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ハジマリの場、オワリの所  作者: 雨天紅雨
■2026年
29/790

08/11/01:20――名無しの少女・夏、雪が降る

 その日の夜、初めて発生した紅色の月は遠い空の上で真月より一回りほど大きく。

 夏に、雪が降った。

 差し出した掌に触れた瞬間に消えるそれは、本当に雪なのだろうか。むしろ雪明りと呼ばれるものがあるとしたのならば、このような光景を云うのではないか――寒くもないのに、ただひらひらと落ちるこの雪を、どれだけの人間が見ているのだろう。

「十五年」

 何もない空間を握るように、わかっていても何かを掴める気がして――何も握れなくて、小さな吐息を落とす。

「アイツの言った通り、ここ十五年で爆発的に魔法師は増え、世界は均衡を保とうと動いた。……その中で十五年。結局アイツには何もしてやれなかったな」

「あの子は望んでいなかったでしょう?」

 その腕を引き寄せると暖かさを感じる。真夏の夜なのにも関わらず、その心地よさを欲したのは心の寒さからか。

「役目は果たせたのかしら」

「……どうだろうな。アイツは存在してはいけないモノだった――この雪は、魔法師の発生によって世界が特定の状況に構築された結果だと、捉えてもいいだろう。そしてアイツは記録から抹消され、ただ記憶に残るだけになった。役目は、……消えることだろ」

 ここではないどこかで、じっと空を見上げて雪の降る先を見ていたが、スーツ姿の男は、やがて帽子を頭から外すと、うな垂れるように俯いた。

「消えることを、死ぬことを定められていない人はいません。けれどその死期を、己の手で決められる人は少ない……貴女は、それでも成し遂げようと前を向いて歩いた。結果的に見ればその生き様に感銘すら受けましょう。今、結果は出た。そしてこれからも出続けるでしょう。それを見届けるのが私の役目であり約束です――けれど、誰もいないこの場だからこそ私は感情が向くままに内心を吐露できる。……ああ、わかっていました。こうなることなど、火を見るよりも明らかです。しかし」

 薄暗い地下書庫でも雪を肌で感じることができる。いや、それどころか己の記した記録から一つの項目に順ずるあらゆるものが消失してしまえば、管理人が気付かないはずがない。

 は、と短く吐かれた息は掠れ、震える声が落ちる。

「悲しいし、寂しいよ。もういないって事実が、どうしようもなく」

 わかっていても、定められていたとしても、離別はいつだとて寂寥を伴う。

「いくら逢いたいとこれから願っても、叶うことはない。決してだ」

「それでも私たちは、約束を因子に記憶を刻み、その折に思い出すのね」

「貴女との時間を。そして、今感じるものと同じ寂寥を……今は辛いと感じています。けれど」

「この辛さこそが残された記憶なら、抱いてくしかないね」

 しかしと、喫茶店の内部で窓から外を見ていて――やがてぽつりと、そう呟くことで続く言葉が出てくる。いつしか馴染んでしまった、己の言葉が。

「果たして、消えることが本当に役目だったのかい?」

 返答を期待した問いではない。けれどきっと、返答は欲しかっただろう。

「多くの選択肢の中に消えないものも在ったはずだ。けれどその道筋は細く、そして君の望むものではなかったんだろうね。だから役目など――なかったんだよ。君はただ、望みを叶えただけだ。独善的に、傲慢に、脇目も振らずに、己が消えることを選択したのならば、それまでの密度を高めようとして、結果的に君はそれを早めてしまった。けれど、だからこそ僕はこう問うべきだろう」

 それこそ返答を期待した問いだ。

 少年は言う。

「――君は、満足だったかい?」


 これでいい、と彼女は思った。

 こうでなくてはならない、などとは思わない。

 全ては結果だ。手中に得た結果に対し、彼女は良しと判断する。だからそれが全てで、以上も以下もない。

 雪が降っている。

 懐かしい道を歩いている。

 かつて創造理念を内に秘めた者と出逢う契機になった道を、もはや痛みも感じない存在すら希薄になった身を引きずるようにして、ただ歩いている――そんな意志を抱いて移動していた。

「――辛い役目を、押し付けてしまったね」

 大人びた声が聞こえた。ああ、声が認識できるんだな、よくこんな己を見つけられるものだと彼女は思い、口元を綻ばせて言葉を紡ぐ。

「やあ」

 言葉が出た。かつて誰かに譲渡して以来、震えていなかった声帯が機能したことに驚きはない。それは空気を震わせていなかった、つまり声になどなっていなかったからだ。

 それでも、言葉は出た。そうだとわかる。

 そして、それが相手に通じるのだと。

「〈一夜の紅灯(エンド・ジェネシス)〉――其れは原初にして創造、あるいは創生。破壊とは無縁でありながらも、破壊がなくては効力のない理。……だから、君は知っていたはずだ。僕のような陥穽は存在してはならない、と。それでも誤魔化して引き伸ばしてくれたことに感謝すれど、それを辛いなんて思ったことはないよ」

「それでも貴女は選択した。空に紅月が在るように、可能な限りの均衡を作り上げながらもたった一つの鍵で容易く崩壊してしまう仕組みを構築する――そんな選択を」

「それは君の望むところだった、かい?」

「そうであればこそ、――訪れるはずだった大崩壊は先延ばしになった」

「望みを抱けるほどに君は自由ではいられない、そういうことだね。――いいかい?」

「どうしたのかな」

「僕は、生きてきた軌跡を残せただろうか」

「もちろん」

「それが彼らにとって足枷に、なるだろうか」

「彼らは、もっと貴女に頼って欲しかっただろう。けれど貴女は、それが我侭で独善的だったとしても、拒絶して己から与えることを選択した。それは彼らも理解している。しているけれど――思考による理解と、感情は別物だ」

「悲しんでいると、寂しいと思ってくれると、僕は期待していいんだろうか」

「抱く期待を、誰であっても否定することはできない」

「ああ……でも、そう思ってくれて嬉しいと感じるのは、駄目だろうか」

「感情は個人が抱くものであって、それを押し付けなければ侮蔑することはできない」

「そっか。うん、それは、良かったよ」

「満足か――と、問うてもよかったかな?」

「はは、そうだね。不満はないし、心残りはあれど遣り残しはないよ。残念なのは、わかっていたけれど、僕がもう記憶できないってことさ。うん、でも、――少し疲れたよ」

「……ありがとう」

「いいんだ、構わないんだよ。言ったろう? そう君が言ったんだ。僕は我侭で独善的なまでに選択を固持した。だから僕が自分勝手にやっただけのことだよ。けど残念だ。最後にこうして、きちんと逢えたのに――合えたのに、邪魔が入らないのに、僕は君に渡すものがもうないんだ」

「もう貰っているよ。貴女が選択をして得た結果が、これ以上ないものだ」

「それなら安心だ。――安心して往けるよ」

「……何か、あるかな」

「何も。ああ、本当に何もないんだ。――いいな、何もない今の自分がこれほどまでに気分が良いなんて思いもしなかった。いろいろと不具合はあるだろうけれど、後の者に全て任せて往ける。いいね」

 彼女は、両手を広げて破顔した。

「往くよ」

「ああ、往っておいで。だから――」

「うん。また逢おう」

 それが決して叶わぬ望みだったとしても、まるで礼儀のように言う。

「また逢おう。いつか、どこかで」

「そうだね。また逢おう。その時は良い酒を用意しておくからね」

「それは、楽しみだ」

 その日、名も持たぬ少女の命が消えた。

 それはきっと、この時代が終わりに向かって走り出す合図だったのだろう。

 ――こうして物語は、次世代へと引き継がれる。



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