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ハジマリの場、オワリの所  作者: 雨天紅雨
■2011年
14/790

06/12/22:30――椿青葉・意味の行方

 ――雨だ。

 鼻に当たる水滴にふと意識を戻せば、空から落ちる小雨に気付く。本降りではないにせよアスファルト全体を濡らし変色しているほどの雨の中、彼女がそれに気付いたのは上着が水で三割ほど重量を増してからのことで、今さら遅すぎると誰かに言われても仕方のない状況だった。

 いつもの癖で顔を上げるのと同時に肩にかかった髪を後ろに流すため右手を上げるが、そこに髪はなく、ただ空を掻いた。見れば右側から左にかけて斜めに、綺麗にさっぱり切断されている。

 生きている、そんな実感すら右から左へすり抜けた。元より中立を好む性格ではあったものの、以前ならば――ほんの数時間前ならば、その実感にほっと胸をなでおろしたものだが、残念ながら今はそうでもない。

 たった数時間で、変わってしまったのだ。

 存在が、価値観が、世界が、己が、それは小さな変化かもしれないけれど多くが重なり、混乱もそこには当然のようにあって、だからこそ現実の認識が遅れていた。現状であっても――何も手につかないほどにわからないからこそ、落ち着いてしまっているだけだ。

 いや。

 それは途方に暮れている、と表現すべきか。何しろここがどこなのかもわかっていないのだから。

 肩の力が抜けると肌寒さを感じた。思わず両手で己を抱え、どこの田舎道だろうと通りの奥に見える点滅信号を発見。住宅はあるし車の音も聞こえるので大通りからそう外れてはいないようだが、もう陽が落ちる頃で周囲はうす暗く、街灯が点滅しているのがいやに気になる。

 役目が与えられた。

 おそらくこの見解は正しい。だが彼女、椿(つばき)青葉(あおば)にしてみれば押し付けられたとも思えるし、自分が特別だなどとは思えずにいる。――いや、思えるはずもない。何が起きているのかすらわかっていないのだから、自分が何をどうしたかなど、落ち着いて考えても正解など見えはしないのだ。

 だが、考えることを止めてはならない。何しろ自分のことだ、把握しておくに越したことはないのだから。

 しかし――問題だ。

 何しろ両親を失ってしまった。このままでは生活も困るし、スカートのポケットに手を入れ――ようとしたが、そもそもスカートは裂けていてポケットがなかった。見ればタイトスカートも短くなってしまっていて、上着も目立った場所ではないにせよ損傷がある。まるで戦場帰りだと苦笑もしたくなるが、伝える相手もいないのだからと、青葉は感情を表に出さない。

 所持金もなし、身分証明もない。困ったものだ。

「――困った、と顔に書いてある様子だね」

 明らかに己へと向けられた唐突な声に、躰が凝縮するように驚くのがわかる。周囲を見ても人の姿はない――が、ふらりと点滅している街灯を背にしてセーラー服の、しかも傘もささず濡れている姿の少女が発見できたが、まるで空間から突如として出現したように思えた。

 一般的なセーラー服。髪は短く小柄な体型で発育もそう良くはない。年齢にしてもそう変わらないだろうけれど、どこかその視線に冷たさが含まれている。

「おっと、驚かせたようで悪かったね。偶然通りかかったわけじゃあないぜ、断じてだ。そして僕は君を知らない、これも事実だ。ただわかっていることもあってね。どうだろう、君は僕の話に耳を傾けるだけの余裕があるかい?」

「――ない」

 思わず否定してしまったが、彼女はさして気にする様子もなく笑った。

「事実、その通り、まさしく今の君に余裕がないのは明らかだ。つまり君の返答は正しく、わかりきって問いを投げた僕が愚者なのだろう。見てわかるだろう、と続けなかった君も、そして警戒している態度すら正しい。だから僕はこれ以上近づかないし、一方通行であっても言えるだけ言って通り過ぎるとしよう」

「……本当に一方的ね。名乗りもなしかしら」

「それは違うよ」彼女は小さく揺れるように笑う。「名乗りがないのは間違いだ。名乗れない、は正しい」

「回答合わせをしているつもりはないの」

 意識して正誤を口にしていると見抜いた青葉が冷たく言うと、彼女は目を丸くしてから両手を小さく広げ、肩を竦めた。

「なるほど、君が正常なのはよくわかった。こんなところまで飛ばされてきていたんだ、さすがに追いつくのに時間がかかったけれど、君がこの場から動いていなかったのが助かったよ。自意識を取り戻したのはいつくらいかな」

「わからない」

「うん、それでいい。僕の問いには律儀に応える必要はないんだ。何しろ、問いかけることではなく、むしろ僕は問われる立場だからね。――さて、時間も惜しい。とりあえずざっと説明だけしておこう。僕にもツキはあったけれど、君もそう捨てたもんじゃない」

 エミリオンのお蔭だなと、彼女は呟いて一度視線を切り、苦笑したようだ。

「川を利用した貯水池であり、周辺を整地して作った公園――名称、蒼の草原はもう限られた、いや、一般人が立ち入れない場所になった」

「――」

 やはりそうなのか――だがなぜ、そんな肯定と疑問が入り交じり言葉がでない。

「君がいなかったら収束しなかっただろうね。僕だとて、こうして事後に面白半分で君に接触しているようなものだ。実害が僕に降りかかったわけじゃないからね」

「知っているのね」

「いいや――っと、まあ、そうだね。僕はここで知っている、と断言することができないんだ。すまない。ただ現状、生存者はいないよ。君たち三人を除いてね。僕から見た限りは事故だ。責任の所在を明確にしたいとも僕は思っていないし、君は君で解決すればいい。――さて」

 時間がないのは事実でねと言いながら彼女は何かを放り投げ、勢いがあったためか思わず青葉は掴んでしまう。

 何かを掴み、手を開き、――そこには何もなかった。

「……何をしたの」

「僕の権利に則っただけだ」

「どんな権利よ、それ」

「さあ、その辺りの説明はまだしたくはないね。とりあえず明日くらいには、だいたいの事情がわかるはずさ――おっと、知ることができる、と僕もまた正しく伝えるべきなんだろう。やれやれだぜ」

「私を混乱させにきたのかしら?」

「あはは、その認識は面白いな。確かにそうだ、僕は君を混乱させている。最初から混乱している君に何の事情説明もなくただ一方的に情報を投げているんだ、それが目的だと思ってもおかしくはないぜ。おっと、ここからは助言だ」

 彼女は言う。

「そう遠くない時間にここを通りかかる人物がいる。その男、いや少年はきっと君を発見して通り過ぎるけれど、過ぎたところで思い返したようにため息を落として戻ってくるはずだ。そして君に声をかける――何をやっているんだ、とね。どうせ君は行くあてもないだろうし、ここがどこなのかも知らないんだろう? 知恵が回るんだったら、上手く使って状況整理でもするんだね。少なくとも雨のない場所で眠った方が楽だぜ?」

「――あなたは、私を助けたいの?」

「うん? どうだろう、助けたいか……その行動は、僕には似合わないしできない気もするな。やればできるのかどうか、確かめてみるのも良いけれど、そのためには釣り合う犠牲も必要になる。まあ何だ、これは僕の気まぐれみたいなものさ。そして、僕にとっては必要でもあるか。――縁が合ったら、また逢おう」

「椿青葉よ」

 すぐにでも消えてしまいそうだったため、何を問うのでもなく迷わず名乗ると、彼女は面白そうに笑って、覚えたと、そう言って背を向けた。戻る時は先ほどとは違い、空間に消えるのではなく、ただ歩いて街灯の奥の闇に姿を隠しただけ。

「ヴォイド、だったかしらね」

 空間の意味合いを持つ言葉は。それとも虚数?

 小さく吐息して緊張を解くと、また寒さを感じる。それと同時に、寒さを感じる己を正常だと――少なくとも大きな変調はないのだと、確認することもできた。

 しかし、本当に何だったのだろう。言いたいことだけ言って、特に説明もなく去ってしまったため、目的がわからない。まさか青葉に逢いにきただけ、なんてことはまずないだろうし。

 それに、助言の方も気にな――。

「……」

 目の前を、制服姿の少年が通り過ぎた。投げられた一瞥は今まで青葉が感じてきた赤の他人が向けるものと同じだったが、まさかこんなに早く彼女の助言が現実になるとは思っていなかったため、そのまま無視して掌を見た。

 何かを受け止めたはずだ。しかし、それはない。まるで溶けて消えたように――。

「……はあ」

 ため息が聞こえ、ぎくりとして顔を上げると視線が合って。

「何をやってるんだ、お前は」

「――え?」

 まさに、まるで予言だったかのような台詞に対し、反応ができない。そうすると、がりがりと頭を掻いた少年は自然な動作で青葉の頭上に傘を動かす。しかし、距離は二歩ほど離れたままだ。不用意に近づいてこない。いやもう近いのか。

「ここは喫茶店じゃねえし、貸し衣装屋は近くにない」

「どういう意味、かしら」

 意味、という単語を言った瞬間に小さな頭痛があった。だが表には出なかったはずだ。

「待ち合わせにゃ適さねえと言ってるんだ」

「待ち合わせをしているわけではないの」

「知ってる」

 知っている? まさか青葉がここにいることを――と、先ほどの彼女を思い出して警戒しそうになったが、ただの冗談だと少年はつまらなそうに言った。

「そうは見えないってことだ。それで?」

「……なに」

「だから、ここで何をしてるんだと訊いただろ」

「あ、ああ……そうね、ごめんなさい」

「――いいぜ。ワケアリだろう、俺の住むマンションが近くにある。来いよ」

「え?」

「それが何であれ、素直に謝罪できるヤツを俺は信頼する。いいから来い――この雨の中、野宿するわけにもいかねえだろ。おせっかいだと思ったら途中で帰れ。……ほら持てよ」

「いい。もう濡れてるもの」

「だったらこれ以上濡れないために使えよ。それともあれか? あー、なんだっけ、こう、施しを受けるのを嫌うタイプか? それなら素直に畳むけど」

「そうではないけれど」

「あっそう。まあそう遠くねえし、いいか」

 押しが強く世話焼きかと思えば、反応を見てあっさり意見を撤回する。押し引きというより、他人との距離を上手くとれているようで、常に一線を引いてしまう青葉にとっては羨ましくも思う人物だ。

「っと、一応名乗っておくか。俺は嵯峨公人だ。名前で呼んでくれ、姓はあんま好きじゃない」

「わかった。私は椿青葉よ、名前でいいわ」

「椿じゃ駄目なのか?」

「私が名前で呼ぶのに、そちらが姓では不釣合いでしょう?」

「あ、そう。別に釣り合ってなくてもいいだろうって、俺は思うけど、お前がそういうなら、そういうことにしておくか……」

 ちらりと投げられた一瞥は、先ほど投げたものとは違い、どこか気遣いに感じた。

「俺はだいぶ前に、親とは離れててな。一人暮らしも長い。まとまった金を置いてったから、生活はそう苦労してねえけど。……ま、心情的には親を嫌ってる。猫を一匹拾ったところで、面倒が起きるわけもねえ」

「――猫と一緒にしないでちょうだい」

「似たようなもんだろ。雨を嫌わないなら犬か?」

「うるさい……あなただって雨を嫌ってないでしょう?」

「良い金属は水を好むもんだ」

「――え?」

 ここだと、返答せずに公人はマンションに入る。まるでホテルのような待合室が一階にはあったが無人であり、ソファに座って読書をしている男性が一人いるだけだ。大した挨拶もせず、一直線にエレベータまで行くと、青葉が入るのを待って五階のボタンを押した。

「一応、管理人は別に雇ってるが俺の個人所有資産だ。経費もかさむが、一応は黒字を保ってる。住人の大半はこんなガキが所有してるなんてのは知らない。管理人に口止めしてるわけじゃねえけどな」

「……そう。面倒な人生ね」

「はは、なかなかいい言葉だなそれ。面倒事が苦になるかどうかは別にしてな」

 エレベータを出てすぐの扉を二つの鍵で開き、中に入る。足元を見ると靴下まで濡れていたため躊躇したが、早く来いと急かされて上がると、場所の説明はなしに一直線で一つの部屋に案内された。

「選べ」

「なにを?」

「着替えだ。……あー、そうか、そりゃ他人の家で勝手に引出開けるわけにゃいかんか」

 箪笥を片っ端から開き、隣にあるクローゼットも開く。

「見ての通り男ものしかねえし、俺は無精者だから同じ系統しかないけどな」

「……本当ね」

「頷くなよ、傷つくじゃねえか――事実だが。飯は?」

「いらない」

「食えよ。俺も食うついでだ。お前が風呂入ってる間に作っておく」

「あまり空腹を感じていないのだけれど……」

「落ち着いてない証拠だな。風呂はそこの廊下を進んだ先にある。一応、脱衣所の鍵はきちんとかけろよ。――あー腹減った」

 いや風呂場まで案内するだろう。というか監視くらいしたらどうなんだ、と言えば、それがわかってるならいらんだろ、と返答があった。信用されているようでどこかむずかゆかったが、適当に衣類を掴んで風呂へ直行する。これ以上、部屋のあちこちを汚したくなかったからだ。

 風呂場はかなり広かった。青葉の自宅とは比べ物にならない――ああ、そういえば両親がいないのならば、あの自宅の扱いはどうなるのだろうと、わずかな悲しみを含めて吐息を落とし、贅沢かとも思ったが浴槽に湯を溜めつつもシャワーを出して浴びた。

 冷たかった躰に熱が戻る。指先が僅かに痺れていたのは血のめぐりが良くなったためか、それともただの錯覚か。

 ――あの少女は一体なんだったのだろう。

 公人のことはこれから当人に訊けばいいし、軽く質問の内容を整理しておく程度でいいだろうけれど、彼女のことはそうもいかない。

 危機感はあったか? そもそも青葉は今まで一般人として生きてきたし、たったあれだけの会話で他人を見抜くことなどできないけれど、それでも敵意のようなものはなかった、と思う。

 ただ、公人のことをぴたりと言い当てた。事前に打ち合わせでもしていたのかと疑うのは自然な流れなのに、公人の態度にはそれが一切ない。だとすれば、彼女との会話そのものに信憑性がなくなり、公人に確認するのもなんだか憚れる。

「疑問ばかりね……」

 後回しにしてはいけないのに、どうしても解決策、それどころか現状の理解にすら着手できていない。圧倒的に足りない知識が問題だ。

 しばらく湯船につかって躰を温めた青葉は出るが、しかし、どこに公人がいるのかもわからない。とりあえずタオルを肩にかけて不揃いの髪から水滴が落ちないようにしつつ、適当に歩いていると部屋の広さに驚かされる。扉を開けてはいないものの、廊下を歩く限り部屋の数は七つ――3LDKはある計算だ。

「あー? もう出たのか?」

 声が聞こえたため、そちらの方向の扉をあけるとダイニングキッチンがあった。公人はエプロンをつけて調理場に立っている。

「女の風呂は長いって知識も、こりゃ考え物か」

「こんな状況では落ち着けないのよ」

「ああ、なるほどな。まだ時間かかるし、ちょっと待ってろ」

「それは構わないけれど、軽く質問してもいい?」

「なんだ?」

「ここはどこなのかしら。ええと、そう、地名のこと」

「野雨と杜松の境界辺りだ。近くにテーマパークがあって、国道も走ってる。つっても、ちょっと離れればだいぶ田舎だけどな。最近コンビニもできた」

「そう……私は、野雨に居たはずなのだけれど」

「へえ。終電はまだだが、戻るのはおすすめしないな。ちょっとした騒ぎになってるぜ。なんでも蒼の草原――って知ってるか? あの場所で、えらいことが起きたらしい。爆発だか何だか、詳しくは知らねえよ」

「……そう」

 わかっている。

 覚えている。

 何が起きたのか、そして何をしたのか。ただ、そこに理解が追いつかない。

「なんだよ、もしかしてそういう事情か?」

 火を止めて顔を見せた公人は既に制服から部屋着に着替えている。もっとも、今の青葉と同様にスラックスにワイシャツをだらしなく着ている状態だ。何かと思えば、目の前に紅茶を置かれた。

「あ、悪い。ミルクと砂糖はねえ」

「ありがとう、大丈夫よ。……けれど、そうね。詳しくはまだ言えないけれど、たぶん私が原因の一旦……」

 冗談だと思うだろうか、それとも真に受けるだろうか。公人自身の反応を探ろうと素直に口にした青葉はしかし、視線が合って数秒も経たぬうちに公人は。

「へえ? どういう理由で言えないのかは知らんが、そういうことなら余計に今日は戻らない方がいいかもな」

 それを事実だと受け止めた上で、当たり前のように返答した。

「……訊かないのね」

「俺が刑事に見えるか?」

「ふふ、そうね。根掘り葉掘り訊く職業ではなかったわね」

 言葉のチョイスに思わず笑うと、さして気にした様子もなく公人は調理場へ戻り、そういえばと話を変える。

「青葉は食えないモンあるか?」

「そうね、魚類の卵系をそのまま出されると困る。加工してあればある程度は食べられるけれど」

「じゃ、嫌いな食べ物は?」

 食べられないものと、嫌いなもの。それは同じであって違うのを当たり前のように言う。遠回しな、それでいて丁寧な気遣いだと紅茶を片手に青葉は思う。

「特にないわ」

「オーライ」

「……あら、おいしい。紅茶なんて、ティーバッグしか飲まないけれど?」

「フォートナムメイソンのオレンジペコだ。まだ封空けて二日だから香りの持ちもいいだろ」

「詳しくは知らないけれど茶葉よね。よく飲むの?」

「わからん。一ヶ月に一缶くらいか? たぶん、そんなもんだ。二つや三つも缶を開けると香りが飛ぶから、一つ開けたらずっとそれだ」

「……そういえば、家事はきちんとやっているのね。男性にしては珍しいでしょう?」

「青葉はどうなんだよ」

「両親と住んでいたもの、やったことなんてほとんどないわ」

「ああ、そっちが一般的か。自分の身の回りだからな、最低限はやってる。掃除や片付けは面倒だが、今のところ俺がやらなきゃ誰もやらんし。よっぽど時間のねえ時は業者に頼んで徹底的に掃除してもらってるが……あー、そういやまだ一度しかやってないな」

「几帳面なのね」

「まさか。必要に迫られて、嫌嫌やってんだよ」

 その割には未使用のバスタオルも丁寧に畳まれていたし、新品特有の匂いがなかったのだから一度は洗濯しているはずだ。衣類もきちんと区別してあった。

「シェフ、今日のメニューは?」

「鶏モモのコンフィとコーンスープ。この前、何を思い至ったのかクルトンを大量生産したからな……あとはカルボナーラと、ポテト。デザートが欲しいなら、昨日の夕方に作ったトロペジェンヌがあるけど?」

「ごめんなさい」

 何の呪文だろうか。いやもちろん、コーンスープやカルボナーラとかはわかるけれど、コンフィとかトロペジェンヌとか意味不明だ。

「えっと」

「あー、最近はフランス料理が中心な。半年前はイタリア料理系を適当にやってた。外食は高くつくからな……」

「それにしてはいやに手が込んでる……のよね」

「――レシピってのは面白い。無駄と思える部分にも必ず、相応の理由がある。どんな簡単な料理でも、それは同じことで――そういう部分を、まあ、覚えようってな」

「趣味でも、好きでもなく?」

「好意と好奇心が同じなら」

「ニュアンスの問題よね……」

「だからって、いつもこうじゃない。学校の給食も不満はねえし、喫茶店じゃ珈琲を頼むこともある」

「喫茶店? よく入れるわね」

「入れないか?」

「気後れはするわよ。私はまだ義務教育中の学生で、喫茶店はこう、雰囲気があるでしょう?」

「あー……そんなもんか。俺はガキの頃からカフェにはよく行ってたから、そういう感覚があんまねえんだ。――放置プレイだったが」

「そう」

 家庭の事情には口を出さない。どう考えても青葉は今、世話になっているのだから、世間話で済ませた方がいい。

「それなりに落ち着いたか? 一応、そのつもりで世間話を投げてんだけど」

「ええ、わからないことはまだ多いけれど、落ち着いている」

「落ち着き過ぎるなよ」

「……どうして?」

「過ぎるとたぶん、寝ちまう。疲れってのはそういうもんだ。せめて飯を食ってからにしてくれ」

「諒解よ」

 小さく笑って返答があり、しばらく沈黙が落ちたが、公人はしばし迷ってからそれを口にした。

「……お前も、どっちかっていうと外れ者だろ」

「はい?」

「俺と知り合いになるヤツで、会話が成り立つ相手ってのは大抵はどっか一般とは違うからな、お前もそうじゃねえかって話だ。なんとなくな」

「そうね、公人は変わっていると思う」

「よく言われる。で、距離を取るわけだ。正直助かってる。人付き合いは苦手だからな」

「そうは見えないわよ? 見ず知らずの私に、気遣いもしてくれてる」

「そんな俺と会話ができてるお前が特殊だって言ってんだよ。昔から話し相手が年上だったから、四十代以降が相手なら気が楽なんだけどな」

「あら、それは私が老成しているということ?」

「女性とは年齢の話はしねえ、それもおっさん連中の教訓だ」

「しっかりしてるわねえ……」

「話が合わない相手と延延会話してみろ。俺じゃなくたって嫌になる。――ああ、青葉の台詞じゃないが俺の方が老成してんのか。なるほどな、学校の連中には悪いことをした……相手にしないんじゃなく、俺が折れて合わせてやるべきだった」

 もう手遅れだけどなと、苦笑と共に言った公人が料理を運んでくる。

「お待たせ。小皿に別けたけど、多いようなら残せ」

「できるだけ食べるわ、ありがとう……公人、まさかとは思うけれどテーブルマナーとか」

「ああ? んなもん気にするな。いいとこで食事する以外、俺なんか適当だぞ。一応出したけど数も足りてねえだろ? 大抵はフォークだけで済ますし、面倒な時は箸だ」

「そう……安心した」

 そもそもテーブルマナーなど知らない青葉にとって本音だ。それでも公人はほとんど音を立てなかったけれど。

「おいしい……」

「躰が疲れてるから余計にな。その辺りの自覚ねえだろ」

「そうね、まだ眠気もないし……ただ頭は上手く回っていない気がするわ」

「気のせいじゃないからな。寝室を使えよ」

「公人の、でしょう?」

「もしかして他人が使ってるものは気に入らない性質か?」

「そうではないけれど……独り暮らしなら、一つしかないでしょう?」

「ああ、そういうことなら気にするなよ。今日は寝るつもりはない――いくら犬猫と同じ扱いだからって、他人が居ることがわかっていて、そう簡単に寝れるほど、俺とお前はお互いを知っているわけでもねえだろ?」

「そういうもの……なのかしら。映画みたい。でも、フィクションを参考にするなら、なるほど、そういう辺りは徹底してるのね」

「理由付けとしては妥当だから、とりあえず納得してベッドを使えと言ってるだけだ。扉を閉めてれば、そこそこ防音するし安眠できるだろ。鍵――は、ついてなかった気もするが」

「わかった、わかったわ。ありがたく使わせてもらうから」

「そうしろ。――さて、片付けは俺の仕事だ。とっとと行って寝ろ」

「眠れるかしら……」

「あっという間だ」

 公人の言う通り、疲れていたのか青葉は案内された公人の寝室のベッドに倒れ込んでから、数分もしない内に眠りについた。普段から寝つきの良い方だったので、それも相乗したのだろう。

 睡眠は記憶の整理。

 青葉はこの夜、この眠りで己を知ることになる。



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