11/09/21:20――姫琴雪芽・呑気な記録者
魔法師とは一体何なのか。
この問いに対して魔法を扱う者だと返すのは実に愚答であり、魔術師とは打って変わって答えにすらなっていないと嘲笑を浴びるのが必定である。
曰く、魔法師とは秩序の一端を担う者である。
魔法と魔術との区分は実に明確であり、魔の術――つまりは技術なのか、それとも魔の法則なのか、言語上で既に定義されているも同然であり、その差異に気付かぬ者は最初から魔法師とは、などと疑問を抱かない。
魔法とは究極的に法則を保持する者だと、魔法師ではない彼女は言う。
「雪芽や狼牙のように、そして青葉のような明解な魔法師が存在する以上は、やはりその定義が蓋然性の高いものになるだろうね。世には多くの法則が存在している。僕に言わせれば設定なんだけどね。モノが落ちるのには重力という名の法則があり、風が吹くのは気圧という法則がある。時計の針が進むのは時間という法則だ。過去へ遡れないのも法則だし、未来を先取りする事の困難さも究極的には法則さ」
しかし、魔法もまた己の魔法回路に魔力を通すことで、現実世界に影響を引き起こす。重力を操作したり、威力を無効化したり、あるいは空間すら飛び越える――技術として使えば、の話だが。
「魔法に関して、何故という問いはナンセンスだ。本当にね、こればかりは本当に笑うしかないんだよ。そういうものだ、という言葉で凡てが説明できてしまう。そして、僕たちは〝そういうものだ〟としか認識できないソレを秩序の上位にある〝概念〟と呼ぶ。法則の器であるのが秩序であるように、秩序の制御を概念が担っているというわけさ。別段難しい話ではないんだよ。三次元空間が四次元方向に乱立しているのと、同じようなものだからね。いや、同一だ。これらはひどく密着していて、この二つをなしにして解法など求めようがない」
何故、魔法師が存在するのだろうか。
それもまた簡単だ。――そういうものだから。
「構造的には同じなんだよ。ただし下部構造だ。世に多くある、その凡ての〝意味〟という法則を司る魔法師は三人いる。意味を〝使役〟することで指向性を生む魔法師と、意味を〝消失〟することで終わりを具現する魔法師と、意味を〝含有〟することで初期化する魔法師の三名だ。三という数字はそれ自体が既に安定を体現していてね、彼らは三名で意味という法則を支えている――そう、支えているんだ」
そういうものだ――その言葉と共に得られる結論は、姫琴雪芽にとって実にわかり易く、また納得に足る材料だった。
雪芽は誕生した瞬間から、記録することを身につけていた。それが権利であり、義務であり、それを除外したのならば雪芽は雪芽でなくなるだろう。
「だから、あるいは、雪芽がそうなのは――狼牙が頭を痛める原因も、そこに直結するのかもしれないね。どうしてって、雪芽は最初から完結してしまっているんだからさ」
あえて完成という言葉を選択しなかったのは雪芽も気付いたが、それを問おうとは思わなかった。そうなのかなと首を傾げただけだ。
二十時に閉店してから、閉店作業を父親に任せた雪芽は賄いを簡単に作り、店内で食事を終わらせてから自宅へと戻った。このご時勢には珍しく、喫茶SnowLightはデパートの一画や高層ビルの一室などではなく、平地の一軒屋である。故に自宅も二階などではなく店の裏側に、二階建ての小さな家を作ってあった。
学校から帰宅してすぐに店に出たため制服のままだったが、雪芽は一度シャワーを浴びて私服に着替えた。夜間は治安がひどく悪いし、制服のままうろついていればすぐに補導されてしまう。ただでさえ童顔なのに、それはまずい。
しかし――。
よく集中力が持つなと、まだ店にいるだろう公人を思い浮かべて首を傾げた。
堪え性がないと弟にはよく言われるが、そもそも雪芽はぼうっとしている時間が好きだ。何かに集中している時も、ふと振り返って自分が何を考えていたのかわからなくなる程にぼうっとしている。はたと気付いて作業を見ると、別に進んでいないわけではないのだが。
けれど公人はずっと思考している。思考している自分に気付いていて、そこから解答を導き出し、何かを得ようとしている――それは雪芽にはできない行動だ。
思考するのは苦手だった。もっと考えて言葉を口にしろと言われるが、一体何を考えればいいのかがわからない。わからないから、それを行おうと思わない。故に苦手と表現する。
自分は、ただ記録するだけの人間だと思っていた。今でもそう思っている。
物事を記録し、でき事を記録し、世界を記録する。圧縮言語と呼ばれる、高密度情報筆記体を使って文章にする。およそ大学ノート一行で、同冊子四冊分以上の情報を書き込めるが、それを読み解けるのも自分だけだろう。
だから自分のための記録なのだろうと思う。あるいは誰かが読めれば、その人のための記録でもあろう――ただ、その誰かは今まで見つかってはいないが。
結局のところ、雪芽の魔法師としての能力はそれだけなのである。
記録すること。記録にまつわる技法。
時計を見て、そろそろかなと雪芽は自室のテーブルにある本を手にとって店へと戻る。その本の装丁は厳かで、表紙には〝志半ばにして放棄することを赦さず〟と圧縮言語で記してあった。本棚を見ると、既に厚さ十五センチはあるだろう同一の本が五十ほど並んでいる――。
これは雪芽の記録書だ。これから起こるだろうことを、今起きていることを、ずっと記し続けていく、自分の役目。
そこに何故と疑問を持ち出すのは、本当にナンセンスだ。
「そこで朗報だ。いいかい雪芽――僕は、狼牙の代わりにこれだけは言っておこうと思う。魔法に対する疑問は必要ないけれどね、自分の仕組みがどのようなものかを理解するための疑問は必要だぜ?」
そっかと、その時は頷いたけれど、その疑問は未だに解決できていない。
自分のための世界という自分の記録。他人のためではない、自分のために記すとされる〝日記〟でさえ、究極的には他者に見せるべきものだ。あるいは見られると換言しても良い。自分の記憶を補填するための記録は、答え合わせに必要な解答のようなもので――辻褄合わせに使うもの。
前置すべきは、自分の、だ。
自分のための自分の記録。補填するための記録は自分の記憶と照合される――総てが自分のもので、全てが雪芽のためのものだった。そこにどんな仕組みがあるというのだろう。
全くもって理解を外れている。
玄関を出て渡り廊下に至ると、ほんの五センチ先にある喫茶店の裏口が開いて父親がひょいと顔を見せた。どちらかと云えばひょろっとした体躯で、顔も厳ついとは程遠い細さを呈しているのにも関わらず、何を思ってか小さな丸いサングラスで瞳の奥を見せようとしない。人格者であることもそうだが、どこかちぐはぐな印象を抱くのは雪芽の付き合いが長いからだろうか。
いつか聞こうと思う。
――どうして、自分を拾ったのかと。
「てん……じゃなく、父さん。どした?」
「閉店だからね」朗らかな表裏のない笑顔を浮かべて彼は言う。「今日は友達が幾人かくるんだろう? 狼牙……は、わからないけれど、後は雪芽に任せてもいいかな」
「ん、大丈夫。アルコールはやらないし――あ、紅茶がいる」
「言い忘れていただろう? 大丈夫、ある程度は作ってあるよ。淹れ方はわかるね?」
「足りなくなったら自分で作れってこと」
「そうだ。ただし――」
ぴんと立てられた一夜の人差し指に視線を向けながら、雪芽は両手を腰に当てて続く言葉を奪った。
「ただし、右から四番目の茶葉しか使っちゃいけない。――もう父さん、あたしはそんな子供じゃないよ?」
「子供と大人の境界線もわからないやつが、一丁前のことを言うじゃないか。俺から見れば狼牙も雪芽もまだ子供だよ。親はね、どんな年齢になっても子供を子供として扱うものなんだ」
「へえ、そうなんだ。あ、じゃあ、あたしにとっての父さんは、いつまで経っても父さんってこと?」
「その通り。――何かあったら言いなさい、家にいるからね」
「わかった。ありがと」
「そうだ、もし狼牙が帰宅するようなら、一度顔を見せるように言っておいてくれるかな。あいつはもう二週間も戻ってないぞ」
「もうそんなになる? 子供としての自覚が足りないんだね、きっと」
「あっはっはっは」
最後に二度ほど、軽く雪芽の頭を叩いてから母屋へ消えたその後姿に、雪芽は少し頬を膨らます。昔からそうだ、一夜はできた父親で躾も教育も満足なほどに行ってきたが、厳しさと優しさはほぼ均等でありながらも、こうやって子供扱いをするようにスキンシップを怠ったことがない。
拾った責任だとか、親の義務だとか、そういった観念ではなく――彼が好きだからそうしているような行為に、雪芽は文句の一つも言えなくなる。
自然に行われる仕草。多くもなく少なくもなく、実に適温で実に好ましい間合いで、実に良好な関係を築いている。意図せず、意識せず、ただ自分が好きなようにしているのだ。
だから雪芽は一夜に頭が上がらない。尊敬や崇拝はおそらく皆無だが、それでも純粋に――単純に、好きだと言える人物なのだ。
雪芽が魔法師であることも、すんなり受け入れているし。
「正体だけは気になるけど……言うはずないもんなあ」
その正体を雪芽だけは薄薄勘付いている。何故ならば雪芽は記録者であり、記録とは正確でなければ記録にならないため、本質的なものを知ることができるからだ。
ただし厳密には、記録は知識ではない。だから薄薄、だ。
再び店内に戻ると、薄明かりの中で公人がまだ本と睨めっこをしていた。場所はカウンターに移しているものの、よくやるものだと感心しながら紅茶を淹れて差し出す――が、ただそれだけでは気付かない。
公人は没頭すると周囲が見えなくなるようだ。それは好ましいことだとは思うし、集中力が高い証左だとは思うけれど、雪芽には到底真似のできない所業だ。
だから先ほどと同じように、両手をぱしんと叩いて意識を外へと向けさせた。
「ん……よお」
「紅茶入ったよ」
「おーいつの間に。さんきゅ」
言いながら公人は紅茶に手を伸ばし――はたと気付いて、背後を振り返った。そこには時計がある。
「っと、もうこんな時間か」
「約束って二十二時だっけか。んー、まあ、そろそろかもね」
「どうかな。賭けるか? 俺は三十分程度の誤差を範囲内に見てるが」
「賭けない。あたしそういうの向いてないんだもん。賭け事はべつの人とやってよ」
「詰まらんやつだな。遊び心は忘れない方がいいぜ」
目元を解しながら本を閉じ、やれやれといった具合で公人は椅子に深く座り込んだ。さすがに長時間の集中で疲れがあるらしい。
「なあ雪芽、戯れついでだ」
「んー?」
「何もない場所から何かを作り出すには、どうすればいい?」
「何を?」
「何って、何かをだ」
ひどく漠然としてるなと雪芽は小首をかしげながら、人差し指を唇に当てた。
「それは無理だと思うよ」
「無理って、お前なあ」
「だって無理じゃん。そこには何もないんだから」
「――……あ」
「何かを作るなら、地盤がいるじゃんか。何かを作るなら、そこに何かあるんじゃないの?」
どうせ刃物のことだろうと雪芽は見当をつける。公人は刃物を創ることが役目のようなものだから。
刃物を創るなら、元となる物質が必要だ。いや物質でなくとも何かが必要となる。何もないのなら――創れるはずがない、それが雪芽の見解だった。
「そうか、何もないなら創れない。当然だ、そんなことは蓋然を通り越して必然だ。そこだな、――そこだ」
「どこよもう」
「どこかじゃない、ここだ。待てよ、なら解法そのものの前提を変えてやれば論理的な証左が挙がる、か……? 性急の可能性も考慮して、煮詰める必要があるなこれは。いや助かった、お前も役立つじゃないか」
「たまには?」
「そう、たまに――……待て、俺の紅茶は何処へ行く」
「たぶん排水溝の中かな」
「悪かった、言いすぎた、悪かった、紅茶」
「もう」
元より魔術の如何を知らない雪芽は役立たずだ。それはわかっている、これも冗談の範囲だ。
「それより襲撃の――」
びくりと、公人が驚いたように躰を震わせた。何だろうと首を傾げた雪芽もようやく気付き、ああと吐息してもう一人ぶんの紅茶を淹れる。
いつの間にいたのだろう、いつきたのだろう――そんな疑問を抱くのを既に放棄した雪芽は、どうぞと声をかけてその少年の前に紅茶を差し出した。
「相変わらず、神出鬼没だね」
その少年は笑顔を浮かべていた。糸目が垂れ下がったそれを笑顔としか表現できず、ハーフパンツにパーカーといった服装もまた、少年であることを増長していた。
名を躑躅紅音と云う。
「名前がなくては存在を確立することができない。いいかい? 全ての存在に名は必要なんだ。そこで僕はこんな名前をあげようと思う――紅音、だ。躑躅紅音、それが今から君の名前さ。ちなみに拒否権はないぜ」
彼女のそんな台詞と共にそれは決定され、今では誰もがその名前を使っている。
紅音は口を開かない。糸目を少しばかり変えるだけで数少ない感情を表現するものの、決して言葉を口にしない。
「口にしない、ではなく口にできない。紅音はね、その必要性を理解していないんだよ。僕らは自然に言葉を口にして意志の疎通を可能とするけれどね、紅音はそれを不必要と考えているんだ。おそらく紅音は意志の疎通を言葉以外の手法で、しかも簡潔かつ大量に行うことができるんだろう。情報伝達の方法だね――だからこそ言葉を必要とせず、言葉にしない。ま、そんな所だろうね。そうだろ紅音――やれやれ、興味ないってさ」
紅音は頬杖をついてカウンター席に座り、紅茶を片手にひょいと上げて挨拶にすると一口飲んで窓の外を見た。
「――ったく、驚かすなよ。どうも気配を感じない。雪芽はよく平気でいるな」
「ん? 別に、もう慣れたから。よくくるし。いるのかな?」
実際には毎日のように顔を見る。決まって閉店した後に顔を出し、一夜がいる時はアルコールをやっている時もあるくらいだ。どうも一夜と紅音とは趣味が合うのか、黙していながらも良い雰囲気で飲み合っていたのをよく覚えている。
「まあいいか。いつきたのか考えても今の俺じゃ至らない。だいたいあいつは紅音に関して隠してることが多すぎる。だろ?」
そう問いかけると紅音は振り向き、苦笑に似た笑みに性質を変えた。
「……ううむ、よくあいつは意志の疎通ができるな。俺には、てめーで気付け馬鹿野郎と言われてる気分だ」
「んー」
そもそも雪芽は意志の疎通をしようとしない。上手く口にはできないが――紅音は存在しているだけで既に意味があるのだと、そう認識していた。
友達でも仲間でもなく、ただ在るべくに在る――ああ、それは誰に対しても同じか。
直後、からんと中身のない鐘が木の扉に当たった音がした。同時に彼らは視線を喫茶店の正面入り口に顔を向け、入って来た人物に声を投げた。
「ネイムレスか――」
「あ、ゴースト」
同音にはならなかった呼び声に、彼女は片手を上げて笑みを浮かべた。