08/23/14:00――椿青葉・冥神
彼女にとって世界は彼だけだった。
幼い頃から顔を合わせ、いつも腕を引っ張ってもらっていた。彼の背中は遠くて、けれど伸ばした手は近くて、その距離がいつも誇らしく思えて――だから、あるいはそれも好意という一つの形だったのかもしれない。
けれど、彼は、手を離した。
理由は必要ない。手を離したのが事実、彼の理由も彼女の感情も関係がない。
――関係がないと、彼女は思った。
現実として手を離された。だから、ああ一人になったんだなとその現実を受け入れた。
現実は嘘を吐かない。
だからこそ彼女は割り切りが早く、納得も早く、そして、誰かはそれを諦めと呼んだ。
離された手を再び掴もうとはしない。彼女はただ己の存在を消すように、冷えた感情を檻に閉じ込めて書物を読み耽る日に埋没する。
そんな折だ、その女性が彼女の部屋を訪れたのは。
「あらあら」
その部屋には多くの書物が積み重なっていた。ある種の迷路を彷彿とさせられるほど積まれたそれの法則性は、読んだか否かだろう。ざっと背表紙に視線を走らせた女は呆れにも似た吐息を軽く落とし、両腕を組んで部屋の中央やや奥、革張りの椅子に両膝を立てて座っている彼女に視線を向けた。
見られた、と彼女は思う。あるいは見つかったと。
栞を挟むのでもなく本を閉じて顔を上げると、確かに視線は合った。
間違いなくこちらを視認している。
「雑食にも程があるわね」女は言う。「参考書、実用書、人文書、文芸書、ビジネス、経済、なんでもありね」
「……どちら様かしら」
「興味があるかしら」
「それなりに」
「そう。――貴女の父親が随分と心配していたわよ。自分の娘は、いつの間にかいなくなっていて、気付くとそこに居る。まるで己の領分ではない、状況が掴めない――打開できる人はいないだろうか、と」
「だから貴女は来たのね?」
「結果だけ見れば、いえ、現実だけ見ればそうかしら」
「過程が違う、と?」
「過程が違えば現実が嘘をつくと思っているのならば、訂正も必要でしょうね」
「受け取り方で現実は変わるわ」
「あら、それは貴女にとっての現実が変わるというのね?」
その問いに確信を得た彼女は、閉じた本を未読の山の一番上へ置き、両足を伸ばして頬杖をついた。
――その顔は。
その表情は、女が入室してから一切変化がない。
能面のようだ、いや、能面だとて能楽において感情くらい表現できる。
人形のようだ、いや、今時の人形で感情を表現しないものの方が少ないか。
無表情、である。
瞳の表面にすら感情は浮かばない。
「間に数人を経由して、私のところに届いたのよ――ああ、一応名乗っておきましょうか。椿青葉よ」
「……?」
「ああ聞いたことがない、それは正しいのよ。私は魔術師ではないし、この家との直接的な繋がりもないもの。……いえ、そうでもない、かしら」
「――悲しみ」
「寂寥と云うのよ」
「あの、何の御用かしら」
「あら、――私に対しての危機感は必要ないわよ。見ての通り、私は特定状況下でなければ一般人だから。ええ、本当に参る話よね。他の子と同列されると参るわ」
「意味がわからないわ」
「〝意味〟がわかる人など、いないわよ。わからずに繰る馬鹿と消す馬鹿は知っているけれど。そうね、貴女の壊れ具合なら丁度良いかしら」
「壊れ具合」
笑おうとして、しかし彼女はどうやれば笑いになるのかがわからず首を傾げる。肩を揺らせばいいのだろうか。
「自覚しているのね?」
「私が壊れている? かつてか、あるいは今か」
「いいえ現在よ」
いやに念押しをするのだなと思いながらも、彼女は小さく頷いた。
「ええ、私は壊れている」
「そう。……では次に、何故本を読み耽るのかしら」
「知識を蓄えることで理解を得る。……本の受け売りだけれど、間違ってはいないでしょう?」
「その続きも付け加えておくわね。――それを経験しなければ身につかない、と」
「どうして私を見つけられたのかしら」
「あら、どうして貴女を見つけられないか、その原因に至ってはいないのね」
なるほどと女は頷き、その理由について考え――しかし、あえてそれを口にしようと思った。
だから、独り言のように伝える。
「魔法師としての覚醒は生存が確認された時点で行われている。魔法とは法則の一旦、世界の均衡が崩れるに従って魔法師の存在は増え、均衡を保とうとする――けれど、覚醒と自覚は等号によって繋がれない。なるほど、つまり貴女の父親もまた、己が求める究極についての理解は及んでいないようね」
「……?」
「厳しい言葉を使うなら、知識を求めるよりも前に己を求めなさい」
「知識がなくては自己も解明できないのでしょう?」
「自己も解明できなくてどのように知識を蓄えるのかしら」
「平行線ね」
「ええ、究極的にはそこへ至るけれど、その見解は早計ね。――いいわ、話をしましょう」
今でもしている、と彼女は思った。
前振りはこの程度でいい、と女は思う。
「狩人を育成するための企画が水面下で動いているの。そのために幼い子を集めているわ」
「狩人?」
「そう――専門を持たない狩人を育成する、そうした名目ね。興味はあるかしら」
「……」
「そこは、一般人にとって地獄だけれどね」
「貴女にとっても?」
「言ったはずよ、私は一般人なのだから」
「その地獄に突き落とそう、と?」
「馬鹿ね、選択するのは貴女よ。そして、私は貴女を選択した」
「私ならばあるいは?」
「そうね――あるいは、壊れている状況そのもので均衡を保てるかもしれないわ」
「……そう」
彼女は考えている。正直なところ、女はどちらでも良かった。
「貴女は彼を捨てたそうね。ああ違うか……ただ、手を離しただけなのだから」
「彼が私の手を離したのよ」
「違うわ。貴女が見捨てたのよ。――手を、離したの」
「そう、……なの?」
「ええ。何故なら貴女はここに居る。手を離さなかったのならば、まだ彼の元にいるはずなのだから」
「……私が、捨てた」
「そうね。ただその彼もまた、壊れているわ……どうでもいいわね。少し考えておきなさい。拒否も肯定も、私はどちらでも受け取るわよ」
「いいわ」
「――あら」
「いいわ。その地獄、行ってみてもいい」
「戻れないわよ?」
「そうね。私には戻るのも、進むのも受け取れないわ」
でしょうねと、女は頷いた。
何故なら彼女は、常に現在にしか居ないのだから。




