軽症でしたから。二ノ葉も舞枝為も、普段通りの生活を送っています。ああ舞枝為に関しましてはこれを機に一人暮らしをしたいとのことでしたので、許可しました。しばらくは様子見ですね」
「様子見?」
「さすがに、すぐに契約とはいかないもので」
「俺が良い場所を知っていると言ったら?」
「後程、詳しく聞きたいところですね。舞枝為のためにも」
「ふうん、……なるほどね。良いンじゃねェか? 悪いことじゃねェよ」
「――、ありがとうございます」
それが、舞枝為を斬った忍の贖罪であっても、悪いことではないと蓮華は思う。過去を切り捨てるのは簡単だ、それを背負うのも大した苦労はない。難しいのは過去を認めた上で前に進むことだ。もちろん、忍にはそれができないとも思ってはいなかったため、これもまた想定の範囲だが。
「けど、お前ェに対しては怪我じゃねェよ。ここのおはどうした」
「ははは、そうですね。やはり気になりますか」
「ん、可能性の話よなァ――」
可能性。
その言葉だけで忍は無意識に姿勢が正される。
あの一件――いや、忍がこうしていられるのは、蓮華がその可能性を見通していたからこその結果だからだ。
忍は、他者とは違う思考能力を持っていることを自負している。それは単純な並列思考だが――蓮華のそれは、あっさりと忍の思考を飛び越していた。
つまり、乗っている盤面が違うのである。いやむしろ蓮華は。
「おいおい、べつに法式は使ってねェよ。そう警戒すんなッて」
「――失礼、思わず」
「いいよべつに、気にするな。あのなァ、お前ェも一ノ瀬もなんつーか達観し過ぎだぜ? この結果に対して俺に恨み言の一つもぶつけろよ。ッたくよォ、お人よしッつーかなんつーか……ま、それも在り方よな。ンで、どうなんだよ。たとえ五木の天魔になっても、ここのおは金気を持ってることに変わりはねェだろ」
「ええ。けれど刀そのものは金気を持つものです」
刀とは金属そのものだ。それが木でできているのならば、そもそも刀にはならない。そして五木一透流とは刀を扱う武術だ。
「ただ、その……」
ちらりと忍が視線を向けたのは理事長の机。その横に置かれた刀で。
「……ここのお様ではなく、玉藻様が暇を見つけては顔を出して酒を出せ、と」
「ははははッ、酔って服を脱ぎだしたら逃げろよ! あははははは!」
「二ノ葉だけ置いて逃げ出せませんよ……酒の備蓄も欠かせませんし」
「いやいや、そんくれェの問題ならどうッてこたァねェよ。俺としちゃァそうさな、酒に付き合えと言われたら迷わず雨天の家に連れて行け。そうすりゃァ百眼と飲み明かすぜ」
かたん、と刀が音を立てて揺れた。
「近く連れて行け、だとよ忍」
「やれやれ、これも付き合いと割り切るしかありませんね。蓮華の方に問題はないのですか?」
「俺はこれからよ。まあ今まで死ぬほど退屈だったしなァ――」
「学業は、休んでいたようですね」
「一ノ瀬が言うんで、外出はかなり止めてたよ。それでもまァ細工は多少したけど」
「――そういえば、瀬菜さんとはどうなのですか?」
「あァ? 暑さで頭が沸騰したのかよ。一体何がどうだッてンだ」
「瀬菜さんとは同居しているのでしょう?」
「ああ、まァな。姉貴も兄貴も気に入ってるみてェだし、よくやってるよ。気が利くのは生来のものか? 邪魔にゃならねェし、一ノ瀬も満足してるンじゃねェの?」
「……なるほど。それはそうですが、しかし」
「なんだよ」
「――瀬菜さんはどこか、蓮華に好意を持っているのではと解釈していたものですから」
「ンなこたァ知らねェよ。聞いたこともねェし」
「そうですか……」
「けどまァ――どうなんだろうなァ。俺としちゃ随分と助かってるのよな、これが。一ノ瀬が帰宅するのも当たり前ェになっちまってるし……それが当然ッてよ。けど、だから一ノ瀬がいねェ生活ッてのは想像できねェな。依存してるわけじゃねェよ? いなくたッて生活くれェできるはずだ。拘泥、いや、気に入ってンのかね、惜しいと――たぶん、思ってる。たぶんだけどよ」
「――」
「驚くなよ。俺が素直なのは知ってるだろうがよ」
「失礼、そうでしたね。ただし感情には素直であって、言わないことを誤魔化すことにも長けているかと」
「ははッ、違いねェ。まァ一ノ瀬との関係は、わからねェのよな、これが」
「わからない?」
「おゥ。だからまァこれからの話よな。――ゆっくりやるよ、俺なりのやり方で」
その苦笑を見て、ああと忍は頭の片隅で納得する。
蓮華は、きっと人付き合いがわからないのだ。さしさわりのない会話、目的のための一手、そうした行為は自然に行えるが、そこには線引きが必ずある。感情を基本的に隠さない蓮華ならば、たとえば以前に暁がそうだったように、誰かを使おうと思った相手が友人に近い位置ならば、使うから力を貸せと直截する。気に入らない他人ならば、あるいは勝手に使うかもしれない。
けれど、それが身内ならば?
あるいは身内にしたいと思える相手ならば?
たぶん、可能性を引き寄せて駒を扱う策士としての蓮華は、そんな相手を策中に置きたいとは思わない。だから自ずと相手が選んだ道そのものを認め、そこに介入しようとせず、ただ見守ろうと思うだろう。
では、見守るためにはどうすればいい?
どこまで手を差し伸べて――どこまでを傍観すればいい?
きっと、わからないのはその線引きだ。
あるいはそれが忍に対しても、今はまだ曖昧なのかもしれない。
「――まァ、でも安心したよ。どのみちVV-iP学園の理事長席には五木の血統しか座れねェからな。だからまァ不慮の事故で死んだりしねェ限り、お前ェの位置は変わらないぜ?」
「創設者だから、ですか?」
「違うよ。違うけど……まァ、教えねェ。わかるかもしれねェし、知らないままでもいいよ。こっち側にゃ入って来るつもりはねェのよな?」
「――はい。私は、刀を再び置くことを、私の考えで決めましたから」
「それでいいよ。こっちの問題は俺がどうにかするから――で、頼んでおいたものは手配してくれたかよ」
「少しお待ちを」
以前にメールで伝えられていたものを事務机から取り出し、蓮華の前に置いた。
それは一枚のカードだ。一目見れば、学園の施設を利用するために必要は学生証に見えなくもない。
「どうぞ」
「へえ、やっぱあったのかよ」
「はい。オールシステム・アドミニストレータ・アクセス――通称をAsAA。これがあれば当学園の全てのドアを開くことができます……が、やはりとは、どういう意味ですか」
「は? そのままの意味だよ。可能性の問題で――ん? 探るのに時間かかったのかよ」
「いえ、理事長権限でアクセス可能な情報の中にありましたが――」
「だよな。五木の席に座りゃァ、見えてくらァな」
「……」
「受け取るぜ?」
「あ、はい、失礼。どうぞ」
「そう考え込むなよ――っと、そうだ。お前ェよ」
「どうかなさいましたか?」
「そろそろ、家でも買ってやれよ」
「……はい?」
「だから、二ノ葉のために家でも買ってやれッてンだよ。いつまでも学園に仮住まいじゃ面倒も多い。どうせ理事長になりゃ、嫌でもここに寝泊りする機会がくるンだから、それを回避する意味でも、家買って二ノ葉を待たせておけ」
「それは――その」
「金銭的に問題はねェだろ? 良い機会だぜ忍、舞枝為も独り立ちするッてンだからよ、お前ェらも腰を据えても良い。どうせ親がいねェンだ、てめェの責任はてめェで負うンだよ。だったら好きにした方が得だぜ」
それともと、蓮華は笑う。
「マジで金銭が足りねえなら都合してやるけどよ」
「……そう、ですね。二ノ葉のためにもなりますか」
「一ノ瀬が言う限り、存外に二ノ葉は向こう見ずで突っ走るきらいがあるんだろ? それこそ落ち着かせといた方が、俺は良いと思うよ。お前ェが席に座ってる限り、共有できる時間は少なくなる」
「ご助言、感謝します。蓮華はこれから挨拶回りですか?」
「おゥ、適当にな。安心しとけよ、さすがに入学前だから学園で問題を起こすような真似はしねェさ」
「蓮華の行動に口出しするつもりはありませんよ。ただ少しご助言をいただきたく」
「ん? 何だよ」
「来年度から現行制度の手直しを考えているのですが……設備に関しては問題なく、芹沢企業とのパイプもありますから良しとして――人材について、どのような手法を打つべきでしょうか」
「そいつァ教育者かよ」
「いえ、研究者で構いません。授業などマニュアルに目を通して行えるだけで良いのです。ただ学生がそれ以上を望んだ時、望んだ以上の知識や技術を伝えられなくては」
「なるほどなァ――ただ高校卒業資格があるだけなら、眠ってたッてできる。それ以上を望む少数のために、か」
「大学棟もありますから、その辺りを利用できないかと」
「……難しいぜ」
「お聞かせください」
「いいか? 自由度を高くすりゃァするほどに、選択肢が広がっちまう。こいつが厄介なんだよ――少数のためにとは言ったけどな、本当に少数だぜ? 何故ッて、二択ならどっちか選ぶだろ。選択肢が多ければ多いほど、一つを選ぶのは難しい」
「――それは、選ばなかったすべてを捨てることになるから、ですか?」
「すべてではなかったにせよ、な。途中から変更できる制度も考えているだろうけどよ、その方が存外に難しいんだぜ。今ある道から他の道を選ぶッてのはよ」
「ふむ……考慮する必要がありますね。思考の発端としては、現状でかなりの自由度がある選択を提示しているのにも関わらず、二年次になれば他の高等学校とさほど変わらない状況を、どうにか変えてみたいと考えたからなのですが」
「最初の選択肢でよっぽどの勇気を出さなきゃァ、その後の選択も無難になっちまうのが常だよ。――そうだ、公立の野雨西高等学校によ」
「瀬菜さんが通っている学校ですね」
「大山教頭ッてのがいるのよな、これが。俺はまァ直接ッつーか……名乗りはしなかったけど、ツラ合わせだけはしたッつーか、そいつも厳密にはなかったんだが、ともかく、教育者の鑑だよ、一度逢ってみるといい。さすがにセッティングまではしてやらねェよ」
「先輩にご教授願うのも必然。なるほど、ありがとうございます」
「人材にしてはそうだなァ……やっぱり同様の研究者に渡りをつけるのが手っ取り早い。もちろんその際にゃ忍が直接顔を拝むンだろうけどよ」
「そこはさすがに外せません」
「あとは、狩人に頼むッてのも手だなァ。こっちの方が、失敗した時の損失が酷いけどよ。さすがに〝四つ耳〟のクーンを引っ張るにゃ、手が足りてねェ……ッと、今のは忘れてくれ、冗談だ」
「なるほど、狩人に対しては依頼として出すわけですね。参考にします――失礼、長長と引き止めてしましましたか」
「それを言うなら朝っぱらから顔出した俺にも責任があるよ。そろそろ授業も始まる頃合じゃねェのか」
「そうですね。ただ私はまだ学生ではありませんので」
「そりゃそうか。で? 理事長の椅子はどうよ」
「真新しいことばかりで大変ですよ」
「ざっと流れを教えてくれよ」
「そうですね、ここ一ヶ月で必要だったのは、私が借り物の椅子に座るだけの傀儡ではないと、周囲に教えることです。いかんせん、まだこの年齢ですから、いくら五木の血筋であるゆえに理事長の席に座ったとはいえ、世襲そのものに疑問視する者もいれば、実権を持たないと最初から決めつける者もいます」
「まァ自然な流れよな。具体的にはどうしたよ」
「現状を否定しました」
「――くッ、くっく……否定したのかよ」
「ええ、全力で。もちろん、再編すべき新しい案も出して、説得材料を揃え、その上での否定です」
まずは自らが持つ能力そのものを提示し、認めさせなくてはならない。理事長と校長はそもそも役目は違うが、ただ椅子に座って安穏とする生活など、忍は求めていなかった。
「ひとまずは、介入の糸口が見えた辺りが現状になります。人材の要請もプランの一つですね」
「――それなら、手ェ貸してやってもいいぜ」
「と、いうと?」
「人材派遣会社のToDDッて知ってるか?」
「はい。っと、失礼。とはいえ、ここ一ヶ月の情報収集で仕入れたものです、詳しく実態を調べたわけではありません」
「だろうなァ。元は藤堂って会社だ。俺の名前を出して接触して、事情を話せよ。そうすりゃァどういう会社か説明はあるだろうし、それを聞いた上で使えるようなら利用してみろ。どっちにせよ、こっち側だろうが何だろうが、落ち着いて思考できる状況が整ってンなら、お前ェの上を行く野郎なんて、そうそういねェよ」
「一つの評価として受け取っておきます」
「謙虚だなァ。ま、一人じゃねェッてことを理解してンなら、なんとでもなるよ。ンじゃ――AsAAは確かに受け取った。また折を見て顔は出すけどよ忍、二ノ葉の件はしっかり考えておけよ」
「はい。蓮華も瀬菜さんの件はしっかりと考えておいてください」
「――言ってろ」
理事長室から蓮華は出て行ってしまったが、改めて忍はほっと一息。肩の力を抜いて天井を見上げた。
二ヶ月。
治療の時間としては長かったかもしれないが、再会の時間としては短いようにも思う。特に身辺で急激な変化が訪れた忍にとっては、短く感じた。けれど二ヶ月も経てばだいぶ落ち着いてきている。
落ち着いた時間を、見計らって来たのか。そのくらいのことはしそうだが、しかし。
――次が、わかりませんね。
大した用事ではないふうを装いながらも、では明日にでもまた顔を出すかと問われれば否、その可能性は極端に低い。また二ヶ月? いやいや、次も二ヶ月で顔を見せるのならばやはり早いと忍は思う。
蓮華は実に身軽な人物だ。
それゆえに、コンタクトを取るのは酷く困難だろう。
――忙しない人です。
だったら、忍がやることは決まっている。
今できることを、やるだけだ。




