06/13/00:30――箕鶴来狼牙・蒼の草原
たとえ時間経過によって日付が変わったとしても、一日という区切りは睡眠によって得るものであり、それがない限りはまだ終わらない。
闇に紛れる黒い服、つばの大きな黒の帽子を頭に乗せた箕鶴来狼牙は、夜を照らす赤色のランプをやや遠目に見ながら、僅かにつばの位置を調整するように顔を隠す。
蒼の草原と呼ばれる場所で何かが起きた――その情報はもう野雨市内どころか全国に回っている。原因不明の爆発のようなものと出てはいたが、近くにまできた狼牙はむせ返るような魔力の残滓に吐き気を覚えるほどで、いるはずの警官がいないことにも納得してしまう。
――中には入ったのでしょうか。
一般人ならば自殺行為としか思えない。魔法師である狼牙でもこうして悩んでいるのだ。
自然界の魔力は常に存在する。よほどのことがない限りは消えたりしないし、魔術戦闘の後でも残留したところで害を成すほどのものならば、屍体がごろごろ転がっているほどの規模でなくてはありえない。
日本でそんなことが起こりうるか?
確かに屍体は出ている――はずだ。一般人の被害がかなり出ていると情報にはあった。けれど、そもそも魔術師は協会や教皇庁から睨まれているため、表立った闘争を行うことがない。あったとしても認可の下でか、人に見つからない場所で――最初から痕跡を残さないように手配する。
彼らは隠れることを常としているから。
――行きましょう。
何があるのかはわからないけれど、逃走することを前提に行動を起こす。狼牙は身を隠す術を身に着けている……とは過言かもしれないけれど、一般人に発見されるほど落ちぶれてはいない。闇と同化するよう吐き気を堪えて中に足を踏み入れ、正面ではなく左手に移動して入り口から離れ――その場の異常に気付いた。
おかしい。
存在すべきものが、いや、在るとないが同居していて、同居そのものが認められているようなおかしさ。
それは在る。だが無いのと同じ――そうなっていて当たり前。
「常識が塗り替えられている」
横からの声にぎくりと身を震わせた。縁を担う魔法師である狼牙にとっては存在そのものを感知できるし、しなくてはならない。だが彼女の存在は声をかけられるまで気付かなかった。
「――そう感じたのならば、君の感性も捨てたものじゃあないけれど、なんだいこれはまったく、やれやれ、今日だけで僕のツキはなくなるんじゃないかと思うほどに、――縁が」
どうにか顔が見える距離、セーラー服姿の彼女は笑みを表現して。
「縁が合うじゃないか」
まるで見透かしたように、そう言った。
「どうやら君は、法式そのものの使い方を知らないみたいだね。それは喜ばしいことでもあり、とても残念だよ」
「――法式は担うものであって、使うものではないでしょう」
「使っている、という自覚がないのは困りものだね。もちろん中には使えない魔法師も存在する。特定状況下でしか法式を発揮できない魔法師だ――が、それでも使える事実だけは覆せない」
「であれば、私は常に使っていると解釈できるはずですが?」
「解釈だって? なるほど、君はそれで使っていると? それは勘違いだ。とても残酷なことを僕は言うが、――それはただ存在しているだけだよ。君はただ状況に流されて人形でもできることをしている人間に対し、それを生きていると評することができるのかい? いいや確かに生きているだろう、けれどそれだけさ。ただ生きているだけだ。君の解釈では、君はただ法式を持っている、それだけのことじゃあないか。これのどこが解釈なんだい?」
「つまり、私は使いきれてはいない――と」
「使い切ることなんて誰もできないさ。それに君は勘違いをしている。いいかい、魔法師は確かに法則を担う存在だ。そこに間違いはない。けれど、重いものを運ぶ時に必ずしも一人で行わないように、一つの法則に対して一人で担う必要もないんだよ。それは一対であり、均衡が保たれる数になる。そうだな」
たとえばと、彼女は続ける。言葉を聞きながら注視し、既に随分と衣服が濡れていることから推察できる情報を、一つでも多く取り入れてやろうと狼牙は耳を傾けた。
「僕が知っている厄介な魔法師にはね、〈意味消失〉なんてのがいる。彼は限定状況下で法式を扱うタイプだ。つまり彼は普段、一般人でね」
「常時展開型ではないにせよ、法式の影響はあるのでは?」
「その通り――彼は最初から存在に〝意味〟が〝無〟い」
「なるほど、あなたとは違う」
「君には僕がどう見えているのかな?」
「続きをどうぞ」
彼女は、人間ではない。
いや人間なのだろうけれど、存在が曖昧すぎる。まるで偽物……そうではないな、これは人間を模した――贋作、だ。
「彼はね、何が厄介だっていうと――限度を知らないんだ。いや知る必要がないと言うべきかな? まあそれが嫌悪であれ憎悪であれ好意であれ、結果は同じか。……彼が法式を扱える状況はただ一つ、〈意味名の使役〉が眼前の存在することだけだ」
「二人で一対、ですか」
「理解が早くて助かるよ。ただこちらも厄介だ。彼……便宜的にネイムと呼ぼう。ネイムは常時展開型でね、常に〝意味〟を〝在〟るものとして捉えている。ただし君と同じく、それはただ使えているだけで、使ってはいない。もちろん限定条件を満たさずとも使うことは可能だよ。ネイム自身がどう思っているのか定かじゃあないけれどね。何しろ僕は顔を合わせたこともない」
ならばそれは、ただの知識だ。けれど、だったらどうして、それほど実感を込めたように話せる? 話術の類か、あるいは――まさか。
「この場所で、二人は出逢ってしまった」
「――」
想定の話から、現実の話への切り替わりが唐突で、驚きが顔に出たと思った直後、僅かに帽子のつばに触れて顔を隠す。だが視線が切れない――目を逸らすことが、なぜかできない。
「残念ながら僕が気付いたのは今日、まさに出逢ってしまった直後でね、ツキがあると言っておきながらこのザマだ――ま、止める理由なんて僕にはなかったんだけれどさ。かといって観戦していたわけじゃないぜ? 何しろ、観戦なんてしていたら僕もこの状況の一部になってしまっていたからね。やれやれだ」
「制限のない、対立する二人が出逢ってしまった……?」
因果関係が強く絡み合えば、縁は合いやすくなる。けれどそれは表面的なもので、それが因縁ならばまだしも、因果ならば逆に遠ざけることも多い――それは、狼牙が経験したことだ。
人との出逢いに偶然はない。ならば、どういった縁が合ったのか?
「対立なんて生易しいもんじゃないぜ」
この状況を見ればわかるだろうと、彼女は言う。確かに、内部へ入っているが出口を背にしていなければ、その境界線の近くにいなければ、そうであっても不安でどうしようもないのが事実だ。
「たとえばそこに転がっている石があるだろう。あれにも存在する〝意味〟が付加されているわけだ。ネイムはその意味を変更することができる――まあ、そうだね、大げさなたとえは止めておくとして、うん、今は存在しているだけだが、いつか誰かを転ばせる石だ。そこで、今誰かを転ばせる石にしてしまおうと、こんな感じだね。対して、レイドはその〝意味〟を消すことができる」
「――まさか、それは、矛盾を……悪循環を生むのでは」
意味を変える――使役する。
使役する、という意味を消失させる。
使役を消失させる意味を使役して、使役を消失させる意味を使役しようとする意味を、消失させ――そんないたちごっこが、終わりの見えない平行線が、制限なく行われた現実が目の前にあって。
この程度で済むものか、と疑念を抱くことで背筋を走る悪寒を無理やり振り払う。
「幸運だったのはね、二人が最初に捉えた意味が野雨市ではなく、蒼の草原だったってことさ。ま、不運と紙一重だけれどね。さすがに野雨全域にやられていたら僕じゃ対処のしようがないし、どうしようもなかったよ。僕の予想では並行させて内部のあちこちの意味を取り合ったんだろうぜ。時間にして――そうだな、僕の予想では五分に満たなかったはずだ」
「五分……」
三百秒。
長いのか、短いのかがわからない。
「待って下さい。では――何が終止符を打ったというのですか」
「三人目だよ」
「……なるほど。理解が早くとも、それが合っているかどうかは別物、ですか」
「褒め言葉だったんだぜ、素直に受け取っておくものだ。それに三という数字がどれだけ安定しているか、わかるだろう?」
「ええ――三脚は長さがどうであれ面が一つしかできませんから」
「そういうことだ。最後は〈意味含有〉――彼女もまた、この状況下でしか法式を行使できない。つまり、二人が出逢った瞬間に彼女はただ安全装置としての役割を果たすために、強制的に法式を稼働させられる。その時にどこにいたのかは知らないけれど、意識とは無関係な召喚に混乱もしただろう。彼女の法式は――あらゆる〝意味〟を固定化、固着させることだ。つまり彼らにとって必要な意味への操作を無効化する、ただそれだけの行為」
「――それだけで、収まるのですか」
「収まらないね。けれどそこで、第三者がようやく介入できる。それにもとより彼らは、相手がいる場所には近寄らないからね――今回はあいつの、いやレイドが気まぐれを起こしたのが原因だ。その理由も把握できたし、次はたぶんないだろう」
そうであって欲しいねと、彼女は肩を竦めた。
「まったく、長い一日だ。それもこの辺りで終いにできそうだけれどね。君も今日はきちんと眠った方がいいぜ。思考の整理には睡眠が必要不可欠だ――」
彼女の右手が動き、何かが飛んでくると思った瞬間に狼牙は左手で顔付近を守る。この状況下だ、彼女の動きがどうであれ、警戒はしていた。つまりそれは反射的な行動で。
空気を掴んだ、と思えた。
「何を」
「うん? いや、僕はもう帰るよと続けるつもりだったんだよ。こんな終わった場所で暇潰しをしてみろ、集まってきた妖魔に喰われるのがオチだぜ」
「妖魔……?」
「あー疲れた、やれやれ雨にも随分とうたれてしまったな。明日の天気はどうなんだろう、まあその時に考えればいいか」
「ま――」
待て、そう言った時には既に彼女の姿は消えていた。
この時点で、気付けるのは狼牙だけだ。けれどその狼牙は残念ながら気付けていない。
彼女が公人と接触した人物であることを薄薄感じながらも――その贋作ぶりに確信を得ても、それでも情報が多すぎた。
一方的な話を聞かされ、そしてこの状況下。仕方ないと、それを言い訳にしてもきっと赦されるだろう。
彼女が。
縁を合わせるために行動していたのだと――遅く、その結果が出た時に狼牙は気付くのだ。