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ハジマリの場、オワリの所  作者: 雨天紅雨
■2008年
2/790

01/09/21:30――姫琴雪芽・無意識の記録者

 雪が降っている。

 温かい雪など知らない。雪は総じて冷たいもので、現実として寒い時に雪は降る。低気圧の通過に伴い大陸から寒気が下りてくると、上空の温度は下がり雨は雪へと変化するものだが、愛知県野雨(のざめ)市においては珍しい部類の現象だ。

 けれどその日は、雪だった。交通事情に干渉するほどではないにせよ、歩道を行く人が足元に気を付ける程度には積もる雪だ。

 しかし、朝に凍るほど危険ではないだろうなと、(ひめ)(こと)一夜(いちや)は思う。時間はおそらく二十三時近く、もう二時間も降ってはいるが道路にまで積もる様子はなく、走行中の車の速度は落ちているものの、チェーンを履くようなことなどまずない。海が近い沿岸部なのだから――しかも太平洋だ――風の強さの方が寒さを増長させる。

 一夜は小さな喫茶店を営んでいる。立地条件の善し悪しはともかく、あまり固定客を掴めない店舗ではあるものの、半ば趣味で行っていることでもあるし、よほど赤字にならなければ問題はない。ないが、かといって経営意識がないわけでもなく、こんな時間に明日の仕込み前の買い出しを軽くするくらいには熱心だ。

 いや、熱心というのも場違いか。これも仕事なのだから、熱心であっても間違いはないだろうけれど、それでもやはり少し表現としては違う。

 かつり、と革靴が音を立てて止まった。雪もあって風がやや落ち着き、いつもよりも心なしか暖かく感じるけれど、露出した頬を刺す冷たさはあって。

 ――結界の類かな?

 そんな中で一つの気配を感じ取って足を止める。いや、これが実際に魔術師が人避けの結界でも張っており、それに感付いたのならば、そもそも一夜は素知らぬ顔で通り過ぎていただろうけれど、どうもそういった感じとは違っていた。

 なんだか――稚拙だ。

 隠れようとしていない。云うなればそれは、結果的に隠れることになってしまっているような、そんな違和感。まるで人が見つけても、見なかったものとして処理したくなるような――目を逸らしたくなるような、ただそれだけの事象。

 もちろん、このまま見過ごす選択肢もあった。その方が面倒はないし、一夜としては俗世、否、世界そのものに関わることを否定されながら生きているようなものだ。

 それでも、そんな自分が気付いたという現実を、捨ておくことはできない。

 ――これが何かの始まりなんだろうか。

 だとすればつい一ヶ月前に、少年を拾ったことがそもそもの始まりかもしれないけれど。

 数歩だけ戻って裏路地を覗き込み、ふらりと中に入ってすぐ、右に向かう通路の先に少女はいた。

 ぺたんと地面に腰をおろし、視線は定期的に文字を記すよう膝の上を動く右手に。まるで季節に合わない白色のワンピースはあちこちが濡れ、汚れており、けれどその姿が妙に場面に合った。

 ――何をしていると問うのは野暮か。

 おそらく今の彼女は記憶がない。できるのはこれから記録を積み重ねることだけだと、それがわかってしまうのが一夜の特異性であり、少女の持つ、いや担う宿命によるものだ。

 迷わず、着ていたロングコートを脱いで少女にかけた。するとようやく、こちらに気付いて視線を上げたため、片方の膝を地面につけるようにしてできるだけ視線を合わせてやる。

「寒くはないかな」

「さむ、い――」

 どういうことだろうか、そんな表情を浮かべて小首を傾げた少女はしかし、間もなくそれに気付いたのか、ぶるりと躰を震わせて一夜のコートを掴んで寄せた。

「……寒い」

「すまない、今気付かせるべきではなかったかもしれないね。それでも、自覚しなければ何も始まらない。君がここで何をしていたのか、何をしたいのか、何をすべきなのか」

「え、と……」

「俺は姫琴一夜だ。一応訊いておくけれど、君の名前は?」

「あたしは……知らない」

「知らない?」

「あたしの、名前は、知らない」

「空想の産物であっても名称があれば現実になるのに、現実として存在するのに名がないとなれば、問題だけれど、今の君は何を知っている?」

「知っている……ことは」

 何だろうかと思って一度視線を右手に落とした少女は、相変わらず動く手を意識して止め、そしてやはり右手は何かを書き始める。なんとなくそうしていた方が落ち着いて――。

「――記録する、こと、かな?」

「なるほど、そうかもしれない。けれど記録が一体何なのかまではわからないようだ」

 相手のテンポに合わせた会話などは、喫茶店の店主をやっていれば自然と身に付く。そうした人との交流は日常であるし、相手が子供だろうが何だろうが一夜にとっては関係がない。

「けれど、生きていくためには、記録だけでは足りないと、それはわかるかな」

「……生きる」

 呟き、僅かに顔を顰めるような仕草。知識としてそれを受け入れられるけれど、まだ理解には至っていない――それが、一夜の分析だ。

「あたしを……助ける?」

「――俺の意図がわかるかな」

「いと……」

 呟き、やはり顔を顰め。

「あたしがこうしていることに、否定的」

「否定的、か」

 間違ってはいないが言葉の取捨選択は未熟。理解は追いついても状況から適切な判断を下せるまでには至っていない。

 今の少女は、覚醒当初の情報整理段階だ。

「これはまた――難しい問題だ」

「難問……?」

「その通り。心情的に俺はここで手を差し伸べてしまいたいと思うけれど、その行為には躊躇してしまう。そこに付随する、つまり、手を差し伸べた行為に対する責任は理解しているが、果たしてこれが君の意志を阻害してしまうのか否か、そこまで見抜けるわけじゃない」

「意志」

「俺のじゃなく、君のだ」

「あたしの意志……?」

「そうだ。それだけは」

 彼女が決めなくてはならない。持たなくてはならない。

「ただ焦る必要はない。忘れなければ、蔑ろにしなければ」

「……うん」

「では行こう」

 言って、一夜は右手を差し出した。それを見て、顔を顰め、少女は顔を上げる。

「行く……どこに?」

「ひとまずは揺り籠の中に。……その前に、名前は決めておこう。そうだな、俺はこれから君のことを、(ゆき)()と呼ぶことにする」

「ゆきめ……」

「春の芽吹きを連想させられる雪の中の芽だ。なんとなく、そう思えたからね。けれど、これはあくまでも俺が呼ぶ名前だ。嫌なら後で撤回してくれても構わない。けれど一時的にせよ、そう呼ばせてもらうよ。――さあ、行こうか」

 彼女は今度こそ、その手を取り、立ち上がった。

 これより以前の記憶が戻ったとしても、彼女にとっての始まりは今、この時だ。



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